第11話
櫂都が目を覚すと、ベッドの脇には磯貝が立っていた。ああ、またやってしまった、と櫂都は思った。前回は高校に入学して1年が経つ頃だったから、7年前だ。もう大丈夫だと思っていた。この1年間、一度も発作を起こしていなかった。フラッシュバックも、気分が落ち込む事もなかった。トンネルを、抜けたような気がしていた。それだけに、櫂都は打ちのめされていた。
何が起こったのか分からなかった。突然右手が震え出して、まずいと思った時にはもうどうする事もできなくなっていた。カウントも、腹式呼吸も飴を舐めるのも、効果がなかった。
「怖かった。とても怖かった。」
櫂都は独り言のように呟いた。
高速道路を走行中だった。路肩に停車するのが精一杯だった。何とか車を止めると、発煙筒を手に転がり落ちるように車から出た。追突されないように発煙筒を後ろに置きたいという気持ちもあったが、何より発作を隣に座っている人に見られたくなかった。制御できない全身の痙攣と呼吸困難。薄れゆく意識の中で櫂都は、「来ないで!危ないから、もう車を出して。」と叫んでいた。
初めてできた恋人だった。こんな僕を好きだと言ってくれた人だったのに。さようなら。櫂都はそう思っていた。
救急隊員が到着した時、櫂都は完全に意識を失っていた。恋人の凛花は初めて目にするパニック発作にかなり動揺していたが、とにかく救急車を呼び、その後は彼らの指示に従った。凛花は警察の誘導で車を次のパーキングまで移動させ、そこでパトカーに乗り換えて病院まで行った。とりあえず運び込まれた病院で事情を説明し、過呼吸による意識喪失と見られたが念のためCTスキャンがなされた。その間に主治医である磯貝に連絡が入り、櫂都は磯貝の勤務する病院に搬送された。その間ずっと、櫂都は意識を取り戻さなかった。それから2日間、彼は眠り続けた。
今回の入院は、磯貝にとってもショックだった。櫂都はずいぶん変わってきていた。大学に入学した頃からよく笑うようになり、友達も幾人かできたようだった。高校生の時に再開したピアノも続けていて、自分でひとつの曲を丁寧に弾き込み、徐々に上達していくプロセスを楽しんでいた。両親の遺した財産を取り戻す為の民事訴訟で出会った弁護士の影響で法学部に進学し、優秀な成績で卒業して司法試験にも現役で合格していた。東京の弁護士事務所に、企業法務や民事の専門弁護士として就職する事も決まっていた。
月に1度のカウンセリングの時にも表情は明るかった。将来の目標や計画を語ることもあって、磯貝はそれを聞くのがとても嬉しかった。ほんの7年前には、将来の事を考える事など思いもよらなかったのに。良かった。本当に良かったと思っていた。もうこの子は大丈夫かも知れない。そう思っていた。油断していた。磯貝は、気を引き締めなくてはいけないと自分に言い聞かせた。こういう時、患者の絶望感は大きく命に関わる事が多々ある。注意深くならなければいけない。
「でもとても頑張ったね。ちゃんと車を路肩に止めた。すごいよ。発煙筒も焚いたんだね。そのおかげで凛花ちゃんは無事だったんだよ。」磯貝が言うと、櫂都はほんの少し目を細めた。「でも、僕は彼女を危うく殺すところだった。」櫂都は言った。
「そんな風に自分を責めるのは良くないよ。」磯貝の知る櫂都はいつも、誰も傷つけないように、誰にも迷惑をかけないように独りで必死に生きてきた。磯貝はそれを誰よりもよく知っていたから余計に、恋人の身を危険に晒してしまった事で、彼がどれだけ傷ついているのかよく分かり、胸が痛んだ。
磯貝は高校一年生の冬に櫂都が再び入院して来た時のことを思い出した。その時も、全てが少しだけうまくいき初めているかのように見えていた頃だった。櫂都は高校に馴染むために懸命に努力していた。対人恐怖を克服するために認知療法にも取り組んでいた。トップダウンやボトムアップと呼ばれる行動療法にも積極的に取り組み、何度も何度も繰り返し練習してフラッシュバックやパニック発作に対処しようと努力していた。治療は時として精神的に負担の伴うものだった。PTSDの治療には記憶認知療法が欠かせない。トラウマの原因となった物事を、順を追って詳しく語るのだ。それも何度も何度も。そうする事によってその記憶を過去のものとして脳に処理させる。それは時としてとても辛い作業だった。