第7話
GWが明けた。
ようやくだ。GWは男には災難の1つだった。男の住処からそれほど離れていない所に大きな公園があり、そこから河原までビオトープが造られていた。普段は滅多に人が来ないその河原に、連休中は過ごしやすい気候もあいまって多くの家族連れやカップルが散策にやってくる。男の住処のある場所までは道は繋がっていないのだが、中には気まぐれな冒険心に触発されて道を分け入ってこの辺りまでやって来る者もいた。1年目に肝を冷やす思いを何度かして、男はGWが始まると住処を出て最寄りの市街地まで行き、典型的なホームレス達に紛れ込んでやり過ごす事にしていた。小屋に万が一人が来る事も考えて、時間をかけて丁寧に生活の痕跡を消した。男はとても注意深かった。それはこの生活で培ったというよりは生来の性格で、その性格はかつて男を優秀な刑事にするのに役立った。今ではその性格は警察の手を逃れるのに一役買っている。逃亡生活が始まって5年の歳月が流れた。
GWが終わり、男は通勤や通学の混雑に紛れて、電車に乗ってこの町に戻ってきた。駅前のロータリーを抜けて、交通量の多い道を渡ると、もう畑が点在する昔ながらの住宅地だ。朝のこの時間は皆忙しなく、1人歩く男に注意を向ける者はいない。男は早く堤防の向こうの雑木林に行こうと足を急がせた。そこまで行ってしまえば、川沿いを誰にも見られずに小屋まで帰ることができる。住宅地を抜けて堤防を降り、雑木林に到達したところで男は、テトラポットに白い鞄が引っかかっている事に気づいた。ここに物を捨てて行く人間は少なくない。誰かが要らなくなった鞄を投げ捨てたのだろうと思ったが、何かが引っかかった。見たことのある鞄だった。ついさっき見たような。しばらく歩いて男ははっと気がついた。あれはここの近くの中学生の指定鞄だ。駅からの道すがら、たくさんの中学生の集団が自転車で通り過ぎた。どの自転車の荷台にも、同じ白い鞄が括り付けられていた。中学生が鞄を投げ捨てたのだろうか。男はきた道を引き返し、足場の悪いテトラポットに近づいた。気になると確認しなくては気が済まないのは、刑事だった時の習性がまだ抜けないのだろうか。男は心の中で自嘲気味に笑った。
鞄の先に人が倒れているのに気が付き、男は驚いた。学生服を着ているところからして、中学生だろうか。堤防から滑り落ちたのだろうか。近寄ると、倒れていたのはあの少年だった。テトラポットと斜面に挟まれるように、少年は倒れていた。血は見えない。学生鞄がクッションとなり、テトラポットに体を強打するのは防げたようだった。でも少年の顔は青白く、意識がないのは明らかだった。死んでいるのだろうか。男は苦労してテトラポットを超えて、少年の体に近づいた。首に手をやると脈拍は正常だった。生きている。男は少年を持ち上げようとした。彼の身体は見た目以上に細く軽かったので、持ち上げるのはそれほど難しくはなかったが、足場が悪かった。少年が意識を取り戻し、パニックになって暴れたら怪我をさせる。男はその場で、少年の怪我の程度を確認した。目視できる限りひどい怪我は頭部には見当たらなかった。唇の端が切れて、頬にも古いあざが幾つかあったが、意識を失う程のものではないだろう。服の上から手足を触り、骨折していないことを確かめた。熱中症かも知れない。温暖化の影響か、5月とはいえそれなりに暑かった。熱中症になる程ではないが、少年はなぜか学生服のジャケットを着ていたので、ぐっしょりと汗をかいていた。ジャケットを脱がせようと脇腹に手を差し込んだところで、少年は顔を歪ませ軽い悲鳴をあげながら意識を取り戻した。脇腹に怪我をしていたのだと男が気付くのと、少年が怯えた様子で慌てて上体を起こすのが同時だった。
「ごめんなさいっ」少年は引き攣った声を出して後ずさろうとして、テトラポットの隙間に手を取られて肩を打ち、悲鳴を上げた。男は慌てて少年から一歩離れて「大丈夫、心配しないで」と急いで声をかけた。それでも少年は怯えた目のまま男を凝視し、「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。男がほんの少しでもみじろぎすると、少年は手で頭を覆ってさらに後ずさろうとした。男はできる限り動かないように気をつけながら、何度も繰り返し「大丈夫。何もしない。」と努めて静かな声で言った。男はそう言いながら慎重に体を動かしさらに少年から離れた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」怯えて小さな声で呟き続ける少年を、男はしばらくの間黙って見つめ、少年が落ち着くのをじっと待った。
しばらくの間、少年は大きな瞳で男を凝視し、震える声で謝り続けたが、強張った少年の身体からほんの少し力が抜けた気配を、男は見逃さなかった。「大丈夫、何もしないよ。手を貸すから、ここから降りよう。」男が静かな声で言うと、少年は微かに頷きそろそろと降り始めた。手を貸そうと近づくと、少年は再び身体を硬く強張らせたが、今度は逃げなかった。
