第7話 双つ鼻



 森が静かすぎるとは思ったのだ。

 葉っぱを集めた帰り道になるまで違和感を後回しにしていたのは失敗だった。


 いつもと違う。いつもならフラァマは一人かお師様と一緒で、ルーシャなどいなかった。

 静かすぎるのはルーシャのせいだと、ルーシャの物音が大きすぎてのことかと考えた。考えようとしなかった。



「……」


 地響き。

 かなりの巨体が闊歩する気配。


 生えている木々に体をぶつけているのだと思う。ずん、ずず、と。荒ぶっているわけではなく一定の間隔で。



 森は平坦ではない。気配のする方角は盛り上がった丘のようになっていてよく見えない。

 日はまだある。暗くなったらそれこそ迷うのだから日が沈みだす前に帰る予定だった。


「し」

「……」


 物陰に隠れて指を唇を当てるフラァマに、無言でこくこく頷くルーシャ。

 さすがに声をあげてはいけないとわかるだろう。ここで叫び声でもあげられたら助けようがない。



 相手はなんだろう。フラァマたちに近付いてきているのか、ただ通りかかっただけなのか。

 周辺に普段はいない巨躯の獣がいたから他の獣たちが逃げ出した。だから森がいつもより静かだった。


 フラァマの判断ミスだ。違和感はあったのに。

 木々の陰にルーシャと共に体を押し込み、気配の方に注意を集中する。自分たちは物音を立てないように。



「っ」


 隙間から見えたのは苔の生えた茶色の肌。大岩のような。

 そこから長く伸びたものが、梢に近いほど高い場所の陽桃ひももをもぎ取り口に運ぶ。フラァマたちではとても届かない果実を。



双鼻竜ふたはなりゅう


 巨体に大きな耳。顔の中央に大きな瞳が一つ。そして何より長い鼻が二本。

 太い六本の足はそれぞれが大木の幹のよう。地響きはこれで地面を踏むせいだ。


「ふ、た……竜?」

「し」


 正体がわからないより知った方がいいだろうと小声で囁いたのだ。

 少なくともフラァマはあれを知っている。落ち着いて息を殺していてほしいと。



 竜と呼ばれる生き物はいくつか種類がいる。大きくて頑丈、時に獰猛と世間では知られているとお師様が言っていた。

 獰猛という点は間違ってはいないが正解でもないと。

 理由もなく暴れたりはしないが、機嫌を損ねれば手が付けられない。暴れ出したら鉄の武器でも歯が立たないとか。


 機嫌を損ねてはいけない。

 今、あの双鼻竜は食事中だ。何が気に障るかなど明白。


 静かに、このまま彼――彼女かもしれない――が食事を終えるまでやり過ごす。それだけでいい。

 双鼻竜は草食。しかしこの巨体なので一所ひとところに留まるとそこの植物を食いつくしてしまうことになる。だから縄張りを持たず森を回遊するのだとか。


 説明したい。

 ルーシャも生態を知ればどう対処するのが正解かわかるだろう。けれど今はとてもお喋りなどしている場合ではない。

 震えるルーシャの体にフラァマの体を押し付け、どうか落ち着いてほしいと無言で訴えるだけ。



「――」

「……」


 歯を食いしばるルーシャ。顔色は蒼白で、瞳は明らかに落ち着きがない。

 だめだ。これでは駄目だ。



「大丈夫……」


 囁く。ルーシャがここで悲鳴でもあげたらどうなるか考えたくもない。

 森の暮らしに慣れていないルーシャがこの状況を耐えきるのはひどく難しい。

 フラァマだって、もし一人で遭遇していたら後先考えずに逃げ出してしまったかもしれない。興奮した双鼻竜に追われるだろうに。


 身を押し付けた木陰。土に尻が少し埋まって、双鼻竜の歩く振動で落ちてきた葉がルーシャの首元に数枚。

 窮屈な体勢でそれを払い、ついでに落ちてきた芋虫が彼女の肩口に逃げ込もうとしたのもける。



「……」


 先ほど放り込んだ夢手茸ゆめてだけが背負い袋の端から顔を出した。

 木陰に身を隠そうと押し付けた為に、袋から押し出されるように。


 そうだ。

 お師様から聞いている。これは少量なら香りを際立たせる効果と、心を柔らかくする効能があると。

 さっきの説明は摂取しすぎた時の話。


 ああ、どうしてさっききちんと説明をしておかなかったのか。

 自分の間抜けさに苛立つ。そうしている間にルーシャの唇は青く震え出しているのに。


 短槍を両手で握り締め、その切っ先も小刻みに揺れて。



「んっ……」


 齧った。

 ルーシャの目の前で、夢手茸の傘を。小指の爪分くらい。

 新鮮なら生食でも死ぬことはないと聞いている。生で食べる機会がくるとは思いもしなかった。そもそももう二度と食べないとお師様に言ったくらいだけれど。



「ふら……?」

「ん」


 フラァマの行動に、ルーシャがぱちくりと目を瞬かせた。

 彼女の瞳は、今初めてまじまじと見たけれど、お日様のような綺麗な明るい色。


 説明を求めるようなルーシャの瞳を真っ直ぐに見つめ返して、ただ頷く。

 言葉は交わせない。ただとにかくわかってほしいと頷いて、残っている夢手茸をルーシャの口の前に。



「ん……は、ぅ……」


 フラァマの齧った夢手茸。息を呑むように小さく頷き返してから、ルーシャの口が開いた。