虐待を受けていた時に感じた恐怖や痛み、屈辱や悲しみがあまりにも生々しく蘇り、感情が昂り話すことができなくなる事もあった。そんな時に磯貝が「今日はもうやめよう。終わりにしよう。」と言うと彼は歯を食いしばりながらも首を横に振り、「大丈夫。もう少しだけ話します。」と言うのだった。痛々しいほどに必死だった。その甲斐あってか、徐々に彼は良くなっていっているように思えた。ほんの少し自信取り戻しているようだった。学校では相変わらず1人で本を読む時間が多いようだったが、高校の図書室で出会った1学年上の先輩と親しくなった。両親の死以降初めて、本当に心を通わせることの出来る友達ができたと喜んでいた。
その半年後の事だった。櫂都から夜中に、泣きながら磯貝の携帯に電話がかかってきた。公衆電話からだった。「助けて。ごめんなさい。助けて下さい。」泣きじゃくりながらそう繰り返す櫂都をまず落ち着かせ、今いる場所を聞き出してすぐに向かった。「そこにいて。絶対に動かないで。すぐに助けに行くから。」磯貝は祈るような気持ちで車を走らせた。磯貝に言われたように彼は動かないでそこにいたが、数人の警官に囲まれてパニックに陥りかけていた。磯貝との電話の後で、パトロール巡回中の警官が電話ボックスの中でうずくまる彼をみつけた。高校の制服を着ていて、腕から血を流していた。不審に思い職務質問したところ、パニックを起こしたので応援の警官を呼んだ。磯貝が到着したのはちょうど応援の警官が到着してすぐだった。慌てて磯貝は勤務先の記載された身分証明書を提示し、簡単な事情を説明した。櫂都は蹲り、左手にシャープペンシルを握りしめてその先端を自分の右手の二の腕に押し付けていた。もう長い時間そうしていたのだろう。制服のカッターシャツは破れており、腕からは血が流れ出していた。2人の警官が彼からシャープペンシルを取り上げようとしており、それがかえって彼の恐怖を煽っていた。磯貝が彼に駆け寄ると、櫂都は泣きながら数を数えていた。発作の予防方法のひとつだ。磯貝は警官に頼み込んでしばらく2人だけにしてもらった。シャープペンシルはそのままにして、震える右手をしっかりと握って落ち着くまで「大丈夫、もう大丈夫。」と言い続けた。焦点の合わなかった瞳が徐々にゆっくりと磯貝に焦点を合わせてきて、ふと大きく息を吐き出すと身体から力が抜け、彼は意識を失った。警官達が呼んだ救急車で、彼は磯貝の勤務先の病院に救急搬送された。それから3日、彼は目を覚さなかった。警察は尿の任意提出を求めた。磯貝は応じる必要がないと思ったが、結局病院の判断で尿サンプルは提出された。違法薬物は検出されなかった。どんな薬物も検出されなかった。どうしても発作が起きた時のために頓服を処方していたが、彼はそれを飲んでいなかった。
「急ぎすぎていました。」
その頃の事を後になって振り返って、櫂都はそう言った。
「高校に入学して、生まれ変わりたいと思った。違う人間にはなれないけれど、違う人間のように振る舞う事はできるかも知れないと思ったんです。先生との治療だけじゃなくて、図書館で心理学の本を借りては読んで、良いかも知れないと思った事はなんでも試しました。毎朝鏡で自分の顔を見つめるようにしました。僕は自分の顔が大嫌いでした。あの人達は僕の容姿を殊更に攻撃したので、僕は自分が醜く不快な容姿をしているという劣等感を捨てきれずにいました。でも、それを捨てないといけないと分かっていました。だから、毎朝自分の顔を見つめて、お前は醜くない、お前は奴隷じゃない、と、繰り返し繰り返し心の中で言い聞かせました。それで少しだけ自分に自信がついて、うまくやれていると思っていました。高校でクラスメイトに話しかけられても、おどおどせずに普通に受け答えができていると思いました。
友達ができた時にはとても嬉しかったんです。彼とは幾つかの共通の趣味がありました。本を読むのが好きで、同じ好きな作家も何人かいました。ピアノも共通の趣味でした。リストやシューマンなどのロマン派のピアノ曲が好きで、よくCDを借してくれました。僕は施設で貰えるお小遣いを貯めて、CDラジカセとヘッドホンを買いました。もう何年もピアノを弾いていないんだ、と言うと、彼は僕を家に招いてくれました。彼のお母さんはピアノの先生で、家にはピアノがあるから好きに弾いて良いと言ってくれました。彼の家族はとても良い人達でした。僕の事を歓迎してくれました。ピアノを弾かせてくれて、彼のお母さんは僕に無料でピアノのレッスンをしてくれました。僕が施設に入っていると知っても、彼も彼の家族も変わらずに接してくれました。よく、夕食にも招いてくれました。彼には歳の離れた小学生の妹がいて、一緒にトランプをしたりもしました。とても楽しくて、幸せな時間でした。
