最終話

 そぼ降る雨が、外套を優しく叩いてくる。赤くない雨は張りつきこそすれど害はなく、青年を洗っている。

 成葉はアタッシュケースを片手に、住宅街の道を独り歩いていた。

 会社を後にした際に鬱屈とけむっていた雨は、正午を回った頃になると、雨量が増して丸々と実った雨粒に変わった。それでも明け方の霧雨が未だに残留している。数十メートル先の街灯はもやがかかってよく見えなかった。朧気に視界に入ってくる街灯に、足のない幽霊を想像し、津吹夫人に見えることもあった。思わず見直すが、そこには誰もいない。そんな時は気を引き締めるつもりでアタッシュケースを持ち直す。歩く速度を速める。今日からまた仕事だ、と。

 成葉は現在、小秋の屋敷に向かっていた。彼女が新しく装着する義足についての相談と定期輸血が主な用事だ。大量のカタログと全血製剤が荷物だった。片手に持つには重いが、それは客の生活の質の重みそのものだった。雨の下、傘士は黙々と歩く。

 津吹家での出来事から半月が経過していた。

 あの後、言葉にこそしなかったものの、津吹は名前を譲ることに強い反対はしなかった。彼は娘の小秋と共に一階に下りて、親戚に対して事情の説明を始めた。家の伝統にもなっていた名前の継承──それの中止について。当初は猛反対を食らうだろうと思われていたが、意外にも、強硬な否定派に回ったのは一人目の成葉と小秋たちを知る年寄りが大半だった。残りの若年層は彼らに従っているに過ぎず、烏合うごうしゅうでしかなかった。

 そうして小秋を中心にした、喧騒に満ちた討議が始まった。三人目の成葉がその役にふさわしいのか今はまだ判然としない、と声高に主張する者に対しては「わたくしが選んだ人を信じられないのですか?」と小秋が哀願の一瞥を投げて黙らせた。口を慎まない者もいたが、小秋が「お言葉が過ぎますよ」と容赦のない軽蔑の眼差しを送ると誰も逆らわなかった。無理もない。そもそも本件で否定派に回った人間たちは、小秋という吸血鬼を津吹家の繁栄に欠かせない要素として絶対視する伝統に意義があると考えているのだから、現在の小秋本人に恨まれてまで意見を曲げることはできなかったのだろう。こうして、何年もかかるのではないかと成葉が予想していた名前の獲得は、誕生祭に集まった当日に決着が着いてしまった。事態に驚愕して顔を見合わせる成葉と津吹を近くで眺めながら、小秋はくすくすと楽しそうに笑っていた。

 結果的に言えば、成葉と小秋、それに津吹家の関係に大きな変化はなかった。

 家から完全には逃げない。その代わり、屋敷に留まり続けることに文句は挟まない。この構図は双方にとって暗黙の了解になっている。小秋は津吹家の集まりには顔を出し、その立場として求められる振る舞いはするが、それ以上のことはしない。家の面々も彼女の考えには渋々同意している様子だった。一人目と二人目の小秋もそうだったから、というのもあるが、今回の件で親戚一同の若年層がいかに家の伝統をうとましく考えているのかを老人たちがようやく認識したらしい。

 ただ、今後この名前をめぐる伝統がどうなるのかは誰にも分からなかった。四人目の「小秋」と彼女に仕える「成葉」が必要になるのか否かについて、明白な答えを持ち合わせている者は一人としていない。名前を譲ってほしい、と言い出した成葉自身でさえも。

 津吹がかつてそうしたのと同じ要領で、母親を求める男の子を見つけ出し、傘士候補の彼に「成葉」の名前を与え、同時に恋愛対象として「小秋」の影を刷り込む教育を行えば、四人目の劇は簡単に幕を開けるだろう。その時に「津吹」役となっているのは今の成葉だ。終わらない血と足のこの連鎖を止める唯一の方法は、彼が父親たちの背中を追わないことだけだった。しかし、血縁上の父は遺された子供よりも妻を優先して溺れ死んだ。育ての父は、子供に構わず、仕事の合間に雨に打たれながら死んだ妻を求めて外を徘徊している。二人とも善良な父親にはなれなかった男たちである。彼らから学んだ自分という人間に、将来父親として正しい行動ができるのか、成葉には自信がなかった。

