89話
しばらくすると津吹と小秋は、成葉から目を離し、互いへと視線を戻した。仲の悪い父娘の無言の対峙は、多様な感情と過去を内包していることを思わせた。
ここでの話し合いは長丁場になりそうだった。成葉はもうひとつの椅子を小秋の隣に寄せ、そこに座った。握りしめていたバッジを胸元に戻す。胸から下ろした手に、指同士を縫い合わせるほどに固く、小秋の手が絡んだ。
「成葉様たちは、わたくしに隠れて何をお話ししていたのですか?」
小秋の微笑はこの上なく陰険だった。
教えても構わないと成葉は思ったが、津吹は許そうとはしないだろう。さりげなく彼の機嫌を伺う。案の定、怪訝な表情だった。彼は家の墓に誰の骨も収められていない事実を男たちの中で留めておきたい様子だ。
成葉は憮然とした。墓前で脅された身にすれば、納得がいかなかったのだ。
母親になってくれた女の
「何も後ろめたいようなものの類ではありませんよ」
成葉は軽やかな口調で言った。それから、じっと津吹を見る。
「家のお墓のことについて、少々話をしていただけです」
津吹は何も言い返さなかった。青年が口を割るとは思わなかったらしいが、「墓」という単語を小秋がいる場で出したことが気に食わなかったのか、苦々しく顔を歪めていた。
「お墓……」
小秋が呟いた。成葉は短く頷く。
「私の両親の墓のことです」
津吹は僅かに顔つきを緩めた。話が逸れたことに安堵しているらしかった。
こうして見ると、小秋が以前に言ったように、津吹という男は意外にも分かりやすい人間だった。次いで、成葉は自分自身も小秋からすればそう映っているのかもしれないと不安に思った。隣にいる小秋を横目で見る。彼女は、何か言いたそうに唇をきゅっと閉じていた。追及してこないのなら、これ以上嘘を塗り固めるのは逆効果だと判断して成葉は話を終えたが、最後に津吹に一言投げかける。
「あなたも人が悪い」
我ながら性格の悪い言い方だ、と成葉は内心自嘲気味に笑った。
話の繋がり方では、小秋には両親の墓を作っていたことへの憤りに聞こえただろうが、実際は津吹家の墓が空っぽであり、それを隠した挙句に利用した津吹の行動への非難だ。
「別にいいだろう。死人に口なしとも言う」
津吹も小秋の前で話が
「それよりも、津吹家や俺たちに誓う必要がないと言い出したのはどっちだ?」
「どちらであろうと関係ありませんわ」
小秋は慎ましく口角を上げた。
「成葉様はお母様に誓いを立てませんでした。わたくしはずっと前から、そうしてくださることを望んではいましたが……そのことを成葉様にはきちんとお伝えしていませんでした。わたくしが無理強いすることもなく、この人はご自身でそういった決断に至ったのですよ。でも、お父様はきっとこうお考えなのでしょう?わたくしが入れ知恵したから、と……。はっきり言っておきますけれど、それはとんだ見当違いですわ。これはわたくしたち二人が共に選んだ道なのです」
「無理強いせず、か。そう言っている割には大分、成葉を振り回していたように見えるが」
津吹は冷然と笑った。父親の態度は気にもせず、小秋は首を傾げる。成葉の肩に美しい白髪が触れた。
「振り回されているのはわたくしも同じです。成葉様ったら、急にどこかに出かけていってしまったり、女性の扱い方なんてまるで知らないのですから」
思い当たる節が多かったので、成葉は場の空気などお構いなしに苦笑した。小秋もつられて微かに笑い声を上げる。津吹は笑い合う二人を眺めていたが、不意に視線を落とした。
「坊主」
昔の呼称に、成葉は背筋を伸ばした。
「何ですか」
「娘さんを僕にください……とか、そんな馬鹿なことは言わないでくれ。頼む」
「お父様はわたくしたちの自立を望んではいらっしゃらないのですか?」
小秋が横から反論したが、津吹は項垂れたままだ。彼が頭を下げた分だけ、背後にある義足が視界に大きく映った。
「お前たちだって自分の立場は分かっているだろ?津吹家が存在する以上、この家からは離れられないことぐらい」
「そうですわね。でも、わたくしは成葉様と一緒に自由に生きていきますわ」
「よしてくれ!」
津吹は声を荒らげた。
「二人が共にいるのはいい。一緒にいてくれるのなら全て丸く収まる。俺だってそれを望んでいる。だが、この家から逃げようだなんて考えているのなら……絶対に止めてくれ。なぁ坊主、父親殺しは逃避行で終わるだなんて言うつもりなのか?」
「そんなことは……」
「君はマクベスであり、オイディプスだ。だから彼らと同じく先王を殺して王座を獲得するべきだ」
「ブランデル社や津吹家に留まって、あなたの跡を継いでほしいと?」
「その通りだ」
答えに
肩を落としそうになったものの、小秋の気持ちを察して止めた。先日の墓参りの際、小秋が父親の行動を予期していた上で成葉を引き留めなかったのは、恋人がどのような考えで選択をするのか知りたかったからだ。おそらく今回もそうなのだろう。
成葉は自分と向かい合うように、津吹を捉えた。
「考える時間をください」
「時間を測ろうか。三十秒」
「……もう少しだけいただければ」
