83話

 愛知県に戻ったのは午後二時過ぎだった。アルコールは抜けたようなので、成葉は名古屋方面のブランデル社の車庫で車を借り、小秋を屋敷まで送った。

 屋敷の門前に車を停める。後部座席から降りる小秋に目を配ると、背後の空も視界に入った。晴れ間に再び灰色が立ち込めていて、雨の気配が滲んでいた。


「ではこれで」と車を出そうとした成葉だったが、小秋は屋敷に戻らず、車のすぐ近くにいたので慌ててアクセルから足を離した。

 運転席側の窓を下げると、小秋が顔を覗かせてきた。


「行ってしまわれるのですね」


 光が届かず、淀んだ海底となった眼がそこにあった。


「この車を返しに行くのです」

「家の者に代わりにさせましょうか」

「社員が返す規則ですので結構です」

「成葉様がお気になさることではありません。津吹家の使用人は社員も同然なのですから──」

「小秋さん」


 成葉は端的に彼女を制した。

 数秒の沈黙を挟み、小秋は顔を上げる。


「貴方はここに帰ってきてくれますの?」

「……小秋さん、危ないので車から離れてください。雨も降りそうです」

「でも……わたくし、お茶会の準備をしていますから。必ず戻ってきてください」


 白いオペラグローブをはめた小秋の両手がぬっと車内に入ってくる。何をしてくるのか、と考える間もなく、成葉の両頬は白い女の手たちに掴まれた。次いで揺れる白い髪と彼女の甘い微かな匂いが近づき、最後に唇が成葉の口元に触れた。

 一方的な接吻だった。応えたい気持ちを押し殺し、成葉は客が自発的に退くその時を待った。だが、次第に小秋の手と唇の感触が顎を伝い、ついには首元まで下がってきた。

 血を吸われる──。成葉は目を閉じた。走ってくるであろう痛みに身構えた。しかし、その痛みはいつまで経っても襲ってこなかった。

 目を開くと、年相応の少女のように眉を下げた小秋が車の外に立っていた。


「ごめんなさい。次の輸血実施日は半月後、でしたね……」


 それだけ言い残して、小秋は別れの挨拶も会釈もせず、屋敷へ身体を向けて歩いて行った。

 唐突に吸血と茶会を相手から諦められてしまい、成葉は安堵する一方で、憤りと恐怖を感じて、どういう事だと小秋を問い詰めたくなった。彼女に捨てられた気がしてならなかったのだ。

 声をかけようにも、このまま呼び止めるのが良いのか否か分からなかった。成葉が悶々としているうちに、小秋の背中は門を過ぎていく。庭、そして屋敷の玄関に消えていく。彼女は決して走り去っていくような真似はせず、落ち着き払った足取りだった。それはまるで、困惑した成葉の視線が自身に向けられていることを知っていると承知の上で、あえて彼に見せつけているかのようだった。

 どうすれば、と考えたが、逆に自分は何をどうするつもりなのだと成葉は思い直した。

 かつて小秋がスケート場で語ったが、成葉が幼い頃から抱えていた「小秋」という吸血鬼への憧憬は、度重なる献血、吸血、それに義足制作という形で既に終わっている話だった。三人目の吸血鬼は、三人目の傘士のために、血の繋がった母親──つまり、二人目の吸血鬼の虚像をまとってみせた。瘴雨患者として傘士の庇護を受ける一方で、実際に治療されていたのは傘士の方だったのである。

 呆然として運転席に留まっていた青年を急かすように、雨がぱらぱらと降り始め、やがて車内を騒音に満たすほどの滂沱ぼうだたる雨になった。雨。あの日、屋敷へと導いた秋雨──。

 津吹家の屋敷は、吸血鬼の家に相応しく、雨と影の中にひっそりと佇んでいる。昨夜はあそこから逃げ出したのに、今度は戻りたくなっている。成葉はその事実に、はっきりとした苛立ちを覚えた。

 傘士としての仕事をしなければならない、と自分を痛めつけるほど必死に言い聞かせながら、彼は車を出した。フロントガラスは大量の雨粒で埋め尽くされ、泣いた時の世界みたいに歪んでいた。


 

 どうしてここに来ているのだろう。

 成葉は屋敷の門前に立っていた。雨は少し弱まり始めたものの、勢い自体は衰えていない。雨に外套を打たれているが、彼はそれにも、ましてはここに立っている自分自身さえもどこか他人事のようだった。小秋と別れた後、車を返し、その足で電車を乗り継いで戻ってきていたのだ。