 ため息をつく。足を止めて、地面にいくつもある水たまりの群れを見下ろした。雨の波紋が繰り返し描かれる水面には、灰色の街並みと厚い雲が映っている。澄んだ水の底にはセイレーンやイルカはおらず、アスファルトの黒い表皮があるのみだ。苛立ちや不安感を払うべく、水たまりを強く踏みつけた。

 目的地である屋敷が近づいてくると、雨は少しずつ強まってきた。見慣れた門が姿を現す。ぼんやりとした霧は薄まったが、外套をしつこく叩く雨は止む気配がない。屋敷の庭を見る。あの日と同じく、雨粒に押し倒された無気力な緑の芝生には肥大化した雨潦が連なって、小川が形成されていた。

 ここをどうやって渡ろうか、と当時と全く同じことを考えた。記憶が雨となって足元へと流れていき、やがてまた頭上から降ってくる。

 耳に流れてくる雨音に、一瞬気が遠くなりそうになった。ざあざあと降り注ぐ雨は、成葉を引きずり倒して無力な少年へと引き戻そうと、次第に重たくなっていった。

 急に言い知れぬ恐怖感を覚えた。

 屋敷から顔を背けた。次いで、身体も。

 そうするべきではないのに、何かに導かれるようにして、元来た道を戻った。だが、少しも経たずにアタッシュケースの重量感が現実味を帯びて、成葉の腕を引っ張った。貧血でもないのにふらついてしまった。足がもつれて、地面の水たまりがばちゃばちゃと音を立てて跳ねた。

 呼吸を整えるべく、顔を保護するシートを掻き分けた。邪魔になってフードも外す。

 雨下の空気はじっとりとしていたが、季節の割にはやけに暖かい。

 不思議に思い、上空を仰ぐ。

 そこには一筋の光が射し込んでいた。雨雲の隙間から零れ落ちる、目を見張るほどに綺麗な光芒こうぼうだった。雨の絨毯に生まれた裂け目。忌まわしき吸血鬼を消滅させてしまう太陽の光。

 雨に濡れるのも忘れて見入っていたが、青年の遠慮のない視線に恥じたのか、淡い光は雨雲の奥へと潜っていく。

 成葉の中に微かに残された理性は、その光を追わなければならないと彼に感じさせた。しかし雨に足を取られて、彼は光が消えていくのを黙って見届けるしかなかった。

 空が完全に灰色に戻る頃、雨音に紛れて携帯端末が鳴った。イヤホンの接続を切り替えて出る。小秋からだった。


「はい?」

「成葉様、さきほどからどうされたのですか?」

「……何のことです?」

「屋敷の二階の窓をご覧くださいませ」


 言われるままに背後の屋敷へ視線を上げると、遠くの窓辺に小秋らしき女性がいるのが見えた。小さく手を振っている。


「見ていたのですね」


 成葉は冷静に言ったが、自分でも分かるぐらい声が上ずっていた。


「すみません、小秋さん。今そちらに向かいますので──」

「お待ちしております。けれどその前に、少々よろしいでしょうか?」

「何です?」

「浮気はいけませんよ」

「それは一体……」

「まあ。さも知らない風にお話しなさいますのね。わたくしはもうこれ以上、嫉妬なんかに心を動かされたくありませんのに」


 何も答えられなかった。成葉は空に振り返ろうとしたが、屋敷から強い視線を感じて萎縮した。小秋のシルエットが動いた。彼女が満足そうに頷いたのだ。


「雨の中、お母様を思い出していたのでしょう?」


 成葉は息が詰まった。


「お母様にはつくづく妬いてしまいますわね」


 電話先の吸血鬼の少女はくすりと笑う。


「でも、貴方が今後も傘士を続けるのなら仕方ないことかもしれませんわ……。今もこの雨の中に、お母様が混じっているのかもしれませんから」


 言葉を失った。平静を装うことも忘れ、成葉は「えっ」と間の抜けた声を上げる。


 ──小秋さんが何故それを?


