第3話
12月24日
今日はクリスマスイヴだ、と少年は思った。粉雪がちらついている。ノエル ブロン。
Oh, quand j'entends chanter Noël
J'aime à revoir mes joies d'enfant
Le sapin scintillant…
少年は小さな声で歌おうとするが、寒さで歯がガチガチと鳴り上手く歌えない。少年は去年のクリスマスの事を懸命に思い出していた。クリスマスイヴのミサの帰り、父と母と3人でレストランに行った。そのレストランは父の気に入りの店だった。ステンドグラスのはまった黒いアンティークのドア。少年はそのドアのステンドグラスの模様を思い出そうと必死に記憶を探る。細部まできっちりと鮮明に思い出せば、もう一度その場所に戻る事ができるような気がした。もっと鮮明に、もっと詳細に、頭の中で映像を再現したかった。左右対称の文様の中心に、水色の雫の形があった。少年はその雫の色が好きだった。宝石のようだといつも思った。母は、その雫に色も形もそっくりのペンダントを持っていた。
あのペンダントはどこにいったのだろう。伯母がまだ持っているのだろうか。売ってしまったのだろうか。この家に来た時、少年は両親の遺品を全て取り上げられた。遺影も、遺骨すら所有する事は許されなかった。少年は激しく抵抗したが、何度も気を失うまで叩きのめされた。隠し持っていた小さな写真も、ある日見つかって目の前で燃やされた。あのペンダントが伯母の首に下がっている所を想像して、少年は吐きそうになった。駄目だ。そんな想像をしてはいけない。あのペンダントを、伯母はきっと売ったんだ。そして、何も知らない、優しい女性が買った。母に似ている女性だ。もしかしたら、父に似た男の人が買って恋人にプレゼントしたのかも知れない。とにかく、あのペンダントは今、誰か見知らぬ人に大切にされている。少年はそう思う事にした。
両親の遺骨が生ゴミと一緒に捨てられるとき、少年は悲しみで頭がおかしくなりそうだった。抵抗しても力では敵わないと悟った少年は、土下座して必死に哀願した。「何でもします。どんな罰でも受けます。これだけは持たせて下さい。」どれだけお願いしても聞き入れてはもらえないと知り、少年は2人が目を離した一瞬に素早く遺骨を食べた。できるだけたくさん食べようとしたが、実際には四口ほど食べるのが精一杯だった。それでも少年は、両親の遺骨が自分の身体の一部となった事に、ほんの少し安堵した。もう良い。何も持たなくて良い。全てのものは僕の心と身体の奥にあるのだ。あの人達は僕の心も身体も好きに傷付ける事ができる。いつでもしたい時に僕を殴り、鞭打ち、罵倒し、嘲る事ができる。でも、それで傷付くのは表面だけだ。僕の心と身体の奥の方、真ん中のさらに奥は、誰も触れる事ができない。そこは僕だけのものだ。少年はそこに、あの水色のペンダントを持っている。遺骨も、3人で写ったたくさんの写真も、両親がくれたプレゼントも、将来おまえにあげるよと父が言っていた腕時計も。全部そこにある。少年は櫂都という自分の名前も、そこにしまった。最初の頃彼は、「奴隷」とか「ゴミ」と呼ばれて、「はい」と返事をしなければいけない事に、激しく心が痛んだ。僕は奴隷じゃない!僕はゴミじゃない!彼は心の中でそう叫んだ。でも今はもう、彼は何も感じなくなった。僕は奴隷だ。僕はゴミだ。櫂都という少年はもうどこにも存在しない。僕の心の奥以外には。
少年の心は再びあのレストランに戻った。あの日は初めて生牡蠣を食べた。父も母も生牡蠣が好きで、冬にそのレストランで食事をする時は必ず前菜に生牡蠣を選んだが、牡蠣は万が一の事があるからまだ早いと僕には食べさせてくれなかった。あの日も僕には両親とは別の前菜が用意された。確か帆立の貝柱だ。苺といっしょにドレッシングの様なもので和えてあって、円柱形に皿の上に盛られていた。キラキラと赤く輝く小さな実が散らされていて、それは柘榴だと父が教えてくれた。クリスマスらしい、とてもきれいな一皿だった。少年は時間をかけてその前菜を頭の中で思い描いた。目の前にあるように、手に取れるように鮮明に思い描く。サクサクとした柘榴の食感、とろりと甘い帆立、甘酸っぱい苺。
