88話

 津吹に連れられて、成葉は二階にある書斎に入った。

 清潔だが、人が日々何かをしていると感じさせる空気感が欠落した部屋だった。壁際の本棚には室内を圧迫するほどの書籍が並び、本棚の近くに置かれた大きなガラスケースには、航空機、船舶、宇宙探査機、人工衛星、ロボットアニメに登場する人型ロボットのプラモデルたちが所狭しとばかりに肩を寄せ合っている。

 それらとは別のケースに、両手で抱え持つほどのバイクのフィギュアがあった。成葉はやけに既視感のあるバイクの存在が気になった。手入れされている痕跡はあるが、飾るにしては破損した部位が多い。

 津吹は誰に向けてでもなく頷いた。


「君の親父のだ。十八年前、現場で遺体を探していた俺たちが見つけて拾った。形見とでも言えばいいのかな」

「私の……」


 なるほど、と仏頂面になる。あのバイクのフィギュアは血縁上の父親がかつて大事にしていた物で、成葉も幼い頃に見かけたことがあったのだ。

 何も言えない成葉をよそに、津吹はデスクの裏にあるケースの前に立つと、かけられていた布を外した。中には、津吹夫人が生前に使っていた義足が当時の姿のままで収められていた。


「“この世の成り行きを見るのに目などいらない”」


 『リア王』の一節を引きながら、津吹は椅子に座った。ちょうど彼の背後に、義足が独りでに立っている構図だ。


「母だった妻を失くしたオイディプスは盲目になった。君もそうだ。津吹家に残るのなら目などいらない……」

「昔のあなたがそうだったから、私もそうなると言いたいのですか?」

「ああ」

「私は津吹家には仕えません。お嬢様にのみ仕えます」

「当時の俺とまったく同じことを言ってるぞ」


 強まっていく拍動に発音を邪魔されながらも、成葉は「まさか」と必死に返した。


「あなたと血縁関係なんてない」


 あれほど憎んでいた残酷な事実が、今は盾になってくれた。

 津吹さんと私は本物の親子じゃない。だから同じ過ちを繰り返すわけがない──。自らにそう言い聞かせることに成葉は注力した。


「だが、君の親父は……助かった息子なんて気にせず、自分の妻を独断で助けに行って死んだ男だ。最後まで親になれなかった男、それが君の血の源流だ。俺と大した違いはないんじゃないか?」


 津吹は皮肉めいた笑みで口端を歪ませた。成葉もそれに習って、相手を蔑む目つきになる。


「本物の息子だと言って扱っていた子供よりも血の繋がった娘の幸せを優先する男ですからね、支社長は。その身勝手さ、私の父とそっくりです。……非科学的な血液型占いを信じたくなりました」

「君を息子だと思いたいのは本音だ。たしかにあの時、酷いことを言ったが……君を息子だと思う気持ちに嘘偽りはない。しかしそれと同じで、あの子だって俺の子供なんだ。娘の幸せのためなんだ。分かってくれ」

「どっちが大切なのか、はっきりしたらどうですか?」

「……口喧嘩をするために君をここに呼んだわけじゃないぞ」

「喧嘩のひとつやふたつ、させてくれてもいいじゃないですか。父と息子なんですから。それとも赤の他人とはやる気が起きませんか」

「拗ねるな。もういい歳だろ」

「いい歳になるまで……散々、僕を放っておいたあんたが言えることかよ」

「そろそろ黙ったらどうだ。隣に聞こえる」


 当の小秋は、男二人の会話が終わるのを隣室で待っていた。罵倒を彼女に聞かせたくはない。溢れ出そうな怒りを胸に沈ませ、成葉は渋々口を閉じた。雨音が再び存在感を強くしていく。


「転職の件は大嘘だった。何か怪しいとは思っていましたけど……私に黙っていたのって、これのことだったんですね」

「いいや」


 予想に反して、津吹は首を横に振った。


「そのことじゃない。君が転職するか否か決めたら明かす、そう言ったはずだ。俺はまだ君の答えを聞いてない」


 他に何があるんだ、と成葉はいぶかしんだ。


「何なのですか、それ?」

「先に君の答えを教えてくれ」

「お答えする必要はないかと。人を脅しておきながら……よくもまだそんなことが言えますね」


 衝動的に自分のバッジを取り外した成葉は、その中に収納されている刃を展開した。両手でバッジを力強く握りしめ、鈍く光る切っ先を津吹の眼前へ向ける。矮小な刃物だが、切る箇所次第では人の命を奪うことは造作もない。


「動かないでください」

「本気か……成葉」


 流石の津吹も焦りの声を漏らし、狼狽うろたえた。


「今度はこっちの番ですよ。教えてくれないのなら……」

「君にできるのか」

「同じ質問を墓前にいた支社長に返します。瘴雨の下で、本当に私の頭を雨粒に晒せたんですか?」

「……」

「これでも僕は、津吹さんが好きだったんです。家に引き取ってくれなくても、奥様と一緒に施設まで遊びに来てくれる津吹さんが好きだった。覚えていますか?誕生日にくれたサッカーボールで遊んだ時のこと。あれは本当に、本当に楽しかったですよ。スポーツなんて好きじゃなかったけど……。お父さんの前で、健全な子供でいられた気がした……」


