86話

 霏々ひひとして降る白驟雨はくしゅううの音で意識が戻っても、成葉の身体は思うように動かなかった。

 赤みに閉ざされた空間。青年は部屋の中央にある椅子に座っていた。ここは養護施設のあの場所だと気づいて立ち上がろうとしたのだが、まず両足が言うことを聞かなかった。自力では腰を上げることすら出来なかった。周りを見て状況を確認しようとすると、窓は真っ赤だった。夕焼けだとばかり思っていたが違った。濃い瘴雨だ。窓からの光は、赤一色の単調なステンドグラスの輝きとなって、室内と成葉の全身を包んでいた。赤く染まる身体を見下ろすと、格好は装備品も含めて全てブランデル社の物だった。レッヒェ社の物は混じっていない。

 しばらく経つと、後ろから扉の開く音がした。何者かが来た。近づいてくる足音には耳に馴染みがあった。辛うじて動く首だけで振り返る。視線に止められたようにして足音が止まった。そこに立っていたのは、生前の若い吸血鬼の女だった。おっとりとしながらも凛々しさと確かな優しさを持った青の瞳に見据えられて、成葉は全身の血が熱くなった。


「奥様」


 二人目の小秋──津吹夫人は、微かに微笑んだ。


「わたくし、とっても嬉しいですわ。貴方がここに残ってくれて」

「残るって……何のことですか」

「これからも津吹家に仕えてくれるのでしょう?」


 成葉は目を伏せた。


「奥様、すみませんが助けてくれませんか。何故だか分からないのですが……立ち上がれないのです」

「立てなくても困ることなんてありませんわ」


 一歩、二歩とゆったりとした足取りで近づくなり、夫人は後ろから成葉の首筋に指を這わせる。


「貴方はずっとここにいればいいのです」

「ですが仕事が……」

「これもお仕事ですよ。だって貴方は吸血鬼に喰われることを良しとする、立派な傘士ですもの」


 あの牙が皮膚に当てられる気配。昔からあれだけ望んでいた夫人への血の献上を穢らわしいと感じ、彼女を避けるべく成葉は勢いよく首を振った。その瞬間、氷が熱で溶けたように両足の拘束が消えた。椅子から転がり落ちながらも、床に手をついてすぐに立ち上がる。震える足は生を受けて間もない小鹿よりも頼りなかったが、それでも今は十分だった。


「お嬢様はどちらに?」


 成葉は威圧的な口調で訊ねた。


「あら……わたくしよりも、あの子の方が気になりますのね」


 残念そうな笑みをこぼした夫人は、青年が座っていた椅子に腰を下ろす。

 部屋を包む独特な赤みが薄らいでいく。窓に目をやると、瘴雨は通常雨に戻っていた。赤くない窓は恩寵を与えるかのような厳かな印象が消え失せて、部屋の中を反射して映す鏡と化している。成葉は目を疑った。窓には自分自身を含む室内が映っているのに、夫人の姿だけはいくら探してもいなかったのだ。吸血鬼は鏡に映らない──。


「あの子を想うのなら、ここに座ったままの方が良いですのに。違いますの?」

「どこですか、お嬢様は」

「せっかちな人。そんな風に貴方を育てた覚えはありませんよ」

「奥様」

「何ですの?」

「“私は愛に病んでいるのです”。しかしそれももう終わりです……私はお嬢様に仕える傘士になります。奥様の傘士にはなりません」


 夫人は小鳥がさえずるようにくすくすと笑った。


「成長しましたのね。けれど同じことですわ。貴方は津吹家に残る道を歩くのですから」

「“この歩みがどちらへ向かおうと足音を聞くな”」

「聞くなと言われましても、聞こえてしまうのですから仕方ありません。わたくしはいつでも貴方たちを見ていますもの、全てお見通しですわ」

「……仕方がない、の一言で済む問題ですか?“病気を祓うのに、もっぱらこれを別人に感染させるという呪術が存在する”とモンテーニュは言いましたが、あなた方津吹家は吸血鬼という病気をはらうとは考えず、家を保持するための習わしに使ってきた。そんな破滅的なことに……血と足の連鎖に未来があるとでも?」

