82話

 京都に着くと雨が上がった。気象予報をチェックすると、しばらくは降りそうにもない。外を歩く分にも問題なさそうだが、これといった目的地がなかったので、タクシーで適当に移動することになった。

 成葉と小秋は、駅の地下にある乗り場でブランデル社関連企業の車に乗った。運転席の後部に貼られたファイルにはドライバーの簡単な紹介文と大きな文字で血液型が記載されている。自動運転技術が活発化した現在でも、万が一の交通事故の際に、客へ緊急輸血を行える生身の人間のドライバーの需要は一定数ある。観光地ならば特にそうだった。


「お若いカップルさん、どちらまで?」


 観光客慣れした風貌のドライバーは、バックミラー越しに目で訊ねてきた。傘士の格好なのに、他人からはお似合いの男女に映るのだろうか。否定するのも面倒になり、成葉は気にせず受け答えした。どこか面白い所はありますか、とドライバーに質問すると、それなら近くの京都水族館でもどうですかと勧められた。可愛いイルカが人気だという。成葉と小秋は顔を見合せ、くすくすと笑った。水族館に足を運ぶ気はなかったものの、そちらまで観光がてらゆっくり走ってもらうことにした。

 整備された真新しい道路と年季の入った伝統的な建物が混在する京都の街並みは、雨上がりで空気が澄んでいたのも手伝って綺麗だった。

 後部座席に並んで座る成葉と小秋は、各々、窓の外に意識を傾けながらも、たまに思い出したように視線を交わして雑談した。お互い、昨夜のことがあるので僅かに空々そらぞらしい口調だった。


「新幹線での移動中、足の方は大丈夫でしたか?」

「ええ」

「それは良かった。長時間座り続けているとエコノミー症候群になる恐れがありますので、小秋さんも十分に注意してください」

「それもある意味、血と足のお話ですわね」


 車の揺れで、小秋の左足──義足が無機質な音を立てた。


「かもしれません」

「成葉様、貴方のお気遣いには心から感謝しますわ。けれど、わたくしにはもう片足しかありませんもの。今更それを無くしたところで何も問題はないのです」

「……ご自愛ください。右足まで私に作らせるつもりですか」

「もちろん、その時はそうさせていただきますわ」

「仮にそうなれば義足云々の前に、担当者の私が業務上の責任を負わされますが」

「嫌ですか?」

「当たり前じゃないですか」

「ブランデル社にいられなくなるから……?」

「それ以外に何があるんです」

「もう、つまらない人」


 小秋はぷいっと青い瞳を窓の方へ戻した。彼女の手が成葉の膝に触れた。


「そうなった時の貴方がブランデル社に残れたとして、担当が変わってもよろしいんですの?わたくしが……他の傘士に足を許しても、それでも貴方は本当に何も思わないのですか?」


 返す言葉が見つからないまま、成葉は小秋の手を握った。反応はない。いつもなら彼女から指を絡ませてくるのだが、今は違った。


「わたくしから逃げたいのかそうではないのか、いい加減はっきりしてください」

「別に、逃げたいわけじゃありませんよ」

「それなら何故、昨夜はわたくしを置き去りにしてまで屋敷を出ていったのです?」


 少女の声には怒気は一切こもってなかった。小秋のそれは、まさしく愁嘆場しゅうたんばの真っ只中にいる女の声だった。


「小秋さんたちが嘘をついていたのがそもそも悪いんじゃないですか」

「そうだと分かった上で、成葉様はわたくしの元に留まってくれると信じていましたのに」


 昨夜、小秋の足を抱きしめたことを思い出した成葉は自責の念に駆られた。あの時、あの美しい生足に欲情さえしなければ、今こうして糾弾されることもなかっただろうに──と。だが、もし足に触れていなかったとしたら、小秋は成葉の前に姿すら現さなかったかもしれない。


「……私は自信がないのです。甲斐性なしなんです」と、成葉は呻くように発した。


「小秋さんのことが好きです。小秋さんが私なんかに好意を寄せてくださってることも素直に嬉しいです。一緒に暮らしていた時もずっと幸せでした。それは認めますが、私には……」


 言葉に詰まっていると、小秋が細い手の指たちをしきりに絡めてきた。小秋は横目に成葉を見ている。その瞳には不安な色が浮かんでいる。


「私には……三人目になる自信も勇気もありません。本音なんです、これは」


 胸の、胸骨の、心臓の、もっと奥底から急速に全身へ波及する痛みと鼓動が成葉を襲った。



 京都にある「哲学の道」なる遊歩道を歩きながら、成葉は左隣にひっついて離れない小秋を見下ろした。

 日本を代表する哲学者の西田幾多郎が思索を深めたというその道は、雨が上がって間もないこともあり、ほどよく閑散としていて歩きやすかった。タクシーが水族館に着いても、沈痛な面持ちで黙っている青年と少女に気を使ったのか嫌気が差したのか、ドライバーはおふたりで散歩でもしてきたらどうです、とこの辺りまで連れてきてくれたのだ。第三者の冷静な介入により、京都に立ち寄ったのは気晴らしのためだったと反省した二人はそろって降車し、散策することにした。

 空はまだ灰色だった。秋の気配が深まってきたらしく、頬を掠める風は冷たい。成葉と小秋は身を寄せあって、穏やかな道を少しずつ歩いた。二人の足音の中には義足の音が優しく響いている。


