第9話
男は掘り出してきた金で毎週1週間分のホテルの料金を前払いした。高速道路脇のさびれたそのホテルには客は少なく、従業員は金さえきちんと支払われれば文句は言わなかった。訳ありの客は少なくない。関わらない事、詮索しない事はこの仕事の必須条件だった。
男は1週間に一度スーパーに行き、1週間分の食糧を買った。あまり出歩かない方が安全だったが、それでも男は買い物に行く事をやめなかった。少年はケーキや温かい紅茶に目を輝かせた。本を買って帰ると涙を浮かべて喜んだ。あっという間に本を読み終えて、その本の内容を話して聞かせてくれた。お菓子をつまみながらテレビで映画を一緒に観たり、トランプをしたりした。そんな時男は、ここがラブホテルである事も、隣りに座る少年が見知らぬ、名も知らぬどこかの他人である事も忘れた。男は心から幸福だった。
ゆうた、父さんは幸せだよ。お前は幸せか?
男は心の中で尋ねた。もっと早くこうすれば良かったよ。でも、もう大丈夫。もうどこにも行かないから。ずっとここにいて、毎日一緒にご飯を食べよう。「美味しいね。」そう少年が言った日から、男は味覚を取り戻した。血を流す息子の顔を思い浮かべる事もなくなった。「ゆうた、楽しいか?」そう言うと少年は隣で、にっこりと微笑んで頷いた。
少年は幾つかの疑問を胸の奥にしまいこんだ。この人はどうして自分にこんなに親切にしてくれるのだろう?そしてこれらの物を買うお金は、このホテルの宿泊費は、どこからきているのだろう?少年は疑問に思ったが、口には出さなかった。なぜ自分を「ゆうた」と呼ぶのかという疑問と同じように。それらの疑問を口に出したら、何もかもが終わってしまうような気がした。それで少年は、それらの事を考えないようにした。暖かい布団。美味しい食事。暴力を振るわれる事も、罵倒される事もない毎日。ビクビクと怯えながら、気を張りつめて1つのミスもないように気を配り、焦りながら家の仕事をこなす必要もなかった。何より男が幸せそうにしている事が、少年には嬉しかった。男は口数は少なかったが、いつも少年を優しく見守ってくれた。右手が震え出すと、男は優しく手を握り、背中をさすりながら「大丈夫、大丈夫」と言ってくれた。その声は低く優しく、毛布のように少年を包み込んだ。歯を食いしばりながら鉛筆で二の腕を刺す事はもうなかった。「ゆうた」はきっと、男の息子なのだろう。そう少年は思った。何か訳があって今はもう会えない。少年が会えない両親を熱望するように、男も会えない息子を求めているのだ。少年は自分が男の心の慰めになっているかも知れない事が、心底嬉しかった。
それでも、いや、それなのになぜか、少年は不意に死にたくなった。ゆっくりとお風呂に入っている時、ベッドの中で明け方目覚めて、ぼんやりと隣で眠る男を見つめている時。それは以前のような切実な願望ではなく、不意に、唐突に浮かぶ幻想のようなものだった。死はもはや苦痛からの逃避ではなく、魅惑的な幻想だった。このままここで死ねたらどんなにか幸せだろう。手に入れられないものを夢想するように、少年は死を夢見た。頻度は低くなったが、少年の発作は完全には無くならなかったし、悪夢も消えなかった。フラッシュバックがあった日は気分が落ち込み、何時間も泣き続ける事もあった。男はどこまでも優しく少年を包み込んだが、それでも少年は、男の目に映る自分が本当の自分では無いという事実を完全に忘れる事は出来なかった。
そうして季節は完全に夏になった。
ある日、男はコンビニの新聞で、その地域で13歳の少年の行方がわからなくなっているというニュースを見た。少年の保護者である親族が捜索願いを出し、当初家出と見られていたが、行方が分からなくなってから2ヶ月以上が経つ為、県警は公開捜査に踏み切った。少年の名前は〔アンリ 野咲 櫂都〕
顔写真も出ていた。あの少年だった。
男はよろめき、立っていられずしゃがみ込んだ。店員が駆け寄ってきて、「大丈夫ですか?」と声をかけた。男はどうにか叫び出すのを堪えてコンビニからよろめき出ると、買ったばかりの新聞をゴミ箱に押し込んだ。
悠太の顔が目に浮かんだ。悠太は血を流し、恐怖と憎しみの混ざった目でこちらを見ていた。男は嘔吐した。胃の中のものを全て吐き出してもなお、嘔吐は止まらなかった。
ああ、俺は何をしていたのだろう?なんと卑怯な事を。男は手に持つ弁当を見た。スナック菓子を、本を、ジュースを。それらを全部コンビニのゴミ箱に捨てた。男が本当に捨てたかったものは自分自身だった。
男はホテルに向かって歩いた。少年の待つホテルに。男はもうその少年の顔を思い出す事ができなかった。