「未来があるかどうかは分かりませんわ。親は我が子の幸せを願うだけです。だからこそ、貴方を傘士にしたのです」

「それなら僕のためには何をしてくれたのですか?」

「あの子を育てましたわ」


 夫人の目尻には涙が薄らと滲んでいた。だが、表情はいつものように笑顔だった。


「いつか貴方も、そうやってこの家を守ってくださいね?」

「吸血鬼の群れは家族を最小にして最大の単位とする──そういうわけですか。津吹家という吸血鬼の群れを」

「ええ、その通りですわ」

「お言葉ですが、私はあなた方みたいに……親みたいに生きたいとは思いません。子が親のように生きるしかないと決まっていたとしても。私たちには私たちの道があります」

「まあ……残念」


 夫人は心底驚いた声を上げる。


「わたくしに逆らうのですか?あんなに可愛らしかった貴方が」

「はい」

「……少し見ない間に、随分と悪い子になってしまったのですね。どなたが貴方をそうも堕落させたのでしょうか。あの子が?」


 成葉は何も答えなかった。夫人は眉をひそめながらも、諦めたのか力なく微笑んだ。美しい笑顔だった。


「独り立ちしてしまいますの……?」


 憐憫の眼差しをじっと向ける夫人に、成葉は僅かに心が動いたものの、もはや床に手をつくことはしなかった。青年は二本の足で立っていた。

 部屋を出ようとすると、外の雨風が一段と強まった。廊下側から扉を閉めた時、室内から窓の割れる音がした。もう夫人に会うことも、幼年期の記憶を留めるこの場所に踵を返すことも二度とないと決心していた成葉だったが、彼女の安否が急に不安になった。


「奥様!」


 反射的に戻るが、既に夫人はいなかった。割れた窓から、強風と共に吹き込んできた雨粒が部屋の中を容赦なく打ちつけていた。

 オイディプスに謎を解かれたスフィンクスは、物語における役目を終えて崖から飛び降りた──。雨に濡れる最中、成葉は、そのことを頭の片隅でぼんやりと思い出していた。



「いい加減起きな、このマザコン野郎!小秋ちゃんがもうじき来るのよ」


 乱暴な声が投げられ、身体を揺さぶられていると成葉が悟ったのは、白い天井と強い照明を相手にして、閉じていた瞼が耐えられなくなった時だった。

 雨音が目を覚ます決定打になり、のろのろと上半身を起こす。ぼやけた視界は病室のような空間で、消毒液の匂いがした。外は今もまだ雨が降っている。

 ここはどこで、今は何時なのか、そして何故ここに。現実的な疑問を探ろうとするが、成葉は「ちょっと!」と真横からの大声に鼓膜を叩かれた。白衣姿。職場での出で立ちをしている宇田だった。


「まったくいつまでうなされてんの」

「……どうなってる?」

「あんたここに運ばれてきたのよ。瘴雨の中ね」

「何?」


 直後の記憶をひねり出そうとする。夢に出てきた津吹夫人──スフィンクスのイメージではなく、それよりも以前のものを。雨の中、外出していたのだろうか。ベッドの横にあるサイドテーブル上のデジタル時計を見る。午後八時。十月三十一日。その日は津吹夫人が亡くなった日だった。

 そうだった、と成葉ははっとした。密かに紐付けられていた全ての記憶が海底から浮かんできた。雨の降る墓場。津吹の言葉。優しくない、父親の手の力──。


「そうだ……私、誓いを……」


 次に、宇田が言った「瘴雨の中」という響きにぞっとした。すかさず、ベッドに横たわる自分の身体を眺めた。手足はある。動かせる……。成葉は安堵するよりも先に疑問が浮かぶ。


「一体……何が?」

「覚えてないのね」


 宇田は腰に手を当て、ベッド上の青年を侮蔑的な目で見下ろした。


「あんた、貧血で倒れたのよ。傘士が外で貧血なんて情けないったらありゃしないわ。あんたのとこの社長さんが運んできてくれたのよ。あとでお礼言っておきなさい」


 宇田の話によると、貧血で倒れた成葉を津吹が搬送してきたそうだ。最も近い場所にある医療機関がこのリハビリ施設だったようである。


「にしても何やってたの?社長さんと外回り?」

「そんなんじゃない」


 迷惑そうに成葉は言い捨てた。宇田はこれ見よがしにため息をつく。


「……まぁいいけど、軽いものだし今夜には帰ってもらうから。小秋ちゃんから迎えに来るって電話が来たし」

「小秋さんが?」

「そ。だからさっさと支度しといて。ほら」


 宇田はテーブル上の無線端末や携帯電話など、患者の私物を軽く投げ渡した。瘴雨下での墓参り最中だったので、当たり前と言えばそうなのだが、私物が全て仕事の物しかないことに成葉は苦笑した。

 ベッドから起き上がり、成葉は目眩などの症状がないことを確認すると、平日の朝のように黙々と装備品を整えた。ホワイトペリカンのバッジを胸元に付ける。彼はさきほどの苦笑が徐々に重くなってきていたのをひしひしと感じた。


「私、本当にこの仕事に向いているのかな」

「何よ急に。マザコン野郎なんかに向いてるものなんて何ひとつないと思うけど」

「もう違うさ」

「どういう意味……それ?」


 宇田が怪訝そうに首を傾げた。


「もう終わっちゃったの?小秋ちゃんとは。もしかしてあんた、あの子のこと──」

「そうじゃないよ」

「じゃあ何よ」


 成葉は無言で、短く首を振った。

 何故この仕事が向いていないと考えてしまったのか、自分でも分からなかったのだ。少なからず業務内容や職種が能力とは適正ではない、という意味ではないのは確かだった。津吹夫人の傘士になる──少年時代からのその目標がなくなってしまったからだろうか。だが、元より夫人は成葉が入社する前に亡くなっている。それとも傘士ではない自分には、初めから存在価値が用意されていなかったと思ってしまったからなのだろうか。もしくは、親とは違う道を進むと信じていたのにも関わらず、傘士である津吹の背中を追いかけてしまっている現実の自分への嫌悪感なのか。