「こうして貴方と歩いていると、最初の頃を思い出しますわ」


 微笑んでいる小秋がぽつりと言った。


「最初の頃というのは?」

「この義足を成葉様からいただいて、リハビリのために施設に通うようになった頃のことです。あら、もしかして……覚えていらっしゃらない?」

「覚えていますよ」


 二人はその後も当時の出来事や気持ちを話し合って、笑った。車内から引きずっていたはずの陰険な空気は、歩いている間に薄れていった。

 どうやら足は思考に直結しているらしい、と成葉は改めて思った。

 かつてアリストテレスは逍遙しょうよう学派なるものを創り、学院内を歩きながら弟子たちと講義した。カントも日常的に散歩した。かのモンテーニュもそうである。賢者たちは歩くことの効用を古くから心得ていたのだ。実際、これには確かな根拠がある。人間の脚部には、心臓以外にも血液の循環を手助けする強力な筋肉が備わっているので、歩行によって脳に血液が回ると思考が活発になる。逆に言えば、座ることによって脳に血液が回らなくなると思考が鈍っていく。知識人は書斎で厳かに椅子に座って本を読んでいるという印象を受けがちだが、それはまったくの誤りだ。学のある人ほど歩くことに専念するらしい。

 足を動かすことの良さに成葉が初めて気づいたのは、雨が降る夜中に津吹家の墓まで歩いた時だった。


「自分で考えているよりも、私は歩くことが好きなのかもしれません」


 遅い歩調を保ちながら、独り言みたいに成葉は言った。小秋は興味深そうに顔を上げる。


「それはまたどうしてですの?」

「最近は新幹線の座席にいる時間が長くて、仕事中も満足に歩けなかったわけですが、それがなくなると思うと案外気が楽になりまして」

「決してわたくしとの時間が増えることに喜んでいらっしゃるわけではありませんのね」


 小秋の腕の力が薄らと強まったのを感じたが、成葉は気にしなかった。


「今は繁忙期ですよ、小秋さん」


 数秒の間を空けてから、小秋は言葉なく頷いた。彼女の沈黙が悲しみであるのは成葉にも分かった。しかし、そんなことはないと言っただけで彼女が素直に喜ぶとは考えにくかった。

 成葉は隣を歩く吸血鬼の少女の義足と右足を交互に眺めた。立ち止まりこそしなかったが、視界の端の景色の動きが段々と遅くなっていくのが見えた。ついに足を止めて、正面から顔を向ける。


「昨夜、屋敷には私たちしかいなかったですよね?」

「そうでしたわね。それがどうかされましたの」


 暗い室内のベッド上にいた、薄着の小秋は無防備だった。義足を外していたので片足はなく、力ずくで倒されれば抵抗の余地はなかったはずの少女。


「小秋さんは、あの、怖くなかったのですか」

「……お馬鹿さん」


 小秋は温顔だったが、涙の膜に包まれた彼女の目は睨んでいた。


「怖かったに決まっていますわ」


 想い人から拒絶されることへの恐怖。

 目を伏せた成葉は瞬時に後悔した。小秋の誘いを受け止めたようで流してしまった、一夜の出来事を。抱きしめて愛撫した小秋の足の肌触りや匂いが、自分の手や舌、頬に重なっていくように蘇ってくる。小秋はそれだけでは満足しなかったのだろう。愛されるのが足だけでは。


「……いつまでも相手に甘えるな、好意を向けられると思うな──前に、宇田にそう言われました」

「あら、うふふ……良いことをおっしゃってくれたのですね」

「そうですね。一途なのは結構ですが、だからと言っていつまでも同じ恋をするわけにもいきませんし」

「ええ、それもほとんど正論です」


 でも、と小秋は付け加える。


「わたくしは成葉様が考えている以上に、ずっとずっと面倒な女ですよ。恋は成就しなければやがて終わる、それはそうだと理解した上で意気地無しの貴方を好いていますもの。次に貴方に逃げられたとしても、より一層の愛着と執着を持って、必ず追い詰めてみせますわ」

「愛着と執着の違いって何でしょうか?」

「愛し続けるゆえの産物が愛着です。愛着が尽きても消えないものが執着ですよ」

「……小秋さんは、今もまだ両方をお持ちのわけですか」

「はい。わたくしが成葉様を恋慕するようになった理由は昨夜にお話した通りですから」


 小秋は成葉の胸に顔を寄せて、彼の背中に腕をそっと回す。


「人を憎むことを覚えた日から、わたくしの心には、お父様やお母様とは別に貴方がいました。わたくしは今も貴方のことに愛着を覚え、同時に執着しているのですよ。たとえ愛が消えたとしても、そこに残るのは執着心から生じた貴方への変わらない想いですわ。世間一般ではそれを単に未練と呼びますけれど、わたくしはそんな風には思いません」


 ひっそりと仰ぐ小秋の瞳は暗い海底を連想させて、成葉を足から引きずり込んだ。


「ご覧の通り、わたくしという存在は初めから欠けているのですから。欠けていなければ、貴方と出会うことすらなかったはずですもの……」

「あなたは欠けてなんかいない」


 欠けていない。そう口にした途端、古いワインが空気に触れてみるみる酸化するように、言葉本来が持つ力がせた。小秋に対して、励ましは意味がなかった。彼女が欲しかったのは言葉なんかではなかったのだから。


「成葉様」

「……何ですか」

「帰りましょう。わたくしたち三人目の役者の劇はまだ終わっていませんわ」

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