第4話
12月24日
久しぶりに銭湯に来た男は、入り口に飾られたクリスマスツリーを見て、今日は何日だろうと考えた。クリスマス。男の人生の中ではいつも、クリスマスはさほど重要なイベントではなかった。男が幼かった頃は、クリスマスというのは今ほど一般的な催事ではなかった。12月25日は、多くの家庭にとってはクリスマスではなく師走だった。お節の食材を揃えたり、大掃除に勤しんだりする合間に、町のケーキ屋でケーキを買って夕食後に食べる程度の事だった。クリスマスプレゼントをもらったと自慢する子供がクラスに何人かいて、それだけでその家は金持ちだと子供達は思い込んだ。
男が初めてクリスマスを祝ったのは、自分の子供の為だった。それも数えるほどしかない。妻は毎年クリスマスイブの夜に丸鶏を焼いたが、男が焼きたてを共に食べた事は多くはない。大抵は深夜に温めなおして独りで食べ、翌朝の朝食で食べる事も少なくなく、全く食べない事も一度や二度ではなかった。
風呂から上がると男は休憩所で新聞を読んだ。新聞を読むのは久しぶりだ。あの街を逃げ出してから数ヶ月は、男は毎日コンビニで新聞を買って隅々にまで目を通した。自分の名前が新聞に載らなくなってからも数ヶ月、男は新聞を読んでそれを確認する事がやめられなかった。彼の名前が新聞に載らなくなって3ヶ月経ち、男は新聞を買うのをやめた。時々、銭湯や図書館で新聞を読む時にも、男はもう自分の名前を探したりはしなかった。安心した訳ではない。そんな事をしても、何の意味もないと気付いただけだ。
今日は12月24日。クリスマスイブだったのか。妻の焼く丸鶏の事が再び頭に浮かんだが、男は意識してその映像を頭から締め出した。全ては終わってしまった事だ。もう、戻る事はできない。昔の事を思い出す事を、男は慎重に避けていた。まだ妻と子供が自分を父親として見ていてくれた頃。自分の家庭が、普通の、幸せな家庭だと彼が信じられていた頃の光景が頭に浮かぶのを。しかしふとした瞬間に突然映像が頭に浮かぶ事を、彼は止めようがなかった。映像が鮮明であるほど、詳細にわたっているほど、男は目を瞑り、努力してその映像を頭から消し去った。幸福な幻影に浸る資格など、男にはなかった。気付かぬうちに、毎日毎日少しずつ、男はその手で家庭を壊していったのだ。少しずつ、しかし確実に、男は息子を損なっていったのだ。そして最後には…
男は新聞を読むのをやめ、銭湯の中の食堂に行って豚カツ定食を食べた。男が外でご飯を食べるのは月に2回、銭湯に来た時だけだ。そんな時には意識して、高タンパク質で高カロリーな物を食べるようにしていた。痩せすぎるのは良くない。不健康な身体は人目を引くし、身体を壊しても彼は病院にかかる事はできなかった。あの日からずっと、男は味覚を失っていた。何を食べても味がしなかった。食事は彼にとっては、必要な栄養を摂取する為だけのものだった。日々を生き延び、逃げ続けるために必要な栄養を。でもなぜ生き延びるのか、なぜ逃げ続けるのか、彼にはもう分からなかった。何から逃げているのかも、彼にはもう分からなかった。逃げて、苦しみ続ける事。それが自分に課せられた罰なのだと男は信じていたが、もうそれすら本当なのか男には分からなくなっていた。
銭湯を出たら粉雪が舞っていた。自転車を漕ぎながら、男はもうやめてしまいたいと思った。このまま、警察に向かう自分を想像した。線路の脇の交番に行き自分の名前を言えば、全ては終わる。簡単な事だった。警察署の取り調べ室で罪の告白をする自分を想像した。その小さな部屋を、男はありありと想像する事ができた。かつて男はそこで、多くの時間を過ごした。多くの人間の罪の告白を聞いたのだ。どんなに凶悪な犯罪を犯した人間も、どんなに威勢の良い事を言っていた人間も、罪の告白をすると皆一様に、肩の荷が降りたような、安堵の表情を浮かべる。そんな時男は、ひどく矛盾した感情を抱くのだった。ようやく落ちた。目的を果たした達成感と安心感。しかし同時に男は、ひどい嫌悪感も抱いた。自分が目の前の凶悪犯を救ってしまったような、まるで告解を受ける神父の役割を担わされたような。彼らは勝手に、赦しと和解を得たかのようだった。その証拠に、罪を自白した容疑者は皆、その晩ぐっすりと眠り、翌朝は清々しい表情をしている。そんな姿に、男は激しい嫌悪感と憤りを覚えたのだった。
しかし男は今まさに、彼が嫌悪感を抱いた容疑者そのものだった。もう逃げ出そう。罪を自白し、償いという逃避に向かおうとしていた。そんな弱く卑劣な自分自身を、男は心底蔑んだ。なんという身勝手だろう。自分は息子に、チャンスを与えなかった。息子が罪を償い、やり直すチャンスを与えなかった。そうする代わりに、男は一方的に息子を罰したのだ。しかも取り返しのつかない方法で。
