ヨーゼフとアスキー
山間の中腹に、ヨーゼフは住んでいた。港町で漁業を営んでいたルブラン一家は、末っ子のヨーゼフが肺結核を患ったことで、静養のために山間へと引っ越さざるを得なくなってしまった。何しろ潮風というのは医学的には最悪の空気で、このままヨーゼフが港にとどまれば、回復の兆しがなくなる上に、余命は五分の一になるというのだから。
父のパージェスは今まで通り港町に残り、イワシ漁で得た稼ぎを月々送っていたが、それが時を経るごとに減少傾向にあることに母のミロは気がついた。何度書留を催促しても事態は好転せず、ミロはパージェスに妾ができたという事実を受け止めざるを得なくなった。
この収入ではとてもじゃないがやっていけない。それだと言うのにヨーゼフはわがままぶりを増すばかりだ。それも仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。うら若く病を患ってしまったヨーゼフは学校に一度も行っていない。ここには友達もいない。本来学ぶべき社会性というものを知らないのだから。
「ねえ、お母さん。おもちゃが欲しい。」
「はいはい、まったく。ほらアスキー、あんた何か古道具屋で買ってきておくれな。」
アスキーは擦り切れた学用カバンを肩にかけると、舌打ちをしながら隣の古道具屋に入った。
「おじさん。何かいいものある?」
「おおアスキー、これを貰っちゃくれんかね。ずいぶん前に遺品として仕入れたんだが、なにせ店の場所をとっちまう。モノは良いものだ。いいインテリアになるだろう。」
懇意にしているおじさんの頼みとあれば断れず、ミロとアスキーはその人魚姫の像をヨーゼフの部屋に置いた。おもちゃではなかったが、ヨーゼフは眼を輝かせた。
「人魚姫……名前はアンドレア? ねえアンドレア、僕に海のことを教えてよ。海から来たんでしょ?」
ヨーゼフはしきりに海のことを聞きたがった。アンドレアは久しぶりに、海の冒険譚や深海の亡霊の話を好きなだけ話した。そして、どうして海のことを知りたいのかも訊いた。
「アスキーは本当は港の学校が好きだったのに、僕のせいで通えなくなっちゃったんだ。僕は海のことを覚えてないけど、少しでもアスキーとお話をしてあげたい。」
アンドレアはずっとヨーゼフの側で海の物語を聴かせ続けた。いつのまにかアスキーも聴きにくるようになり、ヨーゼフとアスキーが二人で笑い合うことも増えた。しかしヨーゼフの病状は悪化し、アンドレアの物語を聞いていられなくなることも増えた。
ある時、パージェスの船が津波に巻き込まれてしまったという電報を受け、成年になりかかっていたアスキーはこれを機に港町へと出稼ぎに出た。ミロは三人の家族の身を心配するあまり、誰よりもやつれていった。アンドレアだけが何ひとつ変わらない美貌を保ち続け、ときどきヨーゼフにお話をしてやった。
パージェスの船がようやく海底から引き上げられ、ミロが絶望のあまり神経衰弱で亡くなった頃、久方ぶりに舞い戻ったアスキーがヨーゼフの狭い部屋に入ってきた。
「なあ、また話してくれよアンドレア。僕らの、海の話。」
ヨーゼフも、その日だけは珍しく体を起こした。
アンドレアは海をたゆたう命の光の話をした。何度も生まれ変わって、そしてまた海に散っていく男たちの物語。その命はいつまでもいつまでも魂として海面を照らし、深海を明るく照らす。そしてまた、君たちが生まれる。どんなに永遠に思われるアンドレアの命よりも遙かに永く、その輪廻は続く。
ヨーゼフは笑った。
僕のお父さんも、お兄ちゃんも海の男だったんだ。僕も、また生まれ変わって、今度は海の男になれる体になるよ。絶対。約束だよ。アスキー。アンドレア。
それがヨーゼフの最期の微笑みだった。
アスキーは家族たちの埋葬をひと通り済ませると、アンドレアを抱いて港町に戻った。しかし二度とアンドレアに話をせがみはしなかった。遥かなる海にその骨を埋めるまで、ただの一度も話しかけることはなかった。
アンドレアも久しぶりの潮風を吸い込みながら、満ち足りた気分で眠りについた。
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