第6話
GWが明けた。
今年も黄色い花が堤防一面に咲いた。
少年は中学生になっていた。従兄からのお下がりの制服はブカブカでズボンの裾は擦り切れていたが、そんな事は少年には問題ではなかった。少年は朝の仕事を終え、中学までの道を歩いていた。他の生徒が自転車で行く道のりを、少年は歩いて通っていた。朝の仕事はずいぶん早くこなせるようになったのだが、その分学校までの道のりが遠くなったので、結局少年の起床時刻は変わらなかった。むしろもう少し早く起きないといけないのかも知れない。少年は暗い気持ちになった。急がなくてはいけないと思うのだが、その足取りは重たかった。これ以上早く起きるのは無理だ。慢性的な睡眠不足で、彼はいつも眠たかった。
彼は一面に咲く黄色い花を眺めた。去年の今頃、あの家に連れてこられた時にも、この花は堤防一面に咲いていた。少年はこんなにたくさんの花が一所に咲く様を見たことがなかった。なんてきれいなんだろう。毎日この花を見ながら暮らせるのなら、両親を亡くして以来ずっと落ち込んでいた気持ちも、少しは晴れるのかもしれない。彼は地獄のような毎日が待っているとも知らずにそう思った。そして全てが粉々に打ち砕かれ、地獄のような毎日が始まってからも、彼はその黄色い花を見てほんの少し元気付けられていた。
でもそれは長くは続かなかった。あの親子はまるで彼の頭の中を覗いたかのように、正確に、彼の拠り所を狙い撃ちにするのだ。少し長く花を見過ぎたのかも知れない。それとも最初から、少年がこの花を気にいる事を予想していたのかも知れない。そして彼の心を傷付ける一番良いタイミングを狙っていたのだ。ある日、2人は嬉しそうに少年に告げた。
「あの黄色の花、あんた、あれ気に入ってるみたいだけど、あれは特定外来種なのよ。」「特定外来種?」「外国から来た有害な物質。あれは駆除しないといけねーんだよ、お前と一緒でな。明日か明後日、あれ全部草刈機で駆逐されるよ。お前も一緒に駆逐されるべきなのにね〜。」2人が何の事を言っているのか、彼にはすぐには分からなかった。
幼稚園からインターナショナルスクールに通っていた少年は、それまで自らの出自について考えた事はそれほどなかった。異なる幾つかの国籍を持つクラスメイトはたくさんいたし、日本国籍の無い友人もいた。この家で初めて彼は、薄汚い混血の子供と呼ばれた。異なる人種の遺伝子を待つ事が憎悪の対象になるという事を、彼はその時初めて知った。理由は分からなかったが、彼らは少年の、父親からの遺伝子による容姿を激しく嫌悪し攻撃した。毎日のように罵られた為、この家に来てそれほどしないうちに少年は、自分が醜いと信じるようになった。「気持ちの悪い顔」「不快な顔」そう言われる度に、少年は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、途方に暮れた。少年は日々、彼らの怒りをかわないように懸命に努力していたが、顔を変える事はできない。「ごめんなさい」そう口に出して謝るにつれて、少年は自分の容姿に本当に罪悪感を抱くようになった。学校でも、彼の容姿は人目を引いた。その学校にも二重国籍を持つ子供は数人いたが、その誰もがアジアにルーツを持つ子供達だったため、彼ほどは目立たなかった。多くの子供達は彼の容姿を好奇の目で見たが、醜いと思う者はいなかった。子供達は彼の容姿をただ眺めるだけで、攻撃したりはしなかった。中には素直に憧れを口に出す子供もいた。「目、茶色いの羨ましい。」「いいな〜ハーフ。」しかし少年はそれを言葉通り受け取る事はできなかった。顔をジロジロ見られる度に、少年は恐怖と罪悪感を覚えた。「ごめんなさい」そう口に出して謝りたくなった。少年は、顔をあまり見られないようにいつも俯いて歩くようになった。
