第2話
午前4時半。
男は用心しながら雑木林の中を歩いた。
古い小さな神社の裏の雑木林は、日中でも日が差さず薄暗いため、滅多に人が近寄らない。神社自体は近隣住民の手で時折清掃されており、散歩がてら参拝していく人もちらほらといるが、裏の雑木林はほとんど忘れ去られて放置されている。男がそこの一角に古い祠があるのを見つけ、その祠の中に穴を掘り一斗缶を埋めたのは2年前の事だ。一斗缶の中にはジップロックに入れられたお札が入っている。一万円札が2,500枚。男の全財産だ。
男は慎重に穴を掘り返し、一斗缶取り出す。ジップロックの中からお札を5枚抜いて背負っていたバックパックの底にしまう。毎月5枚、男はそこから金を取り出す。そしてまた慎重に一斗缶を埋め直す。落ち葉を被せ、岩を置く。何度も掘り返した事が分からないように、男は細心の注意を払う。
丁寧に埋め直すと男は神社の横の公衆トイレに行き、鍵をかける。念入りに手を洗う。それからバックパックの中から石鹸を取り出し、髪を洗う。全裸になり、体も洗う。髭を剃り、髪も少し切る。寒さで震えながらも全てを洗い終えると、男はタオルで体の水気を拭き、洗濯したての服を着る。なるべく身体を清潔に保つ事。それは目立たないために男が守っている幾つかの項目の1つだ。
男はここから少し離れた竹藪の中の崩れかけた廃屋に住んでいる。竹藪のとなりには少し開けた土地があり、おそらく10年ほど前にはそこは小さな家庭菜園だったのだろう。竹藪の中の小屋は、農機具庫として使われていたようだ。誰も耕す物のいなくなった畑は打ち捨てられ、竹藪に囲われて忘れ去られていた。目の前には大きな川が流れていて、治水のためにかなり広くとられた川原には木が生い茂っていた。この辺りの土地には退職してから家庭菜園をする老人は溢れ返っているから、男がここで畑を細々と耕していても不審に思う者はいない。男が隣の竹藪の中の廃屋に住み着いている事など、気付く者はいない。男はこの辺りにたくさんいる老人たちの中に、完璧に擬態していた。
神社を後にし自転車を漕ぐ。彼は一軒の家の前でふと自転車を止める。2、30年前に建てられたのであろう特に特徴のない家だ。この辺りには大きく古い屋敷が多いが、そんな家の土地が何かの事情で売りに出され、分割して建てられた分譲住宅だ。ここの古くからの住人が、新しい人達と呼ぶ世帯だ。この家に住む1人の少年の事を、男は気にかけていた。男が通りかかった時、少年は洗濯物を干していた。腕時計を見ると5時半だ。子供のお手伝いにしてはかなり早朝だ。先月はもっと早い時間に箒で玄関先をはいていた。追われるように切羽詰まったように、一心不乱に箒をはく少年の姿が何故か彼の心に引っかかった。
その後男は幾度か少年を見かけた。男は地域の老人たちが集うラジオ体操に時折参加していた。ここの老人達は閉鎖的で見知らぬ顔を不審がるが、一度見知った顔になってしまえばむしろ溶け込むのは容易い。目立たぬよう、近づき過ぎないよう、しかし孤立しないよう。会社を定年退職して、長らく放置していた両親の土地に戻ってきた。そんな男の言葉を老人達はすぐに信じた。そんな話は日本全国どの地方都市の郊外でも珍しくない。深く詮索されないよう、男は気難しい顔を崩さなかった。
そんなラジオ体操の帰り道、男は少年を見かけた。小学校へ向かい1人歩く姿。少年はランドセルを背負う事なく手に持って、俯きながら歩いていた。少年が家庭であまり大切にされていない事は一目瞭然だった。ひどく痩せていて、くたびれた衣服を身につけていた。髪の毛は自分で切ったのかデタラメに切り揃えられていて、時折頬を赤く腫らしていた。