返事はなかったが、成葉の言葉を契機にして部屋は静まり返った。
本の匂いと微かな雨の音に囲まれながら、独りで思案した。だが上手く集中できない。足りないものに気づき、彼は立ち上がった。頭に血を巡らせる必要があったと思い出したのだ。書斎は広々としていて、足を動かすのには苦労しなかった。ゆっくりと歩き、部屋を見渡す。天井には人類の英智たる箴言はなかったが、
これからどうするべきか、と再度考えた。
小秋は家出を諦めたが、屋敷に住まう形で家から離れている。あれは彼女なりの最大限の妥協案なのだろう。成葉はそれを守ってやりたかった。屋敷に傘士として通う自分自身も、小秋と築いてきた吸血鬼と傘士の関係も同じだ。今日までの彼女との関係を今更無かったことにしたくなかった。
津吹と彼の家は、家を導く吸血鬼という神話のために、小秋と、彼女に付き従う傘士である成葉の自由を奪い取ろうとしている。逃げる術はない。では逆に、津吹家から奪い取れる何かがあるのだろうか……。
歩きながら思惟した。過去に与えられたもの、奪われたものを交互に挙げてみることにする。少年だった成葉が最初に与えられたのは、まさにその名前だった。奪われたのは──と考えたところで、もはや無駄だと悟った。自ら失くしたものの方が遥かに多かったからだ。十八年前の大雨に流された少年の精神からは、既にあらゆる人格的な要素が剥がれていた。そして彼は本名を捨てたい一心で「成葉」の名前を受け入れた。少なくとも当時の彼を救ったのは間違いなく津吹家だった。彼らは代償としての服従を求めているに過ぎない。
津吹家は少年を利用しようと目論んでいたが、少年の方も津吹家を使って自分に足りないものを吸収していた。互いに血を吸う吸血鬼でありながらも、血を吸われる獲物だったのだ。奪われたと考えるのは傲慢だろう。
──どうすればいい?
スフィンクスのなぞなぞを解いた時と同じく、雨音に足音が混ざり合う。
小秋との二年間の出来事と記憶が、成葉の身体の中で勢いの強い雨のように降り注いでいった。出会った時のこと。初めて輸血した日の羞恥と緊張。本義足を付けた姿に高揚したこと。茶会。なぞなぞとその出典元を探す日々。劇場で見せた涙。ひとつ屋根の下での毎日。男女の一夜。墓場でのキス。
目を閉じると、どこからか彼女の呼ぶ名前が聞こえた気がした。身体の内側に雨漏りのごとく染み込んだ、潤いのあるあの声で。
聞き馴染んだ名前を。
成葉様。
数分経った後、成葉は父娘の二人に向き直った。
「マクベスの最期は悲惨でしたね」
そう発した。
「先王を殺して王様になりましたが、終局では討ち取られてしまう……。私はああはなりたくないものです」
「三人目の成葉でいることに疲れたか?」
すかさず津吹が訊いた。小秋は緊張した面持ちだったが、何も言わなかった。
「いいえ。支社長、私はこれからもお嬢様の隣にいますよ。何があっても。そのために津吹家に縛られないといけないのならば、甘んじて受け入れるとはまではいきませんが……逃げることは選択肢から外します。お約束します。ただ、ひとつだけ個人的なお願いがあります」
「なんだ?」
「この名前を私たちにください」
津吹は顔を
「子は親のようにしか生きられない、というのは多少の真実を含んでいるのかもしれません。ですが、親ができなかったことを子供が果たすのだって、同じぐらいに真実味があるのではありませんか?」
「……黙っているから、最後まで君の考えを聞かせてくれ」
「支社長には、私たちに名前を譲ってほしいのです。私たちが引き継ぐ名前は、一人目の彼らの本名だそうですね。だから二人目の成葉だった支社長は、名前を借りることはできても自分の物にはできなかったのではないですか。一人目がまだご存命だったので……。愛称の由来となった本人が生きている中で、借りただけの愛称を本名に近い物として名乗ることは無理だと考えるのが自然です。
しかし、一人目の彼らはもう亡くなっています。今は三人目の私たちが津吹家の習わしの舞台に立つ演者です。二人目の小秋──奥様も亡くなられました。二つの名前に直接的に関係していた人間は、支社長を除いてこの世にはいないわけです。つまり、あなたのお許しさえいただければ、私たちは名前を自分の物として扱えるわけです」
「言いたいことは分かったが……。俺が許したとしても、家の連中が黙っていないだろう」
「わたくしから皆さんへお話ししますわ」
これまで黙っていた小秋だったが、懐疑的な津吹を淑やかな口調で諭した。彼女は成葉の提案には賛同しているようだった。
「聞いてもらえるわけがない」
「あら。それではお父様は違いますの?」
「何?」
「本当は、お父様ご自身が息子に名前を盗られてしまうのが嫌なだけなのではございませんか?」
「……ああ。そうかもな。きっとそうだ」
緩慢に立ち上がり、津吹は背後にある義足をケースから取り出した。赤子を胸に抱くように夫人の義足を手にする。彼の瞳には、底が見えないほどの深い涙が溢れていた。
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