 青年の疑問を聞くまでもなく、小秋は静かに語りかける。


「男の人が考えることなんて全てお見通しですわ。貴方たち、隠し事を共有した程度で勝ち誇っていらっしゃるんですもの。ため息をこぼしてしまうぐらい可愛いですこと……ふふ」

「いつ、どちらで知ったのです?あのメモは私と支社長しか見ていないはずでは」

「メモ?ああ、お父様が蝋燭で燃やした紙のことですね。それには目に通しておりません」

「ではどうやって──」

「最後の謎解きです。どうぞ雨の下、わたくしの元へと歩きながら解いてくださいな」


 小秋に催促され、成葉は屋敷への道を再度歩いた。少しずつ近づいてくる年季の入った洋風建築物と、窓辺にいる吸血鬼の姿はいつ見ても絵になる。


「ヒントはないのですか」


 一度止まり、目を上げて小秋に問う。


「わたくしたちは似た者同士であること……これに尽きます」

「似た者同士……」

「思い出してみてください。貴方はご両親のお墓の前で何を思いましたか?」


 成葉は雨に打たれながら歩き、考えた。

 両親の墓。納骨堂に人知れずひっそりと保管されていた、かつての「家」への憤りと不快感。

 あの時、自分は何を考えたのか。そう思案するよりも、当時の記憶を再生するよりも早く、彼の中でひとつの答えが導かれた。

 

 まさか──。はっとして、再び足を止める。

 着実に屋敷に近づいていた。窓ガラス越しにも、小秋の嘲笑う顔がくっきりと見て取れる。彼女の表情で全てを悟った。


「お分かりになって?うふふふ」


 イヤホンから聞こえる美しい声と、窓辺で上下する口が重なる。耳元で囁かれている錯覚がして、成葉の背筋に冷たい汗が落ちた。


……?」

「左様でございます」


 小秋はなまめかしい声音で答えた。

 彼女が何を言いたいのか、成葉にも理解できた。

 本来、吸血鬼とは東欧における蘇った死体の伝承である。それが後年にキリスト教圏の西洋諸国へと伝わり、宗教の影響による解釈の変更が発生した。イエス・キリストではない者、つまり神の恩寵を受けていない凡人が魔として復活することを毛嫌う筋書きへと塗り替えられたのだ。その過程で吸血鬼は悪魔と同じ分類として語られるようになり、吸血鬼を復活させない根本的な方法は、復活の前の物体──土の下に眠る死体を処置することになった。

 両親の墓を見た時、成葉はそれを壊してしまいたいと思った。嫌いだった父親の骨を収めておくのが許せなかった。母親を失ったばかりの当時の小秋もそうだったのだろう。母親の骨が丁重に安置されている現実を受け入れられなかった。小秋は津吹家の墓の中身を捨ててしまおうと画策したが、いざ中を見ると誰もいなかった。骨は既に津吹が持ち出して海に撒いていたからだ。

 何も残っていない墓を見た小秋が何を思ったのかは知る由もないが、成葉は概ね納得した。


「そうだと知っていた上で、支社長にはこれまでずっと黙っていたわけですか。毎年命日に一輪の薔薇をお供えしていたのは、奥様が復活しないよう祈るためではなく、支社長に悟られないための偽装だったのですね」

「ええ。まさにその通りでございます」


 そこまで考えられた言動だったとは──。成葉は驚きのあまり唾を飲んだ。


「このことを私に話しても良かったのですか?」

「あら?だって、名前をめぐる家の風習はわたくしたちの代で終わりにするのでしょう?何も問題はないはずではありませんか。それとも、吸血鬼の分際で墓をあばいた不届き者の存在をお父様に告げ口されます?」

「いいえ、そういうわけでは……」

「結構ですわ。さあ、これでこのお話はおしまいです」


 小秋は咳払いした。


「わたくし、本当に嬉しかったのですよ。貴方のご提案」

「それは……名前のことで?」

「そうですわ。成葉様もわたくしも、本名が好きではありませんもの。互いによく知った……一番呼び合った今の名前で語らうことが幸せです。貴方は見事にその道を選んでくださいました」


 ぽつぽつと降り始めた雨によって一面を黒く染めていくアスファルトのように、成葉の中では小秋の印象がこれまでとは違った形で深まっていく。

 小秋と出会った当時の「名前」に関するやり取り。名刺ではなく、それよりも後の会話を思い返す。当初、小秋は敬称は必要ないと言っていた。今に思えば、あれは津吹夫人への憧憬をまだ消せなかった成葉を誘い込んでいたと見える。というのも、津吹は自分の妻を呼び捨てで呼んでいたからだ。

