ポロコフ
ポロコフはその彫像を、ある朝砂浜を散歩していた時に偶然発見した。飼い犬のペドロがしきりに吠えたてたからだ。
砂に埋もれた顔を一目見るなり、ポロコフはそれを持ち帰ろうと決めた。彼は自分の背丈ほどもある人魚像を持ち帰れるほど若くなかったが、近所でも親切な老人で通っている彼は、幾人かの御近所さんの力を借りてそれを家に運び込むことに成功した。
去っていく隣人に礼を言ってから、リビングでロッキングチェアを揺らしてパイプを燻らせつつ、その人魚像、アンドレアに話しかける。
「見たかねアンドレア。あの親切なマダムたちは、私を『ついにボケ始めたのかしら』という同情の眼でしか見なかっただろうが。」
ポロコフは、わずかにアンドレアがその首筋を揺らして頷いたかのように錯覚した。
「いや、今に始まったことではない。家内は白痴同然だったのでな。四六時中騒ぎ立ててお隣さん達には大きな迷惑をかけたし、かけられもした。しかしお前はものも言わない。そこが美しい。なあ、人魚姫。お前さんのいるところに帰りたいなあ。」
アンドレアは、ポロコフ爺さんには一度も声をかけなかった。彼は毎日毎日、海に独白するようにアンドレアに語りかけていた。しかし、むしろアンドレアが何か言うよりも多くのことをポロコフは受け取っているようだった。無言でいることこそが、彼を蠱惑した。
「アンドレア、私も家内と同じ病気になったんだそうだよ。お前のことも忘れてしまうのかなあ。私の娘、アンドレア。」
私はあなたの娘ではないのよとは言わなかった。
それからも、風化する波頭のように時間が経っていった。さざなみのような代わり映えのしない時間。
「さあ、ポロコフさん。迎えの馬車が来ますからね。」
精神診療所の若い男が丁寧な口調でポロコフに告げた。彼はよだれを垂らしながら、しかしその眼ははっきりと怯えを浮かべた。アンドレアは彼を抱きしめて安心させてやりたかった。しかし、叶わない。
「最後に」
ポロコフはかすれた声を出すと、枯れ枝のような手足を使って立ち上がり、アンドレアを愛おしげに見つめた。
「すぐそこの海を見たい。私一人でだ。私の大切な人の、故郷なんだよ。」
若い男は少し迷ったが、ポロコフをひとりで砂浜に行かせた。
アンドレアは乾いた瞳で、がらんどうになった家を見渡した。ポロコフが、奥さんの願いを聞き入れて、奮発して買ったと聞かせてくれた海辺の一軒家。
「私は、還るんだよ。アンドレア。君の元へ。我が妻。」
しばらく、穏やかな海辺の時間が流れた。
突如、空気を切り裂くように、堤防から飛び降りて海面に打ち付けられた音がはっきりと聞こえた。
診療所の男が飛び出していく。ペドロが喚き立てた。
アンドレアはポロコフの慈愛と皺に満ちた顔を思い出していた。
私はあなたの奥さんではないのよとは、決して言わなかった。
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