第10話

磯貝は眠る櫂都を眺めながら、彼と初めて会った時の事を思い出していた。


13歳の少年だった。

両親を亡くしてから引き取られた親族の家で苛烈な虐待を受け、恐らく自分の意思でそこから逃げ出し、ある男に会って誘拐されラブホテルに監禁された。その男は殺人の容疑で指名手配されていた。それが警察からの書類に書かれていた事だ。外科の医師の診断では、監禁中に暴力を受けた形跡はなく、性的暴行の痕跡も見られなかった。身体には無数の傷痕があったが、全ては誘拐以前につけられたものと見て間違いなかった。診断書には数枚の写真が添付されており、誰もがその写真を見ると動揺を隠せなかった。特に背中。被虐児童の多くに見られる直径数ミリの円形の火傷痕、それは煙草の火を押しつけられて負う火傷の痕だが、彼の背中にあるそれは、はっきりとドレイとゴミと読めるように意図的に並べられていた。痛みだけでなく、人格をとことん貶めて侮辱する事を目的とした、明確で圧倒的な悪意。恐らく、外科的な処置を施さない限り、この痕は消える事はないだろう。書類に目を通しただけで気分が悪くなった。


それから10年が経っていた。10年間で2度、彼はここに入院した。今回は3度目だ。虐待によるPTSDとそれに起因するパニック障害。虐待を受けていたのはたった1年あまりだったが、それは彼の心を打ち砕き、彼の人生を大きく変えてしまった。煙草の匂い、金属が打ち付けられる音、誰かの大きな声。ほんの些細な日常の音や匂いがトリガーとなり、彼は激しいパニックの発作を起こした。細かな震えがやがて抑えられない全身の痙攣になり、過呼吸を起こし、最終的に意識を失う。最初の発作は警察官による事情聴取中に起こった。男の情報を聞かれている時には落ち着いて応えていたが、担当の刑事が代わり、話が虐待の件になるとすぐに動揺し始めた。身体の傷の事を尋ねられ、それに答えるうちに震え始め、それを抑えようと拳で自分の腕を殴り始めた。立ち会っていた児童相談所の職員に呼ばれて慌てて磯貝が駆けつけた時には、彼は床の上で痙攣し過呼吸に陥っていた。警察官は呆然と立ち尽くしており、しばらくして彼は意識を失った。


過去の殺人と櫂都への誘拐の容疑で指名手配されていた男は、元刑事だった。警察は必死でその行方を追った。何年も殺人犯が野放しにされていた事に、人々は警察の身内に対する甘さからの失態ではないかと疑っていた。妻と実の息子を殺して逃亡していた男が、未成年の少年を誘拐し、何か月もラブホテルに監禁していた。捜索のため写真が公開されていた櫂都の容姿も相まって、そのニュースはセンセーショナルに消費された。ワイドショーでは監禁中の彼の生活について有る事無い事騒ぎ立て、人々の好奇心を煽った。

逃亡していた男が捕まると、過熱した報道は頂点に達した。男は殺人についても誘拐についても黙秘したため、各テレビ局は好き放題に想像を膨らませたストーリーを作り上げた。被害者である未成年の少年のプライバシーを守る事より、人々の好奇心を満足させる事の方が重要とされた。彼の伯母は幾つかのテレビ局のインタビューに応じ、両親を亡くした甥を引き取り育てる心優しい保護者を演じた。


磯貝はそういった報道を彼の目に触れさせないように細心の注意を払った。警察の事情聴取は困難を極めた。少年はその男についてはほとんど何も知らなかったし、そもそも誘拐も監禁もされていないと証言した。では何故その男と1ヶ月以上ラブホテルで過ごしたのかと聞かれると、彼は黙り込み、ただ声を上げずに泣き出すのだった。

「あの人は僕にとても親切にしてくれました。僕を助けてくれたんです。あの人は誘拐犯ではありません。それなのに…」そう繰り返して声を殺して泣く少年に、刑事たちは何も声をかける事ができなかった。

