第8話
どれだけの時間泣いていたのか。泣き疲れて眠ってしまったらしい。
不意に少年は浅い眠りから覚めた。慌てて周りを見渡すが、誰もいない。少年はゆっくりと身体を起こし、そっと周りを窺った。なぜあの人についてきてしまったのだろう。急に少年は怖くなった。なぜあの人は僕をここに連れてきたのだろう。あの人も、僕を殴るのだろうか。それとも殺されるのだろうか。
今ならあの人はいない。帰ろうか。でも、どこに?自分には帰る家はもう無いのだ、と少年は思った。あの家は帰る場所などではない。
そうだ、死のうとしていたのだ。川に入って流されていけば、もう全部終わる。今のうちに、あの人がどこかに行っているうちに、川に行こう。そう思っても、なぜか少年は立ち上がる事ができなかった。
スープが目に入った。あの人が作ってくれたスープ。冷めてしまったそのスープに、少年はそっと口をつけた。美味しい。そうだった。熱々のそのスープがあまりに美味しかったので、少年は泣くのを我慢できなかったのだ。あのひとは優しく、好きなだけ泣けば良いよ、と言ってくれた。人前で泣く事は、彼にとっては恐怖だった。いつも、泣けば泣くほど嘲られ痛めつけられた。あんなに思い切り泣いたのは久しぶりだった。あの人が僕を殺したいのならそうすれば良い。そう思ったら、彼は不意に楽になった。ほんの少し、恐怖が和らいだ。
どのみち近いうちに、僕はあの家で殺される事だろう。暴力は日に日にエスカレートしていた。特に、従兄からの暴力には節操がなくなっていた。殴り殺されるか餓死するかのどちらかだ。春休みの間、彼が食べる事が許されたのは1日に1袋の冷凍のうどんだけだった。彼は唯一の食糧である冷凍うどんを手に入れるために1日中懸命に家事をし、どんな理不尽な命令にも従った。1つのミスも許されなかった。そして1日の終わりに、彼は与えられた凍ったままのうどんを、口の中で溶かしてゆっくりと食べた。時にはそれすら罰として取り上げられた。いつも空腹で、時には立ち上がるのが苦しくなって、耐えきれず、目を盗んでは砂糖や塩を舐めた。洗い物をしながら、シンクの中の生ゴミも食べた。ティッシュを食べた事もあった。その春、空腹が酷いと胃が痛くなる事を彼は知った。ただでさえキリキリと痛む鳩尾を、従兄はしばしばなんの理由もなく突然殴りつけてきた。目の前が暗くなり、息もできずにのたうつ彼を何度も蹴り上げた。時には手を後ろに従兄の前に立たされ、気が遠くなるほどの時間ビンタされ続ける事もあった。しゃがみ込む事も手で庇う事も許されず、ひたすら彼の気が済むまで殴られ罵られ続けるのだ。学校がない期間は遠慮がなくなった。顔だろうが頭だろうが、好きなところを好きなだけ殴られ痛めつけられるのだ。彼の身体は傷だらけで、いつも腫れ上がっていた。
きっと夏休みには僕は殺されるだろう。何とか春休みを乗り切った時、少年はぼんやりと考えた。その頃は、少年の頭は時々霧がかかったようにぼんやりとした。長い時間まとまってものを考える事ができなかった。感覚が鈍麻し、心はしばしば現実を離れて過去や空想の中を彷徨った。それが解離と呼ばれる心の悲鳴である事は、少年は知る由もなかった。現実の中では彼の心と身体は痛みで切り裂かれ、恐怖で押しつぶされていた。痛みと恐怖が限界に達すると、彼の心はスイッチを切るように現実を離れた。
男が帰ってきた時、少年は再び眠りの中にいた。少年は地面に直接横になり、胎児のように体を丸めて眠っていた。窓から眠る少年が見えたので、男は物音を立てないように慎重に小屋に入ったが、少年はすぐに気付きハッとしたように飛び起きた。
「ご、ごめんなさい。」何を謝っているのかは少年自身にも分からなかったが、恐怖を感じると謝らずにはいられないのだった。
