84話

 身体はベッドのシーツに沈むように重かった。真夜中に目覚めた成葉は、月明かりを頼りに木目の天井を眺めた。そこには数々の箴言たちがいる。それらの黙読にも飽きると、横で眠っている小秋に視線を移す。

 僅かに開いた小秋の唇からは、鋭い犬歯が息を殺してじっとしている。不意に、首に巻かれた包帯の下の皮膚が牙のことを拒絶したかのように疼いた。

 茶会が終わっても、小秋はすぐに吸血しようとはしなかった。まず本の話に飛び、時間が過ぎた。次に夕食を済ませることになるが、その後も小秋は噛みつこうとはせず、あくまで淑女の振る舞いで接してきた。ずるずると屋敷に居座ってしまった成葉は、昨夜までの猜疑心や反抗心を削がれたばかりか、反対に、血を吸われたいというくすぶっていた欲求に火がついて全身を激しく焦らされた。それは獲物となった人間には拷問に近いものだった。釣り糸で餌を眼前にぶら下げられた哀れな動物みたいに、物欲しそうに自身の主人を見つめるしかなかった。

 やがて、今夜は泊まっていかれてはどうですか、と小秋に勧められた際、成葉は一生涯をかけて拒むと決意していた「堕落」を自覚し、歓喜と諦念が複雑に交錯する心情で彼女を抱きしめた。その夜、二人は、傘士と吸血鬼という関係を踏み越えた。

 ベッドのシーツは行為後と同じ物で、今もところどころに吸血時に垂れた赤い跡があった。水たまりに雨粒がまばらに落ちて、波紋が広がった情景と似ている。眠る前に新しいシーツに替えようとしたのだが、小秋が嫌がったのだ。彼女は青年の血の匂いに満たされたかったのだろう。

 成葉は血の痕跡を指でなぞった。これまでよりも深いところで小秋と血で繋がれた錯覚がしたので、彼も満足していた。しかし、未だに彼は神経質な青年であることに変わりはなかった。幸福の余韻と同じくらい、後悔の余波がある。異性と親密である現状に、薄らとした違和感を抱いていた。

 私は母親が欲しかったのだ、結局のところは──。眠っている小秋の頭を撫でながら、成葉は自身の至らなさを痛感した。

 何年もの間、二人目の「小秋」の役を継いだ少女に、どれほどの苦しい感情を募らせてしまったのかは言うまでもない。少女は成葉のために足を失い、その名前すら捨てた。そうして彼女が当初出会ったばかりの青年から得られたものは、彼女自身へ向けられた愛情や好意ではなく、自分の背後にいる母親という女に重ね合わせて投影されたに過ぎない想いだった。そうしているうちに、少女は母親への尽きることのない敵愾心と嫉妬に閉ざされたに違いない。

 成葉が津吹を恨んでいたように、小秋は「小秋」を恨んでいたのである。

 小秋との関係を深めたいのなら、それをまずどうにかしなければならないと成葉は思った。


「起きていらしたのですね」


 小秋を眺めていると、彼女は成葉の気配に目覚めた。眠気にぼんやりとしている様子の小秋は、昼間の短い時間に仕事の訪問で会っていた時に比べて、遥かに子供らしかった。彼女の頭の後ろに手を回し、成葉は頷いた。


