第5話
4月の末。
連休が始まると野咲武志は単身赴任先から新幹線で2時間の自宅に戻った。憂鬱な毎日だった。妻は連休中ずっとイライラしていた。あの少年のせいだ。あんなやつ、引き取らなければ良かったのかも知れない。あいつを引き取らず施設に預けたままあの金を手に入れる方法を、もう少し模索するべきだった。あの金があるから神戸での好きな女との暮らしが成り立っているのは事実だが、あいつのせいで連休中はずっと家に帰らなくてはいけなくなったのも事実だ。本当に厄介な奴だ。妻と子供があいつに暴力をふるっている事も面倒だ。帰る度にあいつは痩せ細ってやつれていっている。目の前で暴力を振るっていなければ自分には関係のない事だと思っていたが、万が一死んでしまったらそうもいかない。彼が心配していたのは、会社での自分の立場だけだった。もし虐待が露見したら社会的に不都合だ。
良い高校に行き、良い大学に行き、名の知れた会社に就職し、出世して成功する事。彼はその事だけを周囲から求められてきた。その期待に応えていれば、周囲は彼を持ち上げ、褒めそやし、甘やかしてくれた。両親は、彼を自慢の長男として徹底的にスポイルし、3歳離れた妹は女というだけで彼より劣った存在とされた。その事に、彼はなんの疑問も抱かなかった。妹は女だから、勉強などする必要はない。妹は女だから、家族のために家事を負担するのは当然で、自分より下の存在だから自分や両親の命令を聞くのは当然だ。彼はそう思っていた。だから妹が、両親の命令に背き、家を出て、働きながら東京の大学に通うと言い出した時は、両親と共に激怒した。そんな勝手は許される事ではなかった。高校を出たら働きながら家事を手伝い、年頃になったら父親の決めた男と結婚する。それが妹に与えられた唯一の選択肢のはずだった。反対を押し切って家を出て、東京の大学に行っただけではなく、外国人の男と勝手に結婚するなど、家族に対する酷い裏切りだった。だから彼の中で妹はもう、死ぬずっと前からいないも同然の人間だった。それなのに、死んでから厄介事を押し付けてくるなんて。両親が生きていたら両親に押し付けたのに。親が相次いで病気で死んだ時は、介護の負担がなくなってラッキーだと思ったのに、こんな事ならもう少し長く生きてくれれば良かった。
そもそもあいつを引き取る事に、妻は反対だった。中学を卒業するまでだ。中学を卒業したら、住み込みで働く先を探して働かせる。それまでの辛抱だから、と彼は妻をなだめた。実の妹の子を施設に置いたまま引き取らないというのは体裁が悪い、と彼は考えた。しかし彼がそれ以上に考えていたのは、妹夫婦が残した遺産だった。思ったよりずっと多かった。後見人になれば、自由に使える。彼の収入は決して少なくはないが、二重生活を送るには金がかかる。妻に知られず自由に使える金は、喉から手が出るほど欲しかった。彼は妻の鼻先に少々の金をちらつかせて丸め込んだ。本当に手に入る金の、10分の1にも満たないはした金だ。だから、妻と子供があいつで憂さ晴らしをするのは構わない。ただ、ばれないように上手くやって欲しい。面倒ごとはごめんだ。この連休中彼は妻に、少年に毎日ある程度の栄養を摂らせなければいけないと強く言い含めた。「世間体を考えろ。この田舎で、身内の子供をいびっているなんて噂が流れたら、恥ずかしいだろ。それに、栄養失調で死んだらしたら、大問題だぞ。今、会社で大事な時なんだよ。足を引っ張るような事をしないでくれよ。」
夫のその言葉に女はイライラした。その田舎で、二世帯住宅でもないのに両親と同居するように強制したのは誰だというのか。大体、夫の言うその世間体というのはいつも、自分の体裁を守るためだけの物差しだ。あの2人、夫の両親もそうだった。夫の両親の事を思い出すと、女はさらに激しく苛立った。あの2人は最初から、私を値踏みするような目で見てきた。いや、見ただけじゃない。実際に値踏みした。どこの学校を出たのか、父親の出身大学はどこだ、どこに勤めているのか。挨拶もそこそこに矢継ぎ早に質問してきた。父親が大学を卒業していないと聞くと、見下した素振りを隠そうともしなかった。「公務員?じゃあまぁ一応生活には困らないわね、ギリギリの生活でしょうけど。」と言ったのだ。その時の悔しさを彼女は未だに忘れてはいなかった。