「すまんなんだ。やっぱりこんなホームレスの使った布団なんて嫌じゃの〜。寝袋買うてきたけん、こっちを使いんさい。」
と言うと男は少年の前にまだ封を切っていない寝袋と毛布をを置いた。少年は困惑したように首を振りながら寝袋を見つめていたが、最後には深く頭を下げて「ありがとうございます。」と言った。
「もし嫌やったらあれやけんな、こっちの板の上に寝袋敷いて寝る方があったかいけん、こっちきんさい。」
男が自分の布団を動かして作ったスペースに、少年は恐る恐る寝袋を持って行った。不思議とそれほど恐怖は感じなかった。男はホームレスと言うにはこざっぱりとしていて、少年はなかなか風呂に入らせてもらえない自分の体臭の方を気にした。「ごめんなさい、僕、臭いと思います。ごめんなさい。」少年は悲しげに呟いた。男は「そんな事なか。」と言って買ってきた弁当を少年に渡した。「カツ丼好きか?鯖の方が良かったら交換しちゃる。今味噌汁も作るけん、先に食べときんさい。」
男がテキパキとカセットコンロで湯沸かし、出汁の素を入れて味噌汁を作ってる間、少年はじっと待っていた。男は手際良く豆腐と葱の味噌汁を作り、器がわりの紙カップに入れて少年に手渡した。少年は何度もお礼を言うと、黙々と食べ始め、あっという間に平らげた。こんなに美味しいご飯は久しぶりだった。GW中はいつもよりは食事をさせて貰えたのでそれほどには飢えてはいなかったが、罰の恐怖に怯えながら食べる食事はほとんど味がしなかった。学校の給食が唯一のまともな食事だった彼にとって、湯気が立つほど熱々の味噌汁は長く食べていないものだった。
それからの数週間のほとんどの時間を、少年は寝て過ごした。朝は相変わらず4時半に目が覚めたが、男を起こさないようじっとしていたらじきにまた眠りに落ちた。慢性的な睡眠不足と疲労に悩まされていた少年には、睡眠こそが何よりの治療だった。最初は躊躇ったが、男がどうしても怪我の手当てをすると言うと、少年は素直に服を脱いだ。何故だか分からなかったが、少年はその男にはあまり恐怖を感じなかった。服を脱ぐのは罰の時だったから身体の震えは止められなかったし、汚されてしまった肌を見せるのは嫌だったが、傷の手当てをしてくれる男はどこまでも優しく、少年はいつしか、夕方のその時間を待ち望むようになった。男は酷い傷を見ても何も言わなかった。時々、痛く無いか?と聞く以外はただ黙って火傷に軟膏を塗り、切り傷に絆創膏を貼り、打ち身には痛み止めを塗ってくれた。男のカサカサと乾いた大きな手が軟膏を塗る為に少年の背中やお腹を撫でると、少年はなんだか幼い頃にかえったような気持ちになった。
何日が過ぎたのか、少年にはもう分からなかった。不思議と恐怖はあまり感じなくなり、男が出入りする物音にビクビクする事も少なくなった。目が覚めるといつも温かい味噌汁があり、少年はそれを食べ、また眠りに落ちた。夕方、男は決まって少年の身体に薬を塗り、必要なら絆創膏を取り替えた。夜になると少年は外に出て、川のせせらぎを聞きながらじっと空を眺めた。何時間も1人で座り、空を見つめて涙を流していた。寒くなって男が毛布をかけると、少年は我に返ったように立ち上がり、決まって「ありがとうございます。ありがとうございます。」と呟き、そして電池が切れたように眠り込んだ。
男は数日に一度、温めたお湯で少年の身体を丹念に拭いた。少年は時々痛そうに顔を歪めたが、男にされるがままになっていた。痩せ細ったその身体は傷だらけだった。男はその傷を慎重に避けて拭いた。時折、少年は引き付けを起こした。全身を痙攣させ、過呼吸になった。その度に男は少年が舌を噛まないよう服を噛ませて、少年をしっかりと抱きしめ、「大丈夫。大丈夫。」と言い聞かせた。発作が収まるとまた、少年はコンコンと眠り込んだ。