一方、虐待についての捜査は進展していた。伯母は否認していたが、状況証拠は十分にあった。彼女の息子、櫂都にとっては従兄にあたる高校一年生の少年は、暴行の一部を認める供述をし始めていた。伯母が虐待の主犯であるとみて、警察は状況証拠を積み上げていたが、有罪を確実にするために櫂都の証言を求めていた。しかし櫂都は証言ができる状態ではなかった。


結局、櫂都の身体の傷が決定的な証拠となり、伯母は起訴され実刑判決を受けた。従兄は少年法のもとに裁かれ医療少年院に送致され、伯父は保護責任不保護と少年が相続した財産を横領した罪に問われたが、横領分の一部を返還した事もあり、不起訴となった。検察は櫂都が証人として出廷する事を望んだが櫂都の心の傷は深く、虐待の事実を証言する事は出来なかった。代わりに磯貝が証人になった。櫂都はその頃は磯貝にも詳細を語ることはなかったが、磯貝は児童精神科の専門医として彼の身体と心に加えられた暴力とそれによる被害を分析し証言した。


逮捕された男は黙秘を貫いたが、息子に対する殺人と櫂都に対する誘拐の罪で起訴された。メディアは櫂都の伯母の逮捕をみると掌を返して男に同情的になった。男は妻と息子を殺したと思われていたが、捜査の結果妻は息子によって殺されていたことが分かった。息子の家庭内暴力に苦しんでいた元刑事が、息子が妻を殺したのを目の当たりにして絶望し、息子を殺害、逃亡。そして虐待から逃げてきた少年を匿い共に逃避行した。いかにも大衆の好きなストーリーだった。磯貝は当初、加熱するメディアの取材攻勢から櫂都を守る事に注力した。彼自身にも取材申し込みが殺到したが、守秘義務を盾に全て断った。櫂都の顔写真を掲載した写真週刊誌を訴えもした。落ち着いてカウンセリングを始めることができたのは、彼が保護されて入院してから、3週間目の事だった。


磯貝が最初に持った櫂都の印象は、礼儀正しく物静かな少年という事だった。おそらくそれは虐待の影響もあっただろうが、磯貝はこれはこの子の元々の性格でもあるのだろうと思った。本を読む事が好きで、昔はピアノを弾くことも好きだった、と少年は言った。悲しみと諦念を湛えた瞳は、不安になる程澄み切っていた。もう家には帰らない、退院したら児童福祉施設に入所する予定だと告げると、じっと何かを考えるように黙り込み、しばらくして「分かりました」と一言だけ言った。その入院中2度、彼はパニックの発作を起こした。右手が震えるのが決まって最初に現れる症状で、彼の右手の二の腕には鉛筆で刺した傷が無数にあった。おそらく震えを抑えようと自傷行為に走ったのだろう。


児童福祉施設に入所してからも週に一度はカウンセリングを続けた。施設内でも新しく転入した中学校でも、櫂都は誰にも心を開かなかったようだ。物静かでいつも礼儀正しく控えめで、学校の成績も悪くはなかったが、誰とも積極的に関わる事なくひっそりと本を読んでいるその少年を、周囲の大人はどう扱って良いものか図りかねているようだった。

彼はその後も時々パニックの発作を起こした。何がトリガーになるのかは彼自身にも分からないようだった。発作がまた起こるのではないか、という恐怖心が、さらに新たなトリガーを生んでいるようだった。あの頃の櫂都は、始終何かに耐えているようだった。