 小さく齧る。震える唇で、まるで口づけでもするように。


 ルーシャの喉がこくんと鳴ると、嘘のように強張っていたルーシャの体から力が抜ける。

 そこまで即効で劇的な効果はないはずだけれど。


 食べることで落ち着くこともあるか。

 興奮や動揺している時に水を飲み下して落ち着くみたいに、何かを口に入れて安心したのだと思う。

 お師様に拾われる前に、村でも泣く赤子に先端を丸くなめした木のおしゃぶり棒を持たせていたことを薄っすら思い出した。



 手を伸ばすルーシャに夢手茸を握らせると、それを唇に当てて体を丸くした。より小さく目立たないように。

 震えは収まっている。頬も血の気を取り戻してきたようだ。

 丸くなったせいで首元が覗いた。真っ直ぐな金色の髪がさらりと向こう側に零れて。


 こうしているとお姫様みたいだ。

 フラァマの肌は薄い土色に焼けて、茶色の髪は長くすると癖が目立つから耳元で斬り揃えている。ルーシャとは違う。


 また地面を響かせて双鼻竜が移動し、近付いた。

 こちらを察知したのかと気を張ったが、頭上の枝を折る音でそうではないと知る。そうではないと祈る。

 ばらばらと落ちてくる枝と葉がフラァマとルーシャに注いだ。


 ルーシャの首の中に余計なものが入らないよう手を回して覆いかぶさる。

 双鼻竜の咀嚼音を耳にしながらぎゅうと抱いて。巨体らしく豪快に食べるようで、たぶんいくらか枝も食べているし、種も噛み砕いて飲み込んでいるようだ。

 草食のはずだけれど、フラァマだって見つかったら骨ごとばりばり食べられてしまうのではないか。


 嫌な想像をしてしまい、さらにぎゅっとルーシャを抱きしめる。フラァマの鼻がルーシャの耳にくっついたら微かに良い香りがして、なんだか気持ちが落ち着く。

 ルーシャも、フラァマの胸に鼻を埋めて一つのかたまりになるように。




 どれくらいそうしていたのか。

 地響きが遠ざかり、すっかり聞こえなくなってからもずっと。


 日が傾き始め、そろそろ帰らないと暗くなってしまう。フラァマだって夜の森は歩きなれない。そうなればむしろ夜明けを待った方が安全だ。



「もう……もう、大丈夫です。ルーシャ」

「ふらぁまぁ……」


 声をかけると、ルーシャがへにゃりとした声で応じた。

 トラブルはあったけれど無事でよかった。ルーシャの頭に降り積もった枝や葉っぱを払いながら体を起こす。



 見上げてくるルーシャの顔は、すっかり気が抜けた様子。

 その手には……?



「あ……ちょっとルーシャ、大丈夫ですか!?」

「ん、んへぁい」


 虹色部分の傘がすっかりなくなった夢手茸。それをずっとしゃぶっていたらしく、口元にだらしなく涎が。

 少し齧るだけ、と見せたのに。言葉にはできなかったけれど。



「全部食べるなんて……どういうものか言ったでしょう、ルーシャ」

「これ、美味しいですわぁ……すっごく、すごぉく」

「ああもうっ!」


 知っている。フラァマも夢手茸の味は知っている。

 口に入れるとふわぁっと広がる香ばしさと溶けていく触感。もっと食べたいと欲を刺激する危険な味。

 喉に残ったその欲が腹に落ちて行って、次第に体が熱くなってしまう。

 飲んだことはないけれど美酒のようなものだとか。



「少量なら心と身体をゆるめてくれるんです。だけど」

「もっとありませんの? どこかに……」

「ありませんし、あっても食べさせませんよ」


 やや怪しい足取りで立ち上がり辺りを見回すルーシャは、フラァマの言葉など聞こえているんだか。


「意地悪……フラァマの意地悪。わたくし、もっと優しくしていただきたいですわ」

「何とでも言いなさい。って、この状態のあなたを連れて帰らないといけないですか。私」


 体を揺らしながらフラァマを責めるルーシャに、軽く絶望を覚えた。

 双鼻竜は遠くに行ってしまったのに、なんだかもっと面倒を背負いこんだ気がする。



 とと、とふらついたルーシャがフラァマに枝垂れかかった。

 怪我をされても困る。フラァマより背の高い彼女を受け止めると、金色の髪がさらりと頬を撫でた。


「ん、フラァマぁ」

「……帰りますよ、ルーシャ」

「ん……ええ、えぇ」


 近すぎるルーシャの口元が吐息を漏らしてだらしなく緩む。

 笑ったのだろう。何がおかしいんだか。


「大丈夫、大丈夫ですわよ。フラァマ」

「……」


 先ほどフラァマが怯えるルーシャにしたように、反対にフラァマを元気づけようと言い聞かせているらしい。

 いや、明らかに大丈夫ではないけれど。


「わたくしはぁ……わたくしは、構いませんの……ええ、大丈夫ですわ」

「全然大丈夫じゃないですし、わかりましたから。早く帰って横になりましょう」

「ええ、構いませんわぁ」


 会話が成立しているかどうかも怪しいルーシャの手を引いて帰路を急いだ。

 何を構わないのか知らないが、ルーシャが構わなくてもフラァマは構うしかないのだ。手のかかる妹弟子を。



  ◆   ◇   ◆

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