 一度だけ、成葉はそれを聞いていた。出張でドイツから帰国した津吹との空港内での雑談の最中、「雨が好き」だと言った成葉に返した言葉。


『雨が好きだって?なんだか小秋みたいなことを言うね……』


 会話の流れでは、てっきり三人目の小秋を指しているとばかり思っていたが、あれは二人目の小秋──津吹夫人の話だったのだ。こう言った直後、津吹は少しの間を置いて続けた。


『……ああ、そうだった……。、小さい時から雨が好きなんだ』


 つまり、「小秋さん」と成葉に呼ばれることに小秋が忌避感を抱いていたのは、単に仲良く対等に呼び合ってほしいという少女ゆえの幼さではなく、彼の気を引くために夫人を演じようとしていたからである。故意に左足を瘴雨に晒すなど、成葉との接点を持つべく小秋が何かしらの行動を取っていたのは成葉も知っていたが、呼び方から徹底していたと気づいたのは初めてだった。出会った頃から、小秋は着実に成葉を囲いこんでいたのだ。

 小秋が意図的に青年から「様」の敬称を抜いていた時、大抵は成葉が疲れていて甘えたい気分だった。それ以外の場で、彼女は成葉を呼び捨てにはしていない。母親の演技のひとつと言えるだろう。言葉遣いを崩してほしいと小秋が再三申し出たのも、津吹が夫人に対してはそう接していたからだと推察できる。

 だが一方で、成葉と小秋は二人とも本名が嫌いだったので、たとえかつての想い人の投影を終わらせたとしても、互いに本名に戻るわけにはいかなかった。

 津吹夫人という邪魔者を取り除き、二人だけの関係を今後も続ける最良の道は、親たちの名前を継ぎながらもそれを親たちと同じようには扱わず、そして次の世代に継がせない選択を進むしかなかったわけだ。成葉はそれを選んだ。しかし、そうさせるに至ったのは津吹家の事実上の絶対権力者である小秋の力だ。


「小秋さん」

「はい。何ですの?」

「名前を私たちの物にする……あれを言い出したのは私でした。ですが実際のところ、小秋さんはのではありませんか?あなたは私から言ってほしいとお考えだったので、そうだとはおっしゃらなかっただけなのでは……」

「……どうでしょう?それは貴方のご想像にお任せしますわ」

「認めているのも同然じゃないですか」

「受け取り方は貴方のお気にすままに」


 小秋は頷かなかったが、長い睫毛を伏せて、おどけて可愛らしく首を傾げる。


「『お気に召すまま』……」


 成葉は独り呟いた。


「今まで私を導いてくださったのは、津吹さんでも奥様でもなく……あなただったのですね」


 数秒すると通話が切れた。

 くぐもった音が唐突に雨音を払い除けて、窓が開く。

 そこには成葉を見守る、穏やかな笑顔を浮かべた小秋がいた。夜明けと夕暮れの雨が纏う全ての光を集めて落としたかのような青の双眸は美しかった。小秋は詩を読み上げるに適した、流麗で淑やかないつもの声を青年に投げる。


「お早くこちらにおいでくださいませ、成葉様。わたくしに新しい足を。血を……貴方が持ちうる全てを。どうかこのわたくしに捧げてください。これからもずっと──」


 雨模様に描かれた貴婦人がそこにはいた。

 雨を好むが、いつか川となりうる水には触れられず、光のない部屋に閉じ込められた吸血鬼……。

 小秋に見とれていた成葉だったが、無防備に開かれた窓に気づき、傘士の職業意識がばっと彼の目を覚ました。


「小秋さんっ。雨が降っているのに窓なんて開けてはいけませんよ!」

「心配性なのですから」

「私をからかうのは後にして、早く閉めてください」

「別に瘴雨じゃありませんわ。でも固い窓でしたから……わたくし手が疲れてしまいましたわ。どなたか閉めてくださらないかしら?」


 雨の中、吸血鬼に引き込まれるようにして、成葉は屋敷へと走っていった。誰もいなくなった道は、静かに濡れて沈んでいく。






『雨籠もりの吸血嬢』終

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