アグリカルチャ・リアリティ

多田八

アグリカルチャ・リアリティ

 目の前にかがむおばあさんが静かに泣いているのが、私の仕事の証でした。


 それでもなお、さらなる確信が欲しかったのです。おばあさんにやんわりと涙の意味を問うと、


「だって、昔のままだもん、いえ、それ以上……」


 私に背を向けた彼女と視線を揃えると、その先には夕日に火照った蕎麦畑が広がっていました。一面の白い花がそよ風に揺れ、ミツバチが花弁に取り付いて蜜を摘んでいる様子がうかがえました。


「十八になるまで毎日この景色を見てた」とおばあさんは語り出します。「畑を手伝わされて内心嫌だったけど、この花の咲く時期だけは好きだった。そう、あんな風にアオサギが飛んできて、農家には嫌われてるんだけど、あの鳥に憧れてた。除け者にされて、でも飛んでいく翼がある。そう思ってたんだけど、人って難儀なものね、わざわざあなたに頼んで、ここへ連れてきてもらってるんだから」


 おばあさんは縁側を降り蕎麦畑に飛び出て、くるくるとその場で回り始めました。自由で何者にも縛られない踊りを伴って、彼女は徐々に若返り、やがて私と同い年くらいの姿へと変わっていきました。


「本当は、あの有様でしょう、故郷にも向かえない」


 そうです。彼女の肉体は東京の病院で人工臓器に繋がれ、辛うじて生きながらえている状態なのです。外出はおろか、起き上がることさえ叶いません。この蕎麦畑は、依頼を受けて私が作ったオーダーメイドでした。


 空間の緻密な再生。それが私の仕事。


 縁側に腰掛けた私は、このお手製の世界とその中で動くクライアントを見つめ直しました。何百の称賛の言葉より、実際に喜んでいる人の反応を見るのが一番嬉しいのです。彼女は、今度はゆっくりと畑を歩き、葉や茎や土をじっくりと観察してから、花を一つ摘んで口に咥えました。


 それを見た瞬間に身構えてしまいました。味覚の情報は用意してないのです。「すみません、味の再現までは」と言いかけたところで、


「優しくて澄んだ味がする……ああ、これはきっと、あなたが作ったからだろうね。ありがとう、魔法使いさん」


 彼女の体はすっかり幼くなっていました。当人が無意識に望む姿へ、この世に生を受けた季節により近い形へ還っていることを思うと、不思議と私の心も洗われるのでした。


「いけない、もうこんな時間。お手数かけてごめんなさい。そう、きっと次は……本当に味を入れてもらうとき?」


 微笑んだ彼女が別れを告げて接続を切ると、広がっていた景色も空気も霧散して、薄暗い私の部屋が現れました。淡い夢からの虚脱も、それはそれで仕事がうまくいった証拠なのです。


 私はその場に体育座りして、しばらく考え込んでしました。おばあさんは味覚情報がないことに気づいていたようでしたが、それでも味がしたと言ってくれました。あれは一種のお世辞なのでしょうか。それとも本当に……?


 思考をミルフィーユのように積み重ねていると、お腹が鳴ってしましました。部屋の端でブーンと唸る冷蔵庫からプリン取り出し、じっくりとつついているところに新たな着信が入りました。


「仕事は終わったのか」


 部屋に薄っすら浮かび上がったのはじいちゃんの姿でした。うん、何も問題なかったよ、と私は答えます。


「最初、お前が仕事を初めるって言ったときには面食らったもんだ。学校にも行ってないっていうのに」


 いや、だからちゃんと授業は受けてるよ。


「ああ、そうだったな。もう古い人間には難しいな」


 でも今日のお客さん、じいちゃんと同い年ぐらいだったよ。


「そうかい、喜んでくれたか?」


 なんだか涙まで流してくれて。いい仕事したなーって感じ。


「だったら今の仕事が天職なんだろうな、恐らく」


 じいちゃんは優しい笑みを浮かべながらそう言ってくれましたが、一方で私の心はどこかチクチクと痛むのです。じいちゃんが大切に守ってきた土地を、私も守らなくてよかったのでしょうか、と。先祖代々の家業である農家を継げるのは私しかいませんでした。


 あのね、じいちゃん……


 秘めていた想いが自然に言葉として溢れできたのは、あのおばあさんの幸せそうな顔を見たのもあるでしょう。柔らかな光が差し込む中に、ひっそりと隠し事を置いておくのは正しくないように思えたのです。


「そんな悲しそうな声をするんじゃあないよ。お前は立派に継いでいるんだ」じいちゃんは急に真剣な声色で言いました。「年寄りにはよく分からんのだけど、色々な場所を『開墾』して回ってきたんだろう。荒れ地を切り開いて耕して、種を植えて、草木の成長を見守ってきた。だから、それで十二分なんだわ」


 それを聞いてとても不思議な気分になりました。確かにじいちゃんは昔気質の人で、かといってそれが「古い」だなんて思わないのですが、そんな人が私の仕事について私以上の理解へたどり着いていたようなのです。


 私の仕事は農業と同じ。存在しない味覚さえ生み出せる……


 じいちゃんは思い悩む私へ、「じっくり考えてみればいいさ」と声をかけて切断しました。優しい姿がすっと消え、部屋の薄暗さが一層際立ちました。


 降って湧いてきたような二つの経験は、私を一つの結論へと導いてくれるような気がしました。この生活を選んでから、心の隅でずっとくすぶっていた引け目を溶かしてくれるのかもしれません。そう思うと居ても立っても居られず、私は部屋を開け、縁側から裸足で外の世界へと飛び出しました。


 圧倒的な夕日の時間。地平線の彼方まで連なる、白い花の蕎麦畑。これが私の先生でした。湿った土に馴染んだ足、そよ風にゆったりと揺れる葉、飛び交うミツバチ。感じたまま全てをあのおばあさんへ贈ったのです。じいちゃんの言う、開墾の成果として。


 耳元で羽音がして、心躍らせながらその場へしゃがみ込み、じっくりと花を観察します。あまりに美しい造形から、これも偽物なんじゃないかなんて古典SFのような思考が頭を過ります。ですが、


「本物か偽物かなんて、大した問題じゃないんだね」


 小さく美しい花を摘んで、私もチュウと蜜を吸いました。優しくて澄んだその味は、私の呼び起こしたおばあさんの記憶にぴたりと一致すると信じられるのでした。


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