2週間ほどした頃から、少年が日中に起きている時間は徐々に長くなった。男の買ってきた本を手当たり次第に読むようになった。夜は男と一緒に畑で野菜を収穫したりもした。時々昔の思い出を男に話すようになった。両親がまだ生きていて、幸せだった頃の思い出だった。少年はそれを、宝物のように大切に心の中にしまっていて、男に聞かせる為というよりは、宝物を取り出して眺めるように話をした。男と話していて笑う事もあった。男は黙って話を聞いた。味噌汁を自分で作るようになったし、夜に悪夢を見て泣き叫ぶ事も少なくなった。このまま、ずっとここで暮らせたらどんなに良いだろう。少年は、叶わないと分かっていても、そう願った。
ある日、男は少年に一つの提案をした。
「ラブホテルって知ってるか?」
「ラブホテル?」
「そりゃ知るわけないねー。中1さ、知ってたらおかしいさね。カップルが行くホテルっちゃけんな、顔見られずに入れるとよ。」
「カップル?」
「変なこつ考えてるんじゃ無いさね、心配せんでよかよ。そこならね、お風呂に入れるとよ。1人きりでな。お風呂、入りたいっちゃろ?」
少年は自分の匂いを気にし始めていた。それに、汗疹がひどくなっていた。5月も残すところあと少しになり、気温も上がってきていた。
計画は単純だった。
深夜遅くに人の目のなくなった頃、歩いてラブホテルに行き、数日を過ごしてまた帰ってくる。少年は女性の服を着て目立たないようにする。男は何日も前からコンビニで新聞を買っていたが、少年の行方不明のニュースは少なくとも大きくは報じられていなかった。見逃した小さなニュースにはあるかも知れないが、もしかしたら彼の親族は、虐待の発覚を恐れて捜索願いを出していないのかも知れなかった。
6月に入ってすぐのある日、男と少年はラブホテルにチェックインした。数日過ごしたら帰ってくるはずだった。男はいつものように小屋の生活の跡を丁寧に隠して、いつもより多めに野菜に水をやった。
「帰ってくる時にはもうトマト食べられるようになってるけん、楽しみっちゃね。」
男が言うと、少年はにっこりと微笑んだ。
風呂に入ると、少年は生まれ変わったようになった。時間をかけて全身をくまなく洗った。まだ痩せてはいたが、この数週間は3食栄養のある食事をたっぷりと食べていた為顔色は良く、身体の傷も治りつつあるものも多かった。清潔になり、よく笑うようになった。服を着てしまえば、普通の中学生の男の子だった。男は少年の髪を切ってやり、自分も久しぶりに髭を剃った。少年は子供らしい好奇心でラブホテルの部屋の中を見て周り、ベッドが回る事に驚き、色とりどりのライトに照らされる風呂に喜び、テレビに見入った。
数日の滞在が1週間になり、少年が好きなだけホテルに滞在できるよう男はお金を掘り出した。男はもう、自分が当初何を目的としていたのか、この先少年とどうしていくのか、何もかも考えることをやめた。自分の過去も将来も考えなくなった。息子の事も、もう思い出さなかった。いや、本当に思い出さなかったのか、今となってはもう分からない。
少年が微笑む事、そのためなら何でもしようと思った。それだけしか考えられなかった。少年はもう、男にとっては自分の息子だった。男は少年を「ゆうた」と呼ぶようになっていた。少年は、自分がなぜ「ゆうた」と呼ばれるのかは分からなかったが、聞きはしなかった。この人が僕を「ゆうた」と呼びたければ、そうすれば良い。僕はゆうたになろう、少年はそう思った。
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