「俺の住んでるとこで、しばらく休んだら良いよ。」足場の悪いテトラポットからなんとか地面まで降りると、男は努めて何でもないかのような口調で少年に言った。少年は目を伏せ、途方に暮れた表情でしばらく逡巡したが、男が歩き出すと黙って付いてきた。
「俺は、実はホームレスなんだ。だから住処は快適とは言えないけど、その分、当分の間は見つからない」男がそう言うと、少年は黙って微かに頷いた。
男が慣れた手つきで隠していた生活道具を取り出している間、少年は小屋の片隅で微動だにせず立ち竦んでいた。男の一挙手一投足を見逃すまいと緊張した面持ちで常に男の動きを目で追っていた。男が座椅子を取り出して座るように言うと、少年は「はい」と答えて素早くその場に正座した。「違うよ、こっち。座椅子に座んな。」と言うと、しばらく迷った挙句「ここで大丈夫です。申し訳ありません。」と不安げに答えた。「そんならそこで良いから座椅子は使んな」と言っても少年は頑なに正座を崩さなかった。少しでも小さくなろうとするように身を固く縮こまらせる少年を見て、彼のこれまでの暮らしを思い、男は胸が痛んだ。しかし焦っては余計に少年を怖がらせるだろう。男は少年をそのままにして、寝床の準備に取りかかった。土間の床に木板を何枚か並べてカーペットを敷く。男は慎重に隠した布団を取り出してカーペットの上に敷いた。カセットコンロを取り出して鍋にペットボトルから水を入れ、湯を沸かした。火をつけた時、少年は微かに身じろぎした。火が苦手なのだろうか。
男はインスタントのスープを2つ作ると、1つを少年の前に置いた。「食べな」と言うと、少年は少し迷った後、「ありがとうございます!」と頭を深々と、地面につくほど下げてそのまま固まってしまった。男が驚いて「やめやめ。そんな頭下げられる程のもんやないよ。頭あげなぁ。」と言うと少年は恐る恐るといったふうに頭を上げて、男がもう一度「食べなー」というのを確認してからようやくスープを手に持った。しばらく少年は静かに音もなくスープを飲んでいたが、そのうち嗚咽を漏らすと「ごめんなさい、ごめんなさい」と小さく呟きながら泣き始めた。男はさらに驚いた。「どうしたね?スープ嫌いやったか?あ、熱かったんか?すまんよすまんよ。熱すぎたか?」少年はいやいやという幼子のように首を横に振り、言葉もなく泣き続けた。
「あんたが辛い目にあっとんのは知っとるよ。時々見かけたもんね。朝方に玄関先箒で掃かされよったり、洗濯物干しよったりもね。だけん、もう大丈夫や。ここにおればもう誰もあんたの事殴らん。俺があんたの事守っちゃるわ。」男はほとんど無意識にそう口にしていた。少年は大きな瞳をさらに見開いて男を見つめ、ポロポロと涙を流した。
「泣きたきゃ我慢せんと泣きゃあええよ。声出して、どんだけでも泣きゃあええよ。」少年は身体を折り曲げるようにして泣き崩れた。男は、少年の背中をさすってやりたい、できる事なら、もう大丈夫だと、抱きしめてやりたいと思ったが、それはできなかった。少年を怖がらせる心配もあったが、何より、男は自分が少年に触れる事で少年を汚す事が怖かった。自分の手は、あの少年に触れるには汚れすぎている。胸の奥がキリキリと痛み、男は耐えきれずに立ち上がった。「ちょっと買い物に行くけん、布団で休んでなね。」そう言い残すと、身を捩るように泣き続ける少年の脇を通り越して外に出た。風に当たった頬が冷たくて初めて、男は自分も涙を流していることに気付いた。
自分には泣く資格なんて無いのに。あの子は、声をあげて泣く事すら許されなかったのだろうか?それなのに。男は自分に腹が立った。泣いている自分が許せなかった。俺が守る?人殺しのおまえが。自分の家族を守れなかったばかりか、その手で殺したおまえが。何を守れるというのだろう。男は叫びだしたい衝動にかられた。自分という存在を消し去ってしまいたかった。
あの子を助ける事でおまえは、自分を救おうとしているのか?償いをしようと?声を殺して泣き続ける少年の顔が目に浮かんだ。脇腹に怪我をしていた。刑事をしていた頃、自分の子供や恋人の子供に暴力を振るった親を逮捕したことは一度や二度ではない。被虐待児は肋骨が折れていることがよくあった。もしかしたら彼もそうなのかも知れない。あの子の怪我が少し回復するまで。その間だけ、匿ってあげる。彼が、警察か児童相談所に行き、残忍で卑劣な虐待者から逃れるだけの力を回復するまで。
長期に渡って酷い暴力を受けて心身ともに疲弊している子供が、何かのきっかけに児童相談所や警察に保護されても、しばらくしたら連れ戻されてさらにひどい暴力を受けるケースを、男は幾度となく見た。彼らはひどく疲弊し、恐怖の支配下にあって、連れ戻しに来た虐待者に抵抗する事ができない。
男はそう自分に言い聞かせた。おまえは救われてはいけない人間だ。あの子を助けるのは、自分ではない。ただ、少しの間、かくまってあげるだけだ。あの子が逃げられるほどに回復するまで。その間だけ。
忘れるな、お前は薄汚い人殺しだ。
その手で、息子を、守るべきものを
殺したのだ。
お前は人殺しだ。救いなどない。
男は何度も自分に言い聞かせた。
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