男が戸を開けて入って来てすぐに、少年は全てを悟った。買い物に行ったはずの男は手ぶらで、「おかえりなさい」と言った時にこちらを見たその目は、もう自分を見てはいなかった。何もかも終わったんだと、少年は悟った。悲しいような、ほっとしたような気持ちになった。少年はもう一度小さな声で「おかえりなさい」と言った。「ただいま」と言って欲しかった。最後に一言だけ、何か声をかけて欲しかった。でも男は何も言わず、ただ黙って虚な瞳をこちらに向けていた。もうそこに自分が映ってはいない事を、少年は知っていた。「ゆうた」ではなくなった少年に男は「ただいま」とは言ってくれなかった。何も、一言の言葉も、かけてはくれなかった。少年はただひたすら、その事が悲しかった。
その後のことを少年はあまり覚えていない。
警察がホテルに来た時、男はもういなかった。男はホテルの部屋の電話で警察を呼び、そして何も言わずに出て行った。男の行方に心当たりがないか聞かれたが、少年は分からないと答えた。どこに行ったのかも、男が誰なのかも。名前すら本当に分からなかった。警察署に伯父と伯母が待っていると知らされて、少年はパニックに陥り意識を失った。気がついたら少年は病院のベッドの上にいた。ベッドの中で少年は、男との最後の1日を何度も何度も思い浮かべた。何がいけなかったのだろうか。ちゃんと「ゆうた」になり切れなかったから、あの人は僕の事を…
少年は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
ごめんなさい。少年はもう一度だけ男に会って謝りたいと思った。あの人は僕にあんなに親切にしてくれたのに。僕に何もかもくれたのに。僕はあの人の願いを叶えてあげられなかった。「ゆうた」に、なれなかった。「罰」という言葉が頭に浮かび、離れなかった。僕はやっぱりうまくできなかった。罰を受けないといけない。もう伯父や伯母、従兄に会ってもパニックになってはいけない。あの家に帰って、そしてもう二度と逃げ出さない。あの人達が僕を殺す日まで、僕は罰をちゃんと受けよう。少年は病院のベッドの中で声を殺して泣いた。
しかし、少年があの家に帰る事は無かった。
少年が意識を失っている間に、彼の身体は隈なく調べられ、証拠の写真が撮られていた。特に背中の傷は酷かった。そこにあったのは、苛烈な暴力と明確な悪意の証拠だった。医師も看護師も警察官もみな、彼の身体に加えられた残忍な仕打ちに息をのんだ。医師の慎重な診察の結果、その傷の全ては少なくとも数週間以上前につけられたものだと関係者は確信した。新しい、数日のうちにつけられたものは1つもなく、自然治癒した骨折痕が2箇所見つかった。男の行方は依然として不明で、彼には過去の殺人事件だけでなく、少年に対する誘拐の容疑もかかっていたが、男が少年に暴力をふるった形跡は見られなかった。暴力はそれ以前に、恐らく家庭内で加えられたものだった。多くの傷は、おそらくは男によって手当てされた痕跡があった。彼の身体は清潔で、栄養状態も良好だった。
警察と児童相談所は協議の結果、少年の身柄を親族に渡さない事で合意した。少年はしばらくその病院で入院し、病院で警察は、児童相談所の職員立会のもと男についての情報を少年から得るために事情聴取する事ができる。また警察は、少年の親族を彼への虐待で立件する方針を固めた。そのためにも、少年が望まない限り親族との面会も許可しない。少年の病室には警察官が警護に立った。そして少年の心身の回復を待って、身柄は児童相談所に移されることとなった。
磯貝研二はその病院のただ1人の児童精神科の医師だった。外科の医師から少年の話を聞いた時、正直自分には荷が重いと思った。まだ医師になって5年目だった。それほどひどい虐待のケースを扱ったことは無かったし、少年は虐待だけでなく誘拐の被害者でもあった。紹介状を書いて誰か、別の病院の別の医師、もっと経験のある医師に引き継ごう。そう思っていた。しかし一目彼に会ったその瞬間、彼は心を強く揺さぶられた。なぜかは今でもはっきりとは分からない。少年は際立って美しい顔をしていたが、もちろんそれが理由ではなかった。その瞳の美しさ。それほど澄んだ瞳を、彼は今まで見たことがなかった。そしてそれとは対照的な、見るも無残な傷跡。
でもそれだけではない。
初めて彼に会った時、少年はこう言った。
「ごめんなさい。でも、もう大丈夫です。家に帰れます。もう2度と、逃げ出したりしません。」
そう言った時の少年の悲壮な決意に満ちた表情を、磯貝はその後何年経っても忘れられなかった。死を覚悟した兵士のような張り詰めた緊張感と、死期を悟った老人のような静けさが混ざり合っていた。
なぜ?たった13歳の少年がなぜ、そこまで深い絶望を味わわなくていけないのだろうか。なぜ。磯貝が感じた感情は純粋な怒りだった。そして今でも磯貝は、その怒りに突き動かされている。あの少年—今ではもう少年では無いのだが—に関してだけでなく、他の全ての患者に関しても。彼はその時に感じた強い怒りに突き動かされて、その為だけに医師を続けていると言っても過言では無い。
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