でもあの日食べた物の中で少年の心を最も躍らせたのは、生牡蠣だった。前菜を食べている途中、母はシャンパンを注ぎに来たアルバイトのウエイトレスの若い女性と、何か熱心に話し込み始めた。その女性が通っている大学は、母が卒業した大学だったのだ。何人かの教授の名前を母は言い、アルバイトの女性はその都度その教授が今もその大学にいるかを母に伝えた。その時ふと、父が僕の肩をつついた。なに?と父の方を見ると、父はいたずらっぽい目をして僕の方に生牡蠣の皿を押しやった。驚いて「食べて良いの?」と聞こうとしたら父は、「シーッ」と口に指をやり、思わせぶりな目で母を見た。そんな風に僕たちはよく、母に秘密でいろんなことをした。帰ったらすぐに食事だというのに2人でアイスクリームを食べたり、僕にはまだ早いと言われていたエスプレッソを、砂糖をたっぷり入れて飲ませてもらったり。
父が素早く牡蠣の上にレモンを絞ってくれて、僕は慌てて殻をつまみ、父や母の真似をして中の汁ごとつるりと牡蠣を口に滑りこませた。父は何事もなかったかのように澄ました顔で皿を自分の前に戻しながら、僕にウインクした。強めの塩気と共に冷たく滑らかな食感が僕の口に広がった。噛むとトロリとなり、帆立よりもずっと甘い味がした。喉を通る感触は滑らかで、飲み込んだ後もずっと海の香りが口に残った。美味しい!これ、僕大好きだ。口には出さず目だけで父にそれを伝えた。僕と父はそうやって、目だけで会話をする事ができた。
少年はゴクリと喉を鳴らした。するりと冷たいものが喉を通り、口いっぱいに海の香りがした。「次のお皿は何かしら」と母が言い、「牛蒡のポタージュです。」とウエイトレスの女性は言って仕事に戻った。牛蒡のポタージュは美味しいけれど、もう少しこの海の香りを楽しみたいな、と少年は思った。父と母はワインリストを見ながら次のワインは牛蒡に合わせて軽めの赤にするか、それとももう一杯シャンパーニュを飲もうか、熱心に協議していた。人々が会話をする声と皿とカトラリーが触れ合う音で店内には心地好い喧騒が溢れていた。BGMが無いのが、父がこの店を気に入っている幾つかの理由の一つだった。窓の外には粉雪が舞っていたけれど、少年は暖かく、満ち足りていた。もはや少年は、空腹に苦しみ寒さに震えながらクリスマスイブの夜に玄関の外に立たされている、哀れな奴隷ではなかった。
少年は自分が涙を流している事に気付かなかった。その涙は、悲しみや苦しみの涙ではなかった。彼はとても幸福だった。久しぶりに両親に会えた。あのレストランで、もう一度3人で食事ができるなんて、思いもしなかった。もう一度生牡蠣を食べることができるなんて。少年は寒さも空腹も、身体の痛みも忘れた。デザートはきっとブッシュドノエルだ。母はきっとそれをパスして、チーズの盛り合わせを頼むだろう。最後の赤ワインと共に。食事が終わったら、3人で家まで歩く。去年のクリスマス、母は僕と手を繋いで歩きたがったが、僕はなんだか気恥ずかしくなってそれを断った。今年は手を繋ごう。昔のように、僕がまだ小さな子供だった頃のように、父と母に挟まれて手を繋いで帰ろう。少年は涙を流しながら、微笑んでいた。
ガチャリと音がして玄関の戸が開いたことに、少年は気付かなかった。「おい」と呼び掛けられても、すぐには返事ができなかった。ここはどこだろう。父と母はどこに行ってしまったのだろう。少年はぼんやりと目の前の男を眺めた。この人は誰だっただろう。
「早く入れよ」と言われて、少年は目の前の男が自分の伯父である事を思い出した。「早く入れって」伯父は苛立たしげに言い少年の腕を引っ張った。少年の身体は寒さの為に硬直していたので、急に腕を引っ張られて思わずよろめき、玄関の中に倒れ込んだ。「てめー、手間をかけさせんなよ。玄関先で死なれたらシャレにもなんねーんだよ。」と言い捨てると男はさっさと部屋の中に入っていった。もうレストランは消え去り、両親もどこかへ行ってしまった。少年は見覚えのある玄関のタイルを見つめた。毎朝少年が雑巾をかける、グレーの無機質なタイル。ぽとり、ぽとりとそこに涙が落ちた。さっきまでの涙とは違う、冷たい、悲しい涙だった。こんな所に戻って来たくはなかったのに。あのまま外で、凍えて死んでしまえば良かった。そうすればずっと、両親と一緒にいられたのだろうか。冷たい玄関のタイルの上にしゃがみ込み少年は声を出さずに泣き続けた。そして泣き疲れてウトウトと浅く眠った。
4時30分。クリスマスの朝、少年はいつもの時間に、冷たい玄関のタイルの上で目を覚ました。全身が強ばり、指は悴んで力が入らなかった。仕事にかからなくては。冷え切った身体をなんとか起こし、少しでも動かそうと指に息を吹きかける。また1日が始まる。恐怖と苦痛に満ちた1日が。少年の顔から微笑みは消え、櫂都という少年は再び名もない奴隷になった。
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