かずら橋
詠三日 海座
かずら橋
「かずら橋」
「お父……」
「どうした」
緋右は父を一瞥し、再び地面を見つめながらつぶやいた。
「服を、流しちゃった。川に」
息子の言葉を聞いて、阿嵌はわずかに顔色を変えた。竈の火に視線をやったまま、何やら考えを巡らしたようにじっと黙っていた。しばらくして、阿嵌は立ち上がった。
「頭首のところへ相談に行く」
「お父、ごめんなさい、おれ」
「仕方ない、お父がお前に任せっきりだから」
阿嵌はその場で腕を伸ばし、息子の声のする方へ差し出した。
「頭首のところまで連れて行ってくれ」
父は盲目であった。
源平合戦での争いの末、敗れた平家の一門は、山の奥深くへと逃れ、人に気づかれることなく、ひっそりと生活している。平家の武士として戦った父は、その最中で双眼を失った。いわゆる落人である。源家の追手を逃れた一派は、祖谷の森の奥地で集落を作った。
唯一集落までの通り道である吊り橋を壊し、山に生えるシラクチカズラの蔓を使って、あえて脆い橋をかけ直した。
集落以外の人間が立ち入ろうとすれば、すぐに蔓を斬って、橋を切り落とすためである。この橋を「かずら橋」といった。
阿嵌は息子の緋右とともに、祖谷の集落で暮らしている。盲目の父の代わりに、緋右が家事の多くをこなしていた。
緋右はこわばった表情のまま、父を導いて、けもの道を少し登ったところにある、頭首の住む家まで案内した。
「
阿嵌が家の入口の前で声をかけた。しばらくして人の気配がして、木の戸を開ける音がした。頭首は鹿燎。阿嵌には見えないが、大柄の男で、額に傷があった。
「阿嵌、何用だ」
緋右は父の背中に隠れた。野太く抑揚のない声に、見上げるほどの大きな身体。緋右は、自分の失態が知れたらどんな仕打ちを受けるのか、恐ろしくて仕方がなかった。
「わたしの目が不自由なばかりに、服を川に流してしまった。念の為、しばらく橋に見張りをやれないだろうか」
緋右は父を見た。大罪までと咎められることはないが、少しでも怯えていた息子を、父は庇ってくれたのだ。
衣服を川へ流してしまったり、麓で荷物を置いてきてしまったりすると、山奥に人が住んでいるかもしれないと、山下に住む村の人間に気づかれてしまう恐れがあった。姿を見られるなど言語道断である。
平家の落人の集落があると、悟られてしまわないためにも、なるべく生活の痕跡の残さぬよう、静かに細々と生きる必要があるのだ。
阿嵌の言葉を聞いて、無表情だった鹿燎は少し眉を上げた。
「しばらく雨だった。水嵩も増して流れも早い。すぐに川下の村まで流れ着くかもしれんな」
鹿燎は一息おいて継いだ。
「家事は息子に任せろ、阿嵌。自分のできることと、そうでないことを見極めろ。五日ほどかずら橋に見張りをやる」
鹿燎は依然としたまま、それでいて重々しい口調で言い残し、どこかへ去っていった。
緋右の緊張が途端に解けた。阿嵌は振り返り、息子の肩に手を置いた。
「お咎めなしだ。不安なら、お前も見張りに行くといい。丑三つからは大人に代わってもらえ」
それから、かずら橋にしばく見張りが置かれることになった。集落側の木の茂みに、簡易的な小屋を建て、集落の人々が交代で番をした。数えで十二になった緋右も、自責の思いからこの番に加わった。
幸い四日目に入るまで、集落以外の人間が訪ねてくる気配はなかった。一時は気を張っていた住人たちも、だんだんと安堵したような雰囲気が窺えた。
緋右も、日が落ちて暗くなるまでの間、毎日見張りの番をしていたが、一日目と比べて、四日目の夕暮れは、ずいぶんと不安が和らいでいた。
虫に刺されないように大きな羽織りをして、茂みに潜り、火は灯さずに、暗くなっていく渓谷を見つめていた。橋は、シラクチカズラの蔓で戸愚呂のように、骨組みに巻きついている。
以前に、縄のようにぐるぐると巻かれた、巨大なシラクチカズラの蔓を見かけたことがあった。力のある大人たちは、一年おきにあれを巻き付けて橋を新しくかけ直している。
その橋の戸愚呂も、蔓がぐねぐねと枝分かれして、人の手や毛のように見える不気味さも、深まっていく暗がりの中では目視し難くなっていく。夜が訪れようとしていた。
緋右はその様子をじっと見ていた。鳥が鳴き、木の葉が風にざわめく。山に住み始めた頃は、夜に潜む自然が怖くて仕方なかった。日中にひとりで洗濯に向かうのさえ不安だった。
山の自然に寄り添い過ごす生活に、ずいぶん慣れた緋右だったが、いつも脳裏では、生涯までこの狭い世界を生きていかねばならないという、不甲斐ない思いがあった。まだ若い緋右にとって、いつまで続けなければならないのかも分からないここでの生活は、常に「拘束」という文字が心中にあった。
いつか出られるだろうか。この祖谷を抜け出て、麓へ降りて、普通の人々と村の中で過ごすことは叶わないのだろうか。
もし、ここへやってきた人が源家の追手ではなくて、麓の村の住人たちだったなら。もし慈悲深い人々であったなら、その村で住まわせてもらったりすることなんてできないだろうか。
いつかこの息を殺すような生活が、放たれる日を思って、緋右は妄想を膨らませた。今にあの橋の向こうから、松明の明かりが見えないだろうか。そう考えると、暗がりの中から煌々とした灯りが見えたような気がした。
緋右は目を疑った。
妄想のあまり、幻が見えているのだろうか。それとも人魂だろうか。橋の向こうから明かりが近づいてくる。ちょうど人が手に持った具合の高さから、光がふわふわと、木々の暗闇を縫って漂っている。
そんな、まさか。
緋右は目を擦った。今の妄想は全部嘘だ、自分の弱みだと、頬をつねって、尻を叩き、こめかみを押した。顔を上げて渓谷の向こうを見やると、明かりは消えない。確かに松明の火の光が、こちらへ近づいていた。
「お父……」
――人がやってきたのだ。全身に悪寒が漂い、腕に鳥肌が立つのを感じた。緊張が走って、頭がつんと刺激される。
「みんな……」
自分のせいだ。自分が川に服なんか流したからだ。急いで大人を呼んで、橋を斬って貰わないと。
緋右は腰を上げて振り向き、一目散に駆け出した。急いで集落へ、みんなのいる所へ、もしかしたら間に合わないかもしれない。
かずら橋 詠三日 海座 @Suirigu-u
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