「眠れないだけです」

「やっぱり、わたくしのことが不安なのですか」

「正直に言うと……そうです」


 微睡む目を擦り、小秋はとろんとした表情で成葉の肩に頬をくっつけた。


「貴方が憂慮すべき事柄なんて、もう何もございません。わたくしがずっとお傍にいますもの……いいえ、だからこそ不安や重荷に感じられますの?」

「……小秋さんはいずれ、予報士になるとおっしゃっていましたよね」

「はい。ブランデル社か、そうでなくとも成葉様を見守っていられる働き口に勤めるつもりですけれど……それがどうかされましたか」


 成葉は肘をつき、上半身を少し起こした姿勢で小秋の方を向く。


「だって……ほら、予報士は傘士と同じで、まだまだ男の世界じゃないですか。絶対に駄目です」

「妬いていらっしゃるのですね」


 小秋は驚いた声を上げた。愉しそうに小さく笑う。成葉はむっとして、彼女の顔を再度抱き寄せる。   


「実際に、知り合いに女癖の悪いのがいるから嫌なんですよ。傘士と違って夜勤もありますから……とにかく、私としては……」

「ふふふ。分かりましたわ」


 二人は、手探りで相手の身体に触れた。互いにどう抱きしめ合うのが最良なのか探る。時折、成葉の足にはひやりとした小秋の義足が絡んだ。足に触れても、彼女のそれは固いとも、痛いとも感じなかった。


「成葉様がそこまでおっしゃるのでしたら、進学先も考え直さないといけませんね」

「ご理解していただけましたか」

「ええ。けれどその前に、常に貴方を見守らなくても、わたくしの元から逃げ出さないと信じられる確証を頂きたいばかりです。雨の中、全てが嫌になってしまった貴方が自暴自棄にならないと信じられる……何かが」

「……今夜のことでは、私はまだ信じてもらえないわけですか」

「貴方のことは心から信頼し、お慕いしております。でも、それとこれとは別の問題なのです」


 小秋は成葉の胸に顔を押しつけた。


「これまで成葉様に散々示してきた通り、わたくしは決して臆病者ではありません。裏切られない保証がなければ愛せない、というわけでもございません。単に、貴方にもそうしていただきたいだけなのです。わたくしを心から好いているとおっしゃるのでしたら──わたくしを信じさせる何かを貴方からもきちんと差し出してほしいのです……いけませんか?」

「そうは言っても、私にできることなんて……。片足を瘴雨に晒した小秋さんと比べてしまえば、どれだけの誠実さを言葉や行動で尽くしたとしても……取るに足らない矮小なことになると思いますが」

「そんなことはありません」


 小秋は素っ気なく言うと、成葉から離れて身体を起こし、義足を外した。ベッドの隅に立てかけられた足は、彼女の身体から途切れた瞬間に物になった。

 振り返った小秋の微笑みはおっとりとしていて落ち着いている。


「何なのですか、小秋さん?その……私が差し出せるものって」

「まだお分かりになりませんの?」


 成葉は考えたが、分からない、と言いたげに首を振った。小秋は彼の元に寄ると、子供を慰めるようにその頭を丁寧に抱いた。

 片足のない少女の身体に包まれた成葉は、小秋の足の切断面に手を当てようとして気づいた。


「……義足ですか」


 そう呟いた。

 海を思わせる潤んだ小秋の青い瞳は、暗澹あんたんたる淀みのようなものが和らいでいた。言葉での肯定こそなかったものの、小秋は柔らかい笑顔だった。


「いつお作りしましょう?それにデザインのご要望は。小秋さんがお望みなら、今すぐにでも取りかかりますが──」

「ありがとうございます、成葉様。ですがその前に少しだけ、済ませておかなければならないことがありますから」

「はい?」

「明日も、会社をお休みしてわたくしとお出かけしましょうか」


 小秋は当たり前のように口にした。昔ならば仕事をそんなに簡単に休むなんて、と口うるさくなったであろうが、今の成葉は「構いませんよ」と二つ返事で承諾した。


「一体、どちらに何をしに行かれるのです?」

「きっと驚かれますよ」


 小秋は心底嬉しそうに笑った。花のようなその笑顔は、母親譲りでも教育の賜物でもなんでもなく、彼女本来が持つ芯のある明るさだった。



 こちらです、と職員に案内され、二人は、ひとつひとつが小さく区切られた棚の前に立った。職員が去ると、その場に残された成葉は、小秋を一瞥した。彼女から返された表情でここに来た理由を汲み取った。焦る気持ちに駆られて視線を上げる。棚のネームプレートに記載された名前が目に入るなり、絶句した。