男は定期的に神社の横のトイレで髪や身体を洗い下着を洗濯するのだが、ある時そこには先客がいた。男は驚いた。この4年間、地域の清掃や小さな盆の祭りの時以外でこのトイレを使っている人間を見た事がなかった。ドアに耳を近づけて中の様子を伺うと、中の人物は自分と同じように体を洗っているらしく、男はさらに動揺し警戒した。この田舎町にホームレスがいたらひどく目立つ。そのため男は、自分がホームレスに見られないように細心の注意を払っていたのだ。下着は毎日替え、3日に1度まとめて洗濯した。1週間に1度はコインランドリーで全ての衣服を洗濯した。それなのに、自分以外にもこの町にホームレスが住み着いたのだろうか?こんな町に住み着くのにはきっと何か訳があるのだろう。自分と同じように、都会では住めない何か訳が。ホームレスとして暮らすなら、都会で暮らした方がなにかと便利だ。ここではホームレスは目立ち過ぎる。住む場所も少ないし、何より無料で手に入る食料が少ない。彼のように一定の金を持っている者しか、ここではやっていけないだろう。地価の安いこの土地で、金を持っているのにアパートの部屋を借りないというのなら、それは何か理由があるのだ。なぜここを選んだのだろう。あの金が見つかったのかもしれない。快適だったここの生活を手放さなくてはいけないのだろうか。男は物陰に隠れてトイレのドアを凝視した。中から出てくる人物を監視し、場合によってはすぐにここを引き上げる準備をしないといけない。ひどく長く感じたが、恐らくは5分ほどだろう。おもむろにドアが開き、中から出て来たのはあの少年だった。あの、一心不乱に箒で玄関先を掃いていた、不幸そうな少年。少年は怯えたように周りを見渡すと、音もなくするりとトイレから出てそっとドアを閉めた。
男には少年が、物音を立てないように細心の注意を払っているのがよく分かった。そしてその仕草はもうすでに、少年の体に染み付いているようだった。少年は小さな雑巾のような物を手にしていた。そんな小さな雑巾では、満足に体の水気を拭き取る事などできないだろう。少年の髪からは拭ききれない水が雫となり滴り落ちていた。しかし少年はそんな事には構わず、ランドセルを腕に持ち家へと走った。なぜランドセルを背負わないのだろう。少年の後ろ姿を見ながら、男はそう思った。どうやら危険は迫っていないようだ。だが、男の心は晴れなかった。男の中で疑念は確信に変わった。
あの少年は、虐待されている。満足に食べさせてもらえず、風呂にも入れないのだろう。恐らくは、暴力もふるわれている。それもきっとひどく。子供に暴力をふるう人間に、理性などない。理性があればそもそも、自分より弱い者に暴力をふるう事などしないのだ。理性のない人間が暴力をふるい始めると、その暴力は苛烈になる。タガが外れているのだ。そんな人間を、男は何人も見てきた。
しかし男にできる事は何も無かった。他人を助けられるような立場に、男はなかった。かつては男も、自分は誰かを助けることができると信じていた。それが仕事だと自負してもいた。でもそれは遥か昔のことだ。もはやそんな自分がいた事など、幻想だったような気もする。いや、実際のところ、幻想だったのだ。男は誰一人、助ける事など出来なかった。自分の家族すら、助けられなかったのだ。
男は電柱の影に自転車を止め、少年を見た。外はまだ暗く、少年の位置からは男は死角になっていたが、物干しの脇には外灯があり少年を照らしていたせいもあり、男からは少年の表情がよく見えた。少年は、腕を上げて物干し竿に洗濯物をかける度に、どこかが痛むようで苦しげに顔をしかめた。少年は時折空を見上げた。まるで、天から助けが降りてくるのを待つかのように空を見つめて、それから目を閉じた。その大きな瞳に映るのは怯えと深い悲しみ、そして諦めだった。
しばらく少年を見つめると、男は自転車に乗り去っていった。おまえに何が出来るのか。おまえは何をしたいのか。罪滅ぼしがしたいというのか。あの少年を助けたら、おまえの罪が赦されるとでも思っているのか。結局おまえはあの少年を使って、自らの罪悪感から逃れようとしているのか。
男の脳裏には息子の顔が浮かんでいた。息子があの少年の歳に、おまえは何をしていた?息子の顔とあの少年の顔が重なる。
「助けて」
頭の中で息子が叫ぶ。
「助けて、お父さん」
男は虚ろな目で空を見上げた。そこに映っているのは、死ぬ直前の息子の顔だった。目を見開き、口から血を流していた。やめろ、やめてくれ!息子は叫び、さらに口から血が噴き出した。そしてその顔はまた、少年の顔と重なった。少年の口から血が噴き出した。男は堪え切れず、よろよろと自転車から降りると道端の側溝にしゃがみ込み、嘔吐した。何度も嘔吐し、吐瀉物が出なくなってもなお、男はえずき続けた。
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