 喋っていると、次第に鼻の奥がツンとしてきた。涙が零れる。嗚咽おえつしながらも、口を止めようとはしなかった。


「津吹さんは、僕を息子だと思っているんでしょう?それなら本望だろっ?息子の腕の中であんたは親として死ねるんだ」

「落ち着けよ。分かった、従う……だからもう止めろ」


 津吹は制服の胸元に付けていたバッジを外した。自傷用の刃の収納スペースから、鋭利な刃ではなく丸めた紙切れを取り出す。その紙を成葉へ示した。別の物を隠し入れることができるように改造していたらしい。


「この紙は?」

「君に対して黙っていたことが書いてある。声には出さずに読んでくれ」


 刃を展開したバッジを片手で持ちながらも、折り畳まれた紙を受け取って開く。成葉はそこに書かれている文章をおそるおそる読んだ。黒く、丁寧な文字。


『あの墓には彼女の骨は入っていない。俺が海に撒いた』


 紙上の文字を何度も読み直し、成葉はかぶりを振った。絶句した。

 葬礼のひとつに海洋での散骨があることは知っていたが、受け入れたくなかった。吸血鬼とは蘇る死体の伝説だ。火葬前の肉体でなくとも彼女の一部すら手元に残っていないとなると、完全に期待がついえてしまう。彼女が「復活」することに対する淡い希望が。もちろん、望みは初めからゼロである。現実の死者は蘇らない。依然としてその絶対の法則に例外がないことは理性で理解しているが──成葉からすれば、それはあまりにも突然の告白だった。


「何てことを……」

「一人目の成葉もそうした。これを知るのは、俺たち成葉と呼ばれる男たちだけ。津吹家の連中だって知らない。そのメモ書きは今日のために昨夜書いて、バッジの中に隠していた。絶対に誰も見ていないはずだ」


 津吹は早々に腰を上げ、紙を奪い取る。彼はデスク上の小さな燭台に立たせた蝋燭ろうそくにマッチで火をつけ、赤い灯火の中に紙を突っ込んだ。じじじ、と音を立てて紙があっという間に燃えていく。


「何故……あなたたちはそうしたのですか?」

「水は巡る……雨もな。俺たちの頭上を、足元を」


 ──雨が降る度に支社長が外を徘徊していたのは、そういうことだったのか?


 雨の日、津吹が頻繁に外を出歩くことは前に本人から聞いている。幽霊は水場に出ると言っていたことも。未だに成葉は釈然としなかったが、津吹が主張したい内容にはおおよそ察しがついた。

 蘇ることのない虚弱な吸血鬼への未練を断ち切るため、それでいていつでも彼女のことを思い出すため。忙しない日々を過ごしながらも、傘士という仕事をしている限り、必ず彼女の存在を思い出せるように……。

 人間は生きていれば必ず何かを失う。その補填をしなければ満足に生きていけない。だとすれば、義肢と墓は似て非なる物だった。義肢とは生きている人間が失った身体を補うためにある。それとは逆に、墓とは死んだ人間のためではなく、生きている人間が故人という喪失を実感するためにあるのだった。墓は故人には何の力も及ばさない。しかし、この世に遺された生者に、居なくなった故人の記憶を思い出させる力はある。墓は、故人ではなく、生者の身体に生じた幻肢痛を和らげるためにあるのだ。

 成葉は、津吹の背後にある夫人の義足を盗み見た。

 死んだ人間を忘れないため。確かに聞こえはいいかもしれない。だが、それは過去二人の成葉が自分たちに課した、おどろおどろしい自罰的な呪いにも見えた。

 ぼんやりと炎を見つめていた津吹だったが、やがて「ああ」と呟く。まるで成葉の考えを読み取ったみたいに自然な口調だった。


「これは口外禁止だ。言うまでもなくな」

「何がですの?」


 津吹と成葉は、同時に声の主を見た。少し扉が開いた出入口には、室内に顔を覗かせている小秋がいた。彼女は片足だけで扉や壁に寄りかかるようにして立っている。

 蝋燭の炎に気づいた小秋は柳眉りゅうびをひそめたが、すぐに可笑しそうに微笑む。


「お早く消してくださいな。わたくし苦手なのです」


 言われるままに、成葉は蝋燭に一息吹きかけた。白い煙が部屋の中を漂う。

 覚束無い足取りで小秋が部屋に入って来たので、成葉は彼女の身体を支えた。津吹は苦い顔をした。


「入ってくるなと言っただろう」

「仕方ありませんわ。お父様と成葉様がわたくしを蚊帳かやの外に置いて、何やらよからぬご相談をしていそうでしたから」


 男たちは再度目を合わせた。紙の文章を聞かれるわけがない──と言いたげな津吹と、そんなアイコンタクトに困る成葉。


「蚊帳ねぇ。お前も吸血するだろ、お似合いじゃないか」


 津吹がさらりと言った。


「お父様の血なんてもう吸いたくありません。年老いていて、美味しくないですもの」


 小秋は、負けじと素っ気なく返した。

 成葉に手を引かれて、小秋は本棚の前にある簡素な椅子に腰を下ろした。彼女は礼を言うなり青年の手に口づけする。


「この人はわたくしに誓うと言ってくださいましたわ。お父様になんて誓う必要はないと……わたくしたちで話しましたの。仲睦まじく」


 じろりと津吹に睨まれ、成葉は困惑して小秋を見た。彼女は愉快そうな笑みを頬に浮かべていた。

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