 車椅子に座っている小秋は、目当ての人物たちの残骸が収まっているであろう棚に、礼儀正しくお辞儀した。


「お初にお目にかかります。お義父様、お義母様──」


 簡単に自己紹介する小秋の声を聞きながら、成葉の首筋には涙と大別のない冷や汗が伝った。

 翌日、成葉と小秋は、県内のとある納骨堂に訪れていた。民営のその施設は、津吹グループ傘下の企業群が運営しているらしく、外観は普通のオフィスビルなどの建物に近い。室内は骨壷を収めた棚がずらりと並び、部屋の装飾の造りから墓場だと意識させてくれるが、強い照明がやや場違いだった。

 日本の墓事情は、瘴雨によって変化しつつあった。人を吸血鬼に変えてしまう奇怪な雨が降り始めて、外出自体が避けられる傾向になると、従来までの墓参りは少なくとも庶民には愚の骨頂として扱われるようになった。そうして普及したのが、企業が運営する室内の墓だ。


「……両親の墓はないと思っていました」


 成葉は棚に両手を合わせることもなく、小秋を見た。


「支社長や役所から、何も教えられていませんでした。それがまさか津吹グループ傘下の納骨堂にいるだなんて」

「わたくしのお父様が希望されたのですよ」

「勝手なことをっ」


 思わず怒りに任せ、成葉はネームプレートにある嫌いな苗字の文字に向かって声を荒らげた。十八年も前に、雨に沈んだ「家」がこうして保存されていることに対する不快感が込み上げてくる。


「お父様同士、親交があったそうですから。貴方のこともありますし、放ってはおけなかったのかと思いますわ」

「一言ぐらい、支社長も僕に教えてくれれば良かったのに」

「そう拗ねないでください。もしずっと以前にご両親のお墓がここにあると知ったとして、どうするつもりだったんですの?」


 成葉は沈黙した。墓なんて棚ごと壊すに決まっていた。この考えが幼稚で馬鹿げていることぐらい、彼も分かってはいたが。


「用事というのは、私の……血縁上の両親への挨拶だったのですか。小秋さんも人が悪い」

「大切なことですもの。“もし君が同時に継母と実母を持っているとしたら、君は前者に仕えはするであろうが、しかし君が絶えずもどって行くのは実母のもとであろう”……と賢人も言葉を残していますわ」

「私が実母に?」


 一瞬、風邪をひいた時に抱き枕代わりになってくれた実母の生足が記憶に引っかかったが、成葉は精一杯皮肉っぽく笑ってみせた。

 小秋はそれに対して何も反応しなかった。車椅子から手を伸ばし、成葉の手を握る。


「今も成葉様は、ご自身のお母様に囚われていますよ。わたくしにはそう見えます」

「……ならどうしろって言うんですか」

「わたくしに任せてください」


 小秋が立ち上がろうとしたので、成葉は手を貸して手伝った。欠けた左足に、本義足どころか仮義足すら付いていない小秋は、現状一人では歩けない。成葉が杖に──足になってやらなければいけなかった。

 右足で器用にバランスを取り、成葉に寄りかかっている小秋は、ごく自然な装いで彼の頬にキスした。ぎゅっと青年の腕を抱きしめ、名前と骨だけの墓に、にこやかな笑みを向ける。小秋の笑顔は、彼女自身があまり好きではないはずの猫に似た狡猾な一面を兼ね備えていた。


「ご覧になりましたか、お義母様。この子は……この人はもうわたくしのものですわ。とっくに貴方のものではありませんよ」


 成葉は呆気に取られて小秋を二度見した。小秋のその言動は、津吹家の墓に一輪の薔薇の花を供えるのと本質的には同じものだった。

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