フィッツジェラルド

「船長、錨に絡み付いてたのはこいつですぜ。」

 野蛮な水夫によって運び込まれた人魚像を見たフィッツジェラルドは、その彫像にいっぺんにして心を奪われてしまった。

それも仕方ない。なぜならこれはアンドレアなのだから。

「これはこのまま操舵室に置いておきたまえ。」

 黒々焼けた水夫がぎくっとまぶたを引きつらせた。

「そりゃいけねえよ船長。そもそも人魚ってのは船乗りを迷わせて殺すものさね。錨に巻きついてたってのも気味が悪いや。」

 顔を赤く染めたフィッツジェラルドががなった。

「お前のような男にわかるはずない。これはトリトンの娘、美しき海の化身だ。海の 男の心を解さないお前は、さっさと持ち場に戻って肉体労働に勤しめ。」

 舌打ちをして水夫が出てくと、フィッツジェラルドはうっとりとアンドレアを眺めた。彼は白人の雇われ船長で、海のことなど知るはずもなかった。しかし誰よりも海を愛していた。

 アンドレアは航海中いついかなる時も、秋波を送るような流し目で、ひそやかに水平線を見つめていた。フィッツジェラルドは毎晩航海日誌をつけながら、キャンドルの元でアンドレアのつれない口元をいつまでも撫ぜていた。煌めく夜空が漆黒の海面に映っている間だけの、物悲しい蜜月であった。

 マデイラ諸島に差し掛かる頃には、フィッツジェラルドにはアンドレアの声が少しずつ聞こえるようになっていた。

「この先に氷山が? 馬鹿な、この海域でまさか。ああ、一応あの馬鹿どもに通達しておこう。」

 百戦錬磨の水夫たちはフィッツジェラルドの自信たっぷりな命令を聞くたびにうんざりした様子だったが、そんなブツクサも二時の方向にオーストラリア大陸ほどはあろうかという氷山を発見するまでのことだった。

 その後も、船底にネズミが大量発生していることや、所定のルートをわずかにずれていることや、突風がやってくるだろうことを次々とフィッツジェラルドが言い当てるので、水夫たちも彼を少しずつ見直し始めた。貴族もたまにはやるじゃないかという空気が彼らの間にも流れ始めた。

「船長は預言者の末裔かい?」

「だとしても、得体の知れない人魚の像を後生大事にしているのはいただけねえな。」

 フィッツジェラルドは水夫たちの視線など気にする暇もなかった。そんな愚鈍な人気稼ぎよりもアンドレアを見つめる方がよほど有意義なのである。

「ねえ、アンドレア。君は俺を愛してくれるかい?」

 そろそろ西インド諸島が見えてこようかというその日、アンドレアの言いなりだった海は突然フィッツジェラルドたちに牙を剥いた。予測も叶わなかった季節外れの大シケ。それはもちろん、アンドレアにも分からなかった。彼女は全能ではない。

「船長、もうだめだ。あんたも俺たちも悪運尽きたよ。さあ救命ボートへ。ここなら島も近いからきっと助かる。」

 フィッツジェラルドは豪雨の音にかき消されまいと絶叫した。

「だめだ。私は逃げない。」

「やめてくれよ。たかが雇われただけで海の男気取りかい?」

 呆れた声の水夫を睨みつけ、フィッツジェラルドは銀の小刀をどんと航海図の上に突き立てた。

「そうだ!私は海の男だ。そしてそれは、アンドレアの男だということなのだ!」


 人魚の像にしがみついたフィッツジェラルドの遺体は、難破から一日後に遠く離れた大陸の砂浜で発見された。海流に流されたとしても早すぎるそのスピードは、まるでアンドレアが彼を救おうと必死に泳いだ結果のようだった。

 もしそうであるなら、おそらく陸地に打ち上げられた時に、アンドレアはその役目を終えたのだ。なぜなら人間の脚を持たないアンドレアは陸を歩けない。何とか起き上がろうとしたフィッツジェラルドの重石にしかならなかったことだろう。

 仕方ない。取り憑いた男を殺す。それは人魚の宿命なのだ。


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