いつもそうだ。彼女は子供の頃からずっと、自分がどこか周囲から見下されているような感覚から抜け出せなかった。小学校から高校まで、彼女はいつもクラスの派手なグループの中の道化の役割を担っていた。いじられキャラ。引き立て役。そんな自分を変えたくて、特に成績が良かったわけでもないのに親に無理を言って、片道1時間半かけて東京の短大に通学した。でも大学では、都内に住んでいる友人にどこか引け目を感じていた。地元の友人達に東京の学生生活を自慢しても、友人達は羨ましがるどころか背伸びをしている彼女をさらに嘲笑った。短大を卒業して、なんとか都内の大手企業の事務職に契約社員として入社してからも、正社員の、それも総合職で入社した女達にいつもバカにされているように感じていた。この結婚でやっと、やっとみんなを見返してやれる。そう思っていた。総合職のバカ女ども。いかにも仕事ができる風の服装で、都会生活を謳歌している事を見せびらかして、でもあんた達が狙っていた男を射止めたのは私だ。ずっと私をいじって、嘲笑っていた地元の女達も。あんた達の夫と違って、私の夫は国立大学を出て、大手企業で将来を嘱望されている。今度こそみんなを羨ましがらせる事ができる。そう思っていたのに。こんな田舎で暮らす事になるなんて。生まれ育った町よりもずっと田舎だ。そしてこの田舎でも、彼女は見下されているように感じていた。町内会はもちろん、PTAや子供会でも、この辺りを仕切っているのは古くからの住人だった。彼女の家が4軒は建ちそうな広さの自宅の土地以外にも幾つかの土地を持っていて、勤め先からの収入以外にアパートや駐車場を経営していて不労所得がある。派手な生活はしていないが、その実、彼女の夫と同じかもしかしたらそれ以上の収入がある。夫はたまに出て行く町内の集まりの際はいつも、隅の方で黙って座っていた。
本当にイライラする。煙草を吸えないのも彼女の苛立ちを加速させた。早く夫が帰れば良いのに。夫が帰ったら絶対にあいつを殴りつけてやる。夫が強く言うので、今日は2回もあいつにご飯を食べさせた。2回目の時にあいつは、一層怯えた顔をして「本当に良いんですか?」と聞いてきた。夫は呆れたように笑って「めっちゃ怯えてるじゃん。いつもどんなけいびってんの。こわ〜」と嫌味を言った。本当に腹が立つ。あいつの怯えたような、そのくせ妙に大人びたあの茶色い目を見ていると、あいつを痛めつけたくてたまらなくなる。
女は、まだ結婚する前に、少年の両親と一度だけ食事をした時のことを思い出した。あの目は、父親にそっくりだ。あいつの両親は私達の結婚式に断固として出席しようとしなかった。夫となる男から、疎遠になっている妹がいてその妹がフランス人の男と結婚していると聞かされた時、彼女は、この結婚にさらに箔がついたように思った。フランス人!「義理の妹のダンナの招待で、パリに行くの。」そう友人達に自慢している自分を想像してうっとりした。それにフランス人の男が結婚式にいたら、さぞかし見栄えが良いだろう。「妹はもう何年も前に勝手に家を出て、両親も自分も妹とはもう疎遠だ。結婚式にも招待するつもりはない。」そう言う彼ををなんとか説得して、招待状だけでも送らせた。欠席の返事が来ても、諦めなかった。もう友人達にフランス人の親戚の話をしてしまっているのだ。「新婚旅行はパリにしようと思ってるの。あちらの家族からパーティーに招待されているし。」そう言った時、ほんの少しだが初めて、友人達は羨ましそうな顔をした。今更結婚式には欠席するだなんて、言えるはずがない。なんとか妹に連絡を取らせて、義理の妹になるはずの夫婦と3人での食事に漕ぎ着けた。兄がいないのなら、という申し出も、かえって好都合だと思っていた。
でも、彼らは取り付くしまもなかった。終始友好的な態度で、「結婚を祝福するわ」と口では言いながら、何度お願いしても決して首を縦にはふらなかった。「両親と兄とは、もう絶対に会わないって決めたの。」とあの女は静かに言い、フランス人の男は女の肩や背中を常に撫でながら時々コソコソと英語で何かを話した。最後に、「じゃあダンナさんだけでも出席してくれない?」と言うと、その男は目を見開いて「どうして?」と日本語で言った。「フランス人の親戚ができる。結婚式にも来るって、友達に自慢しちゃったのよ。」と正直に話したのに、女はそれを隣の夫に訳さなかった。「ごめんなさい。彼はそれを良くは思わないわ。」と、また妙に静かな声で言った。その隣のフランス人の男は、人を見透かすような、小馬鹿にしたような茶色の目でじっとこちらを見ていた。
あいつの母親はとても地味な顔をしていた。化粧もほとんどしていないようだったし、髪も黒いまま、なんの飾りもついていないゴムでひとまとめにしているだけ。服装だって地味で、流行りの物など何一つ着ていなかった。アクセサリーは金色の何も付いていない細いネックレスだけ。こんな女がどうしてフランス人と結婚できたのか、不思議でならなかった。
2人のことを思い出すと今でも胸がムカムカする。あの2人は絶対に私を見下していた。あの子が家に来た時、すぐにあの目を思い出した。絶対に許さない。あの後、私がどれだけ友人達から馬鹿にされたか。明日には夫が神戸に帰る。帰ったら叩きのめしてやる。お前の父親と母親が私を馬鹿にしたツケを払わせてやる。
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