あの朝、男は背中を刺され血を流して倒れる妻を見て、逆上した。包丁を手に自分にも襲いかかる息子に感じたのは、憎しみに近い感情だった。男は訓練を受けた優秀な警官だった。刑事として、何人もの犯人を取り押さえてきた。刃物を持った犯人を取り押さえる為の訓練も受けていたし、実際に取り押さえた事もあった。長年引きこもっていたひ弱な息子の事を、傷つけずに拘束する事はできたはずだった。けれど男は息子を刺した。一度刺し、やめてくれ!と息子が叫んでからももう一度、刺した。その場所が致命傷を与えうる場所だと言う事を、男が知らないはずはなかった。それだけではない。
男の罪はその前から始まっていた。男は息子を守るべき時にそれをしなかった。息子を守り、正しく導くのは男の役目だったのに、彼は仕事を口実に家庭から逃げ出した。息子が中学を休むようになった時、男は妻を責めた。息子が中学で教師から嫌がらせを受け、そのせいでクラスメイトからもいじめを受けていた事を知ったのは、ずっと後になってからだった。その教師は、他県でわいせつ罪で書類送検されていた。そのことを隠して採用試験を受け直し、教師を続けていた。教え子の父親が警官、それも刑事課の所属だと知って、その教師は不安にかられた。実際には警官は、必要なく他人の犯歴を照会する事はできないのだが、そんな事はその教師の知る故のない事だった。不安が彼を追い詰め、その教え子に対する鬱屈した憎しみに変わった。息子はそのクラスの中の生贄の羊となった。それを男が知った時にはもう、息子は取り返しがつかないほど傷つき、損なわれていた。息子は高校入試に失敗し、部屋から出て来なくなった。それでも男は同じように仕事を続けた。何日も家に帰らず、たまに帰宅してもすぐにまた仕事に出た。自分は社会の安全を守っている。男はそう思い上がっていた。本当のところは、部屋から出てこない息子とどう関われば良いのか分からなかったのだ。息子が妻に暴力をふるっていると気付いた時も、男は息子と向き合い、根本的な解決をはかる事はしなかった。ただアパートを借り、妻を家から遠ざけただけだった。市民の安全を守るために犠牲を払っている、男はそう思い込もうとした。しかし、自分の家族すら守ることのできない人間が、誰を守る事ができるというのか。
なんて卑怯なんだろう。男は自分の弱さを恥じた。それでも男は、竹藪の中の小屋とは反対の方向に自転車を漕ぎ続けた。その先の角を曲がるといつもの神社があり、そこを超えてしばらく行くと交番がある。自分が交番に向かっているのか、どこに向かっているのか、男にはもう分からなかった。ただひたすらに、楽になりたかった。
神社を過ぎて三軒目に、見慣れたその家はあった。男はふいに、自転車を止めた。目を凝らすと、外灯も点いていない玄関の外で、白い息をはく少年が見えた。少年は上着も着ずに小刻みに震えて立っていた。男は思わず自転車から降りた。少年の所まで行き、自分の上着を着せてやりたかった。こっそり忍び込めば、この家の人間には気付かれないだろう。でもそんな事をして、何になるのだろうか。もしこの家の住人に知られたら、その責めを受けるのは男ではなく少年だ。それでも、男は上着を少年に渡すことを諦められなかった。慎重に門を開けようとしたその時、雲の切れ間からの月明かりに照らされ少年の顔が見えた。少年は涙を流していた。しかしその表情は幸福そうで、ほんのり微笑んですらいた。少年の心はここにはなかった。少年の心がどこを彷徨っているのか男には分からなかったが、おそらくそこは幸福な空想の中なのだろう。
男は立ち竦んだ。少年は月明かりに照らされて、この世のものとは思えないほど美しかった。痩せこけて、薄汚い服を着て震えていた。しかしその顔は、神々しいほどに清らかで、涙を流しながら虚空を見つめるその目は、信じられないほど澄んでいた。男と少年の間には、越えられない壁があった。男は渡そうと思っていた上着を見つめた。そしてその上着をつかむ自分の手を見つめた。男はよろよろと後退り、自転車の横までいくとそこにしゃがみ込み、声を出さずに泣いた。涙は次から次へと溢れ出し、男は声を出さないように自分の腕を噛んだ。しばらく泣くと、男は立ち上がり、自転車に跨り、来た道を戻っていった。竹藪の中の、あの小屋へ。丸鶏を焼いてくれる妻はもういない。枕元にプレゼントを置くベッドはもうない。そこに寝ていた息子は、口から血を吐きながら死んだのだ。男がその手で、殺したのだ。全ては去っていき、男は残された。
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