カウンセリングの時には彼は、磯貝に両親の思い出を語って聞かせてくれた。夢を見ているようなうっとりとした表情で、彼は両親と過ごした日々を、ディテールまで詳細に語った。磯貝に聞かせるためというよりは自分に聞かせるために、彼はそれを語っていた。両親の話をしている間だけ、彼は心底幸福そうな表情をしていた。1時間半のカウンセリングの最後に磯貝が今の生活について尋ねると、彼はまたいつもの、必死で綱渡りをしているような緊張した面持ちになり、「ごめんなさい。」とか「今週は何とか上手くできました。」とか言った。それは発作の事だった。発作が起きそうになった時に対処する為の幾つかの方法を、磯貝はアドバイスしていた。過呼吸に陥った時に飲む頓服も処方していた。それをうまく行い、1週間に一度もパニック発作を起こさない事を彼は目標にしていた。発作は彼に恐怖だけでなく、罪悪感をも感じさせるものだった。磯貝がどれだけ、「君は何も悪くないよ。発作が起こるのは君が必死に生きようとしているからだよ。それはとても素晴らしい事で、僕は君を尊敬しているよ。」と言っても、一度心に染みついた罪悪感は中々消す事は出来なかった。


彼が虐待を受けていた頃の事を話し始めたのは、初めてのカウンセリングから1年ほど経った頃だった。ある日彼は、痛み止めを処方してもらう事はできるかと尋ねてきた。驚いた磯貝が「どうしたの?どこが痛むの?」と聞くと、しばらく躊躇った後に、背中が、と答えた。

もう治ったはずの背中の傷が時々痛む、その痛みがパニック発作を引き起こしているのかも知れない。児童福祉施設の職員に、もう怪我は治った、いつまでもそれを気にしているから痛いような気がするだけだと言われ、気にしないように、痛みを忘れようとしたけれど、出来なかった。

そう消え入るような声で彼は説明した。

「こんな事ならあの家にずっといれば良かった。逃げ出さなければ良かった。」そう呟くと、最後にほとんど独り言のように一言、こう言った。

「奴隷は、奴隷のままでいるべきだったんだ。」


磯貝は、何も言えなかった。

虐待は、そこから逃れてからもずっと子供達を苦しめる。それは精神科医として分かってはいたけれど、磯貝は目の前の少年に、何も言葉をかけてやる事が出来なかった。

彼が再び入院してきたのは、それから数ヶ月後の事だった。彼は学校でパニック発作を起こし、混乱のためか自殺しようとしたのかは分からないが、3階の教室の窓から飛び降りた。下の花壇の柔らかな土のおかげで酷い怪我はしなかったが、精神的なショックが大きく、彼はほとんど話す事ができなくなっていた。希死念慮が強く、措置入院となった。

磯貝は辛抱強く彼に寄り添った。自分はまだ経験の浅い医師だが、その若さが、子供達との年齢の近さが、唯一今彼が使える武器であると感じていた。友達のように気を許して欲しい。そう磯貝は願っていた。

2ヶ月の入院の最後の頃には櫂都は、磯貝に辛い時の話をポツリポツリと漏らすようになった。

パニック発作が起こると、自分が悪い事をしたような気持ちになる。周りの人達に迷惑をかけていると思うし、いつまでも過去に囚われて甘えているとも思う。唯一のプライベートな空間である自分のベッドに潜り込んで、どこにも行きたくないと思う。また発作が起こるのではないかと、怖くて怖くてたまらない。昔、あの家で、今日はどんな罰を受けるのだろうと怖くてたまらなかった時と、何も変わってないと思う。無力感と罪悪感に苛まれる。どんなに逃げても、自分はもう救われないんだと感じる。何をしていても、背中の傷が、自分はまだ奴隷なんだと、ゴミのような存在なんだと思わせる。施設では集団で入浴しないといけない。時々、年上の男子生徒に背中の傷を揶揄われる。もっと良く見せろと言われ、浴室でみんなの前に立たされる時がある。それは彼にとって耐えがたい屈辱だけど、迷惑をかけたくないから何も感じていないようなフリをする。

いっそ、何も感じなくなれれば良いと思うのに、そうなろうと努力するのに、なぜか涙が止まらなくなる時がある。

そう言いながら櫂都は静かに泣いていた。


ここからが始まりだと磯貝は思った。

「今から始めよう。君はあそこから逃げ出した。とても勇気がいる事だ。よく逃げて来たね。本当に頑張った。君は今苦しんでいる。でも絶対に救われる。そのために今から一緒に治療を始めるんだよ。」

それが始まりだった。




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