 門の横に取り付けられたインターホンを押す。反応はなかった。電話しようかと迷って、ふと門に触れると開いていた。そういえば、さきほど屋敷へ帰っていく小秋を見送った時、彼女は門に鍵をかけていなかったと成葉は思い出す。

 雨潦が点在する芝の庭を通り、玄関扉の前に着く。ノックするが、こちらからも返事は来なかった。仕方なく合鍵で扉を開けた。


「小秋さん?すみません、いらっしゃらないのですか」


 外套を脱いで室内に上がると、一階は部屋中の電気が消えていた。外出しているのかと思ったが、外に出る用事があるのなら連絡が入るだろうし、名古屋からの帰りの際についでに済ませるだろう。それに、小秋や津吹家の使用人なら門を施錠するはずだ。

 広々とした造りの屋敷には飾り気なくアンティークものの家具や置物があり、それらは雨音に馴染むように静かだったが、今は何故か薄気味悪く見えた。何かあったのかもしれない。嫌な予感がして、成葉は二階の小秋の自室に進んだ。

 扉は半分ほど開かれていて、ノックしようと手を伸ばした時には、部屋の中にいる彼女と目が合った。

 小秋は青年の来訪に驚きもせず、微笑みだけで出迎えた。彼女の無邪気な笑みは実に綺麗だった。それは想い人をひたむきに待ち続ける世間知らずの令嬢の笑顔だと成葉は受け取りたかったが、今の小秋の微笑みは、男が自分の元に戻ってくると知った上でそれを試す女のものであるのは明らかだった。


「あら、成葉様ではありませんか」


 媚態と権威、真反対のそれらが混じったような甘い声で、小秋は青年を従わせるように呼んだ。彼女は部屋の中央にある装飾の少ない椅子に座っている。門前で成葉の頬を捕らえた両手には古い本が収まっていた。

 雨が滴る窓辺から漏れる淡い陽の光が、吸血鬼と義足、彼女に寄ろうとする傘士を照らしている。

 物言いたげに立ち止まった成葉をまじまじと眺めて、小秋は微笑みを崩し、小動物を虐めて愉悦に浸るように口角を上げた。青い瞳は相変わらず暗い海を思わせるが、以前よりも生気があった。


「すみません。お呼びしても返事がなかったもので、心配になって勝手に上がってしまいました」

「そうでしたのね……。わたくし、少し考え事をしていましたから聞こえなかったのかもしれません」


 小秋が嘘をついていると成葉は直感的に思った。それと同時に、自分は誘い込まれていたのだとようやく確信に至った。


「それで、わたくしに何か御用でした?」

「……お茶会、やるんじゃなかったんですか」

「あら、よろしいんですの?さきほどはつれない態度であしらわれてしまったものですから、てっきり嫌がっていらっしゃるのかと」


 小秋は意地悪っぽく笑った。


「何もそういうわけでは……」

「うふふ、別に責めてなんていませんわ。色々と話したいことがありますもの、せっかくですからお茶を楽しんでいってくださいな。ですがお恥ずかしいことに、まだ何も準備に手をつけていないのです。成葉様……そういうことですから、もしよろしければお手伝いしていただけませんか?」



 二人っきりの茶会のため、台所で肩を並べて菓子作りに勤しんでいると時間の流れは早かった。これも小秋の狙い通りなのかもしれないと成葉は疑ったが、特に反抗はしなかった。

 話をしたいのは彼も同じだった。契約の件、同居の件、今後の二人のことなど、解決させておきたい話題は山のようにある。その内には、本来ならば津吹も呼んで、三人で話をしなければならないこともあったが、成葉はまずは小秋と面と向かって言葉を尽くしたかった。たとえそれが自分や彼女が欲しい結果にならなかったとしてもだ。

 フィナンシェが焼き上がった。その他にも既製品の菓子を少し食べることにし、温かい紅茶を淹れ、客間のテーブルは普段のように色彩豊かになった。いつもなら向かい合ってする茶会だが、今回は二人用のソファに座ることになった。

 小秋は紅茶をひと口飲んで、成葉の腕を抱き寄せた。片手で彼の手首を摩り、脈を探すような素振りをとる。


「ねぇ、成葉様?これから貴方は……どうされたいのですか」


 香ばしいフィナンシェと紅茶の香りに紛れて、小秋の匂いが成葉に忍び寄った。


「どうって、何がですか」

「わたくしに血を吸われたいから戻ってきたのでしょう?違いますか」

「……」


 肯定するのもはぐらかすのも出来なくて、成葉はただただ自身の手首を這う小秋の指を見下ろした。


「それとも単に、同居がおしまいだから荷物を取りに?合鍵を返却しに?わたくしには、貴方がそれを望んでいる風には見えないのですけれど」

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