もうすぐ大きな、軽自動車程もある草刈り機がやってきて、この黄色い花は一本残らず刈り取られトラックに詰め込んで燃やされる。少年は自分も一緒にその草刈り機で刈り取られ、トラックに押し込まれるところを想像した。たくさんの黄色い花に包まれて、燃やされる自分を想像した。そんな事を考えたくはなかったけど、頭に浮かぶその映像を、彼は振り払う事ができなかった。少年は花を一本手折って、そっと鞄の中にしまった。この花は僕と同じだ。ここにいてはいけないもの。なぜだか連れてこられて、ここで生きる他には術がないのに、いるだけで人々を不快にさせてしまう。去年、あの花が刈り取られて、トラックに詰め込まれて運び去られた時、彼は涙を堪えられなかった。切られた花が一本、堤防の隅に落ちていた。彼はそれを拾い、丁寧に一枚一枚花びらをむしって、口に押し込んだ。この花も僕の中にしまおう。僕の中で、この花は繁殖し、僕の心一面に咲く。色の薄い僕の瞳も、髪も、僕の中にしまえたら良いのに。少年はそう願った。
父と母は僕の瞳や髪を愛してくれた。少年は何とかその記憶を呼び戻そうとした。母が「あなたの瞳はパパと同じ色ね。」と言う時、少年はとても嬉しく誇らしい気持ちになった。「Ma beau」父は時々少年をそう呼んだ。私の美しい男の子。ほんの一年と数ヶ月前の事なのに、もう遥か昔のことのようだ。少年は、何とかその光景を思い起こし、気持ちを奮い立たせようとしたが、もう彼にはその力は残っていなかった。父の美しい男の子はもういない。父と母が愛してくれたあの男の子は、去年、黄色い花に包まれて燃やされたんだ。パパ。ごめんなさい。パパのbeauを、僕は守る事ができなかった。醜いのは僕の顔だけじゃない。僕の身体も、もう汚されてしまった。全身に青痣や紫色の内出血、治りかけて黄色くなった痣があった。特に背中はもうぐちゃぐちゃだ。消えない傷も無数にある。何度も打たれて裂けた為、ひきつれて凹凸になった皮膚。ミミズ腫れの跡。そして、「ドレイ」の文字に並べられた、煙草の火の丸い火傷の跡。一生消えない奴隷の印。今朝は出血もまだ止まっていなかった。それを隠すために、彼は5月なのに学生服の上着を着ていた。
伯父が家にいる間は、少年の身体にとっては束の間の休息だった。毎日の仕事をミスなくやってさえいたら、罰と称した激しい暴力を加えられる事はない。少年はこの一年間で家の仕事をほとんど完璧にこなせるようになっていた。何度も鞭で打たれながら、少年は必死に家事のスキルを上げていった。素早く、そして完璧に。ミスがないかいつも気を配り、彼らの怒りをかわないように、彼らの注意をひかないように、常に気を張ってほんの小さな物音、ほんの少しの彼らの表情の変化も見逃さないようにした。少年は頭の中で、長い長いチェックリストを作った。些細なことで怒鳴りつけられる度、チェックリストは増えていった。毎日毎日、彼はそれを、一つ一つ丁寧に潰していった。それでも罰は、多少頻度は減ったが無くなることはなかった。伯母と従兄は何かいちゃもんをつけては、定期的に少年を殴り、煙草の火を押し付け、鞭打った。なぜならそれは罰ではなく、彼らの楽しみだったから。従兄の暴力は時に罰という体裁すら取られなかった。すれ違いざまに、何の意味も前触れもなく、彼は殴られたり蹴られたりした。少年は家の中でいつも怯え、息を殺していた。暴力は最早彼の日常になり、いつも身体を強張らせている為か、慢性的な疲労感が彼をさらに苦しめた。
