第8話 幻妊の若羊たち
「わたくし、大丈夫だったでしょう? ちゃんと出来ていますわ」
「そうですね、ルーシャ。予期せぬ危険に対してよく頑張ったと思います」
朝になってもぼやけた頭のルーシャに答えると、ソファに横になったままにへぇっと頬を緩めた。
フラァマの答えが満足だったらしい。
「でしょう? ふふっ」
緩み過ぎた顔を絞った手ぬぐいで拭くと、首の方も拭いてと言うように伸ばしてくる。身の回りの世話を他人にさせるのに慣れているのは育ちのせいか。
彼女がパニックを起こさなかったから乗り切れたのも事実。促されるまま首回りも拭いてあげた。
ルーシャのしなやかな肌、少し覗いた胸元に目線を迷わせながら。
「まだ疲れているでしょうから、そのまま休んでいて下さい。新しい水を汲んできます」
「はぁい」
ずいぶんと素直な返事。突飛なことをされるよりずっといい。
今は二人っきり。体格でフラァマを上回るルーシャが変なことをしたら抑えきれないかもしれない。
結局昨日は遅くなってしまったがどうにか家まで戻り、そのまま居間のソファにルーシャを寝かせた。
湯浴みも食事もできないが、とにかく家に帰りついた安堵が大きかった。
夢手茸を食べてしまったルーシャが奇異な行動に走ったら困る。
とりあえず水を飲ませ、そのままルーシャを見守っているうちに一緒に眠ってしまった。
朝の陽ざしで目を覚まし、同じく意識を取り戻したルーシャに昨日のことを覚えているか聞いたところ、先ほどの返答。
ちゃんと出来たと褒めてほしかったのか、
子供っぽい欲求。フラァマより一つ年上なのに。
気になることもある。
夢手茸を食べると体が熱くなり堪えがたい衝動に襲われるはず。フラァマは身をもって知っているし、お師様も笑いながら夢手茸の特徴だと教えてくれた。
昨日の様子だとそれらしい兆候がなくもなかったが、思ったほどルーシャは乱れなかった。
生食だったからか、体質的なものなのか。
別に乱れてほしいわけじゃないのだから何もなければいいのだけど。
水を汲みながら自分も疲れていると実感する。ぐるりと肩を回して。
今日は家周りの見回りくらいにしておこう。ルーシャの体調も決してよくないだろうし。
「こんな所に色食い虫が」
目に付いた花を食い荒らす害虫を潰して、他にいないか確認。
あれこれ仕掛けはしていても森の中。全ての害虫を排除できるわけではない。たまたま入り込んだのか、もっと以前に卵を植え付けられていたのかも。
数日気にかけておく必要がある。
「お腹が空きましたわ」
「私もですよ、待っていて下さい」
「手伝い……ううん、わかりました」
家の方からルーシャの声。警戒しなくても今日は手伝わせようと思っていないのに。
少し遅くなってしまったが、森羊の乳を搾ってミルクのシチューでも作ろうか。時間がかかるから煮込むだけしておいて夜に食べるように。
塩味のスープばかりではルーシャも飽きるだろう。干し肉の蓄えは今日くらい多めに使ってもいい。
とりあえずは何か食べてから。
黒根糖のパンは先日焼いたのがまだあったはず。
畑から葉物野菜を採って朝食にした。手間はかけなかったがルーシャの機嫌は良かった。夢手茸の影響でまだ夢うつつなのかもしれない。
◆ ◇ ◆
「っと、お前もお疲れ様」
思ったより森羊の乳の出がよくない。
森羊を怒っても仕方がない。三頭いるうちの一頭に労わりの言葉をかけて頭を撫でた。
「他のではいけませんの?」
「今乳が出るのはこの子だけですから」
手伝うわけでもなく柵に手をかけたルーシャが眺めている。
どこに行くのかと言うので見学させた。いずれ乳搾りをさせることもあるかもしれないし。
「他はオスなのかしら?」
「角がないでしょう、メスですよ。だけどルーシャ」
知っているのかどうなのか、一応言っておく。当たり前のこと。
「獣が乳を出すのは子育ての為です。妊娠出産をしないとメスでも普通はお乳は出ませんよ」
「そ、そんなの知っていますわ。フラァマってわたくしを何だと思っているんですの」
「さあ」
何なんでしょうか。とりあえずは居候と妹弟子の間くらい。
朝からご機嫌だったルーシャの顔がむくれるのを見て安心してしまうのは、もしかしてフラァマの性格がひねくれているのかもしれない。お師様に似たせいで。
「普段は森羊を食用にしていませんから。ここで増やしても困るんですよ」
「普段って言うと?」
「食べ物に困れば潰して食べます。ぶよぶよで味が染みにくいし、あまりおいしくありません。食べ続けるとお腹下します」
乳は有用だけど肉は残念。だから本当に困った時しか食べない。
労力に見合わない。それなら罠で鳥や猪狸、
樺鹿というのは冬に木の皮を食べる姿を見る赤黄色の毛並みをした鹿で。かなり大きな獣だ。地下に保存している干し肉は樺鹿の肉が多い。
「春に若い森羊のメスを数匹捕えているんです。代わり番に乳をもらうよう」
「?」
ルーシャの見ている前で水桶を用意する。飲み水だ。
さっき乳を搾ったメスとは別の森羊にだけ、水の中に混ぜ物をして。
「
「黄色の手の平みたいな形をした三連の花ね。真ん中に雪玉みたいに固まっているのが花粉でしょう?」
「そうです……よく知っていますね」
意外にすらりと的確な答えが返ってきたので、少し言葉が
顔をあげたフラァマの視線に気をよくしたらしく、満足気に笑い返す。
「お花のことなら知っていますわ。薬は知りませんけど」
そういえばお嬢様育ちだった。
用途は知らなくても花には詳しいということか。
「
「こ……」
「知りませんよ、森羊が実際にどうなのか聞けませんから。人間でも、思い込みで妊娠したみたいになる人もいるとか言います。そういう感じで乳が出るようになるんです」
「そう……そうなのね」
少し頬を色付かせて目を逸らすルーシャに、フラァマもなんだか顔が熱くなってしまう。
このタイミングで説明する内容としてはちょっと失敗だった。選択ミス。
「乳を搾ると痩せますから交代です。たまに薬がうまく効かない森羊もいるので数匹捕まえています。春になったら群れに放して、別のと入れ替えているんです」
矢継ぎ早に説明をしながら森羊を囲う柵を上げた。
納屋の周りにも囲いがある。自然に生えている草を食べさせた方が手間が少ない。今日は家にいるから目も届くし。
「糞を片付けますからどいていて下さい」
「手伝いますわ」
「まだ体調が――」
「大丈夫。わたくしは大丈夫ですから」
こんな下男のような仕事を手伝うと言って。
前にフラァマがやっていたのを見ていたのだろう。納屋の隅に置いてあった大きめのシャベルを手にして胸を張った。
「わたくしはもうシルワリエス家のお嬢様ではありませんのよ、フラァマ」
「……そうでしたね」
昨日の危機を乗り越えたことで変な自信をつけてしまったようだ。
袖が汚れないよう腕まくりするルーシャに苦笑しながら、彼女のキュロットの裾を少したくし上げて縛る。
力任せにやったら飛び散るだろう。不慣れなルーシャにひとつずつ教えながら、いつもより時間をかけて納屋周りの仕事を片付けた。
◆ ◇ ◆
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