 潰れかけた心を転ばせないためにも頭をはたらかせて考えたが、これといったものは出なかった。

 支度が終わった頃、施設の夜勤組との相談がある、と言って部屋を出た宇田と入れ替わりで来たのはポリドリだった。


「無事だったかい?」

「おかげさまで」

「よかった。貧血だったそうだけど、話を聞く限り津吹さんに何かされたんだろ」


 ポリドリは、朝食のメニューを告げるみたいにさらりと言ってのけた。驚いた成葉は顔を上げる。


「恩人の墓前で結婚しますと誓わされたり、とかね。断ると外套を脱がされる。天気が瘴雨だと徹底的に逃げ場のないやつ」

「……何故それをご存知なのですか?」

「津吹さんも過去にされたんだ。僕も話を聞いたことがある」

「支社長が?」

「そうだよ。だってほら、彼は二人目だから。一人目の成葉が彼にそうしたのさ」


 親からされたことを今度は子供にしたわけか──。成葉は顔を歪めた。


「嫌な伝統ですね」

「否定はしないよ、うん」


 ポリドリは薄く笑った。


「人間として生き残ってるところを見ると、君はお嬢様との将来を誓ったと見るのが自然だけど……ここにこうして搬送されているということは、幸か不幸かその最中に貧血で気絶したわけだね。最近採血か何かした?」

「いえ、そういうわけではありませんが……」


 それであの時貧血を起こしたのか、と成葉は合点がいった。拍子抜けする。シーツの中で小秋に吸血されていたあの夜の出来事が、まさかこんな時に助けてくれるとは思いもよらなかった。あの極限状態での過度なストレスや、繁忙期の仕事、レッヒェ社への出張による蓄積した過労もあるかしれないが、主な原因は数日前の小秋の吸血と見ていいだろう。


「じゃあ君はまだ、津吹さんにも夫人にも返事はしていないわけか」

「そうですね」

「僕としては君にお嬢様をお願いしたいんだけど」


 ポリドリがこの件で珍しく自分の意見を主張したので、成葉はどう返すべきか悩んだ。「つまり」とだけ言って、咳を挟む。


「どういうことでしょうか?先生」

「僕の親父が一人目のポリドリで、僕は二人目。要はね、僕の息子が三人目になるかはほとんど君にかかってる」


 話によれば、一人目のポリドリは最初の小秋を診ていたそうだ。二人目に当たる今のポリドリは、二人目、そして三人目の現在の小秋の主治医をしていたわけだ。


「先生も名前を継いでいたわけですね。私たち傘士同様に」


 面白いものだと素直に成葉は思った。

 というのも、かつてイギリス詩人・バイロンと、彼の名前を騙って『吸血鬼』なる文学作品を書いたバイロンの主治医ことポリドリ、その双方と親交があった作家のメアリー・シェリーは影響を受けて『フランケンシュタイン』を書いたのだ。本作は「死体が蘇る」という怪奇的なものでしかなかった吸血鬼文学を医学的、近代的にアレンジした作品とも言える。死者復活の伝承に科学的な面で説得力を持たせたわけだ。吸血鬼との関係は深いし、瘴雨患者として「医療」の対象にされている現代吸血鬼との関係は切り離せない。

 おそらく初代の津吹夫妻も文学に造詣が深かったのだろう。それで、自分たちの関係者である主治医に吸血鬼絡みの名前を与えて楽しんだ。主治医という共通の立場から命名し、ポリドリ。その名前が今も受け継がれているわけである。夫妻のそれぞれには自分たちの名前があったから、バイロンやシェリーを名乗る必要もなかったわけだ。

 しかし、名前の存在に複雑な心境を持つ成葉からすれば受け入れるのには難しいところがあった。


「それは私がお嬢様と結ばれなくとも、成立する話ではありませんか?四人目のお嬢様さえ生まれるのなら……」


 成葉はそう発言していて傷つく自分がいることを激しく嫌悪した。仮定の話であっても、小秋が他の男との子供を生むのは許せなかった。この数年、自分以上に彼女に尽くした人間は、たとえ彼女の親族を含めてもいるわけがないと確信していたからだ。相手が津吹でもそう言える自信があった。傘士と吸血鬼という、他では決して有り得ないであろう血と足の関係が彼を説得して止まなかった。

 それと同時に、成葉は今更になって気づいた。小秋は以前からこちらにこう思わせたかったのだろう、と。臆病者の傘士が逃げ出さないように。貴方以外の「三人目」の傘士は舞台に存在してはいけないのだ、と。

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