伯父が帰っている期間、夫や父親の手前、彼らはその楽しみを我慢した。この連休は食べ物にありつくこともできた。学校が休みの日に、日に2回も食べさせてもらえるなんて。しかも残りものではあったが、おかずも食べさせてもらえた。でも少年はずっと怯えていた。この反動がきっと伯父が帰ってから彼の身に降りかかるのだろう。何をされるのだろうか。そう考えると、彼の右手は彼の意思に反して震え出した。
右手が震え出すと彼は焦った。何とかして止めないと、手の震えは徐々に身体中に伝わって、全身が激しく震え出す。そして最後には呼吸ができなくなる。息を吸おうとしても、彼の周りだけ酸素がなくなってしまったかのように。呼吸が出来なくなり意識を失う事だけは避けたかった。彼は持っていた鉛筆で右手の二の腕を刺した。痛みが彼の意識を呼び戻し、恐怖から遠のかせる。彼はどうにか息を深く吸い込み、また吐き出す。良かった。徐々に手の震えが弱くなり、そして止まった。彼は涙を流しながら肩で息をしていた。こんな事なら、早く罰を与えて欲しい。今や彼にとって痛みは、その痛みを想像する恐怖よりは幾分耐えやすいものだった。彼の身体はもう、彼のものではなくなっていた。この身体はもう、あの人達のものだ、と彼は思っていた。あの人達が好きにできるもの。殴られたり蹴られたり、鞭で打たれたりしている時、彼はひたすら声を出さない事と意識を失わない事だけを考えていた。声を出すと彼らはより一層嗜虐的になる。でも声を出さないように歯を食いしばり息を止めると、呼吸ができなくなり意識を失う。意識を失う事は恐怖だった。彼は痛みと痛みの合間に、必死で呼吸した。あの人達が言うように、これは罰なのだ。僕というゴミが存在している罰。両親と共に死ななかった罰。
家からずいぶん離れた所まで来て、彼は堪えきれなくなって堤防の隅にしゃがみ込んだ。背中が痛い。服が火傷の傷に擦れて耐え難い痛みをもたらしていた。息を吸うと脇腹も痛い。昨晩は何度も首を絞められたため喉も痛かった。昨日の夜の暴力は凄惨だった。1週間分の憎悪と鬱憤を思うままに発散された。煙草の火を押し付けられた所に、上からもう一度火を押し付けられると、火傷の深さが増すため痛みは格段に上がる。小さく悲鳴をあげながら彼は失禁し、それがまた彼らの怒りをかった。虐待は夜更け過ぎまで続き、彼らが眠たくなって解放されてからも少年は痛みでほとんど眠ることができなかった。死んでしまえれば良いのに。首を絞められて意識を失いかけながら、背中をワイヤーの鞭で打たれながら、ライターの火で炙られ、同じ箇所に何回も何回も煙草の火を押し付けられながら、何度も何度も彼は思った。殺して下さい。お願いします。殺して下さい。でも彼の願いはいつだって聞き届けられる事はなかった。
身体中が痛い。彼は声を殺して啜り泣いた。堤防を降りて、雑木林を抜けたら川がある。その川に入ったら、死ねるだろうか。「自殺は殺人です。」その神父の言葉は、もう神を信じる事ができなくなってなお、彼の心に強く残っていた。でももう、限界だ。学校はもう始まっている。早く学校に行かなくては。教師から伯母に連絡がいくと、また何をされるか分からない。恐怖が足元から込み上げ喉元を埋め尽くした。胃液が込み上げてきて、彼は嘔吐した。ここで気を失うのはまずい。彼はほとんどパニックに陥っていた。痛みが彼の混乱に拍車をかけた。息が。息ができなくなりそうだ。少年は空を見上げた。助けて下さい。パパ、ママン。どうか助けて。少年はどうにか立ち上がった。とりあえず雑木林まで行こう。そう考えてよろよろと堤防を降りかけたところで少年は力尽き、斜面を滑り落ちながら意識を失った。
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