でも、それなのに、彼の家から帰る道すがら、僕は胸が締め付けられるような気持ちになりました。叫び出したいような衝動にかられ、施設に帰る前に公園で気持ちを落ち着かせる必要があった日もありました。彼らが優しくしてくれればくれるほど、自分が汚く感じました。もう彼の家に行くのはやめようと何度も思ったのに、誘われると彼の家に行ってしまうのです。自分が、とても美しい風景の中にある、一つのゴミのようなものだと思いました。取り除かれるべきもの。完璧な調和を乱す、そこにいるべきでないもの。そんな気持ちが押し寄せて、消しても消しても押し寄せて、ある日気付いたらシャープペンシルで自分の右手をめちゃくちゃに突き刺していました。血が流れて、その血を見ていたらスッと気持ちが落ち着きました。それからは、彼の家に遊びに行くたびに、帰り道、公園で自傷行為をするようになりました。シャープペンシルで刺すだけじゃなく、ライターで炙った針金を押し付けたりもしました。血と痛みが、苦しい気持ちを麻痺させてくれました。次第に、彼の家に行った日以外にもやるようになりました。自傷行為をすればする程、高校ではうまく人と接する事ができるようになりました。彼以外の人ともうまく喋ることができるようになりました。
でもある日、ふとした事からクラスメイトの1人に腕の傷を見られてしまいました。あっという間に噂が広がり、みんな僕を気味悪がるようになりました。誰かが古い新聞記事を見つけて、過去の出来事が蒸し返され、僕はまたクラスで孤立しました。でも、彼は僕から離れませんでした。噂を耳にしたはずなのに、何も言わずに普段通り接してくれました。ある日、ただ一言だけ、僕は櫂都の事大切に思ってるから、櫂都が自分を痛めつけるのは悲しいな、と言いました。僕は彼がそう言うならやめようと思いました。僕も彼のことが大切でした。彼が悲しむのならやめよう。そう思いました。でも無理でした。
あの日、彼と映画を観に行きました。彼のおすすめの、美しい日本映画でした。ピアノ曲が印象的で、僕たちは2人ともその映画が大好きになりました。帰りにマクドナルドでハンバーガーを食べました。向かい合って座る僕に彼は、とても綺麗な顔だねと言って笑いました。その笑顔は、とても悲しそうでした。僕は、もう気付かないふりは出来ませんでした。彼は、僕のことが好きで、それは友情ではありませんでした。僕も彼の事をとても、とても大好きで、でもそれは完全に友情でした。その夜、気付いたら僕はまたあの公園で自分の腕を刺していました。でも、どれだけ刺しても、どれだけ流れる血を見ても、僕の気持ちは落ち着きませんでした。ふいにたまらなく死にたくなりました。このままでは僕は僕を殺してしまう。それで先生に電話しました。」
この時の入院は半年に及んだ。彼は高校を1年留年し、高校に戻った時にはその先輩は卒業して東京の大学に進学していた。一度だけ磯貝はその子と会ったことがあった。彼は何度か見舞いに来ていたが、その頃の櫂都の精神状態は非常に不安定で、主治医として会わせる事はできなかった。最後に来た時、その子は磯貝に、櫂都に僕からの謝罪を伝えて欲しいと言った。「櫂都が僕に友情以外の気持ちを持っていないことは、分かっていました。彼が何か心に深い傷を負っていることも分かっていた。だからもっと慎重になるべきでした。彼を傷つけて、本当に悪かった。僕は今でも櫂都の事を大好きです。いつか、僕に恋人ができて、櫂都の事を完全に友達だと思える日が来たら、そしてその時に櫂都が僕の事を友達だと思ってくれたら、また会いましょう。そう伝えて下さい。」
磯貝は一字一句違えずにそれを伝えた。
それを聞いて櫂都は静かに涙を流した。そしてその日から徐々に、ゆっくりと櫂都は回復していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます