最終章 雨籠もりの吸血嬢

81話

 “この眼の魅力から逃れることのできる者が、誰かいるだろうか。

 ……その唇は血潮に彩られ、微笑んでいる。”


 ──メリメ『吸血鬼』



 “かれらの血は雨の如く時の根元を流れる”


 ──A・スウィンバーン『美神頌』



 “彼の血は、見た目にも穏やかに流れるようであった。

 あぁ、罪に輝くことなく、つねに氷のごとく滑らかに

 血が流れるのならば、幸せであったろうに。”


 ──バイロン『ララ』



 始発までは時間があったので、成葉は出張の際に寝泊まりを許可されている社員寮の部屋で仮眠した。項垂れるような浅い眠りの最中、吸血鬼の女たちが夢に現れてくることはなかった。

 朝になる。課長に挨拶を済ませた後、駅へと移動した。その間にも青年の頭上からは強い雨が降っていた。すれ違う外套姿の傘士たちが会釈もせずに睨んできて、成葉は訝しんだが、それはブランデル社の装備をしているからだと気づく。

 その拍子に、平日に無断で遠出している状況に現実感が湧いてきた。今から最速で戻っても遅刻は免れないと分かって頭痛がしてくる。以前、小秋との交流にかまけて仕事を疎かにし、周りに迷惑をかけていた時期があった。今日もあの時に近いことになるのだと思うと、これから帰るはずの会社に居場所を見つけ出せなくなった。しかも今日の午前中に、血液の品質確認のための健康診断があったと思い出す。前夜に飲んだ一本のビールが悪い結果をもたらすかもしれないと想像して、余計に戦々恐々とした。

 どうにかして会社を休みたいと成葉は久しぶりに願った。それから独りになりたかった。小秋の屋敷ではなく、元あった厳粛な傘士の生活をなぞるようにブランデル社の寮に帰りたかった。だが、会社にはどう説明すれば丸く収まるのか判然としなかった。体調不良だと言えば、津吹から話が伝わり、小秋が寮まで見舞いにやってくるに違いない。

 身の振り方は決まっていなかったが、ひとまず愛知県には戻らなければならないのは確かだった。

 券売機に近づいたところで、成葉の腕は真横から誰かに触られた。細くて柔らかく、しかし狙いをすましたものは逃がさずに絡めとる、艶めかしい指たちの感触には覚えがあった。


「……小秋さん、どうされたのですか?このような所にいらっしゃるなんて」


 愛想笑いも作れずに、成葉は疲れ切った顔を小秋に向けた。

 駅構内の券売機周辺はまばらに人がいる程度で、吸血鬼用の白いロングドレスを見事に着こなしている少女の存在感には奇妙なものがあった。彼女の傍らには津吹家の使用人と思わしきスーツ姿の男女が数人いる。

 小秋は、喉の奥に飲み込めないものが引っかかっているように気難しい表情だった。小秋が人前で不服そうな感情を露わにするのは稀である。怪訝な印象を隠そうともしない青の双眸にいさめられた成葉は、顔つきを改めて、頭を下げた。


「突然出ていくなり、今までご連絡も差し上げず……ご心配をおかけしてしまいました。大変申し訳ございません」

「お顔を上げて。成葉様」


 言われた通りにすると、暗い海底を描いたような青い瞳が近くにあった。水に呑まれて溺れる、フラッシュバックに似た感覚が一瞬だけ走り、成葉は肩をこわばらせた。

 小秋は表情ひとつ変えずに、青年の頬に優しく手を当てる。その手で彼の首から肩にかけて撫でた。小秋の手は冷たかった。


「お父様や会社の方にはわたくしから話をつけておきましたから、ご安心ください。本日、貴方はお休みの扱いにさせていただきましたよ」

「そこまでされなくても……私は今から会社に戻りますので」

「あら、本当に戻るおつもりでしたの?ここで券を買うか否か、可愛いらしいほど悩んでいらっしゃったではありませんか」


 図星をつかれて押し黙った。

 小秋は得意げに口の端を僅かに上げる。さきほどまでの不機嫌な仏頂面が消えて、次第に笑みの方が勝ってくる。


「それに、今の貴方からはお酒の匂いがしますわ……今日は何があっても出勤はできないのでしょう?」


 また無言でいる成葉の手首に、小秋の指がそっと這った。吸血鬼の彼女が吸血を持ちかける暗黙の合図だった。蕩けた微笑みに吸い込まれそうになって、成葉は自制心をはたらかせる。血を吸われたい、という忘れていた欲求がまざまざと身体の奥から湧いてきた。


「出張期間中、吸血しない約束では」

「何をおっしゃっているんですの?そんなのはもう終わりですよ」

「終わりって……」

「貴方が気がついた時点で出張は打ち切られるようになっていたのです。もうレッヒェ社には貴方の居場所はございませんわ」


 成葉はすかさず携帯端末を取り出した。数時間前に別れた、おじちゃん──課長に電話するが、先方からは着信拒否になっていた。

 目を見開く成葉を眺め、小秋は愉快そうに微笑んだ。


「制服の返却には後日、家の者を向かわせます」と小秋は言うと、オペラグローブに包まれた細い腕を成葉の腕に組ませた。


「でも、このまま愛知の方に帰るのも芸がありませんね。わたくしと小旅行でもしましょう」

「……お断りします」

「理由をお訊ねしても?」

「独りになりたいのです。“人が独りでいるのはよくない”と言いますが、今だけは私を放っておいてください」


 小秋はそれを聞くなり表情を歪めた。


「昨晩、雨の中で独りにされた女が貴方の隣にいるのに……それでもですか」

「恨み言なら屋敷の天井にでも彫ればよろしいかと」

「まあ、随分と喧嘩腰ですこと。成葉様、怒っていらっしゃるんですのね」

「それは小秋さんの方じゃないですか?」

「分かっているのなら口にしないでくださいな」

「いえ、今の私にはどうでもいいことです」


 成葉は胸元に付いているホワイトペリカンのバッジを外した。イヤホンも外し、リストバンド型の社員証も同様に身体から離す。


「今日から私は自由にさせていただきます。出張が終わるのは構いませんが、それならあなたとの同居の約束も終わりです……私はもう屋敷には帰りません」

「これからはどうされるんですの?」

「小秋さんには関係ありません」


 小秋の腕を払い、その場から立ち去ろうとするが、背後から肩を強い力で掴まれた。そちらを振り向こうにも、頭を鷲掴みにされて、小秋の方を見るよう強制された。おそらく使用人の一人が最初から成葉の後ろに立っていたのだ。


「逃がしてはくれないわけですね」


 捕らわれた成葉は嘲笑混じりにため息をついた。小秋は視線を落とし、首を横に振る。揺れる顎先は弱々しい。


「今の成葉様を独りにさせてしまうと、なんだか良くない事態になりそうで怖いのですわ。ご自身で想像されているよりも、貴方は衝動的で感情的な人ですから」

「今の言葉、そっくりそのままお返ししますよ」

「あら、そうしますと、やっぱりわたくしたちは似た者同士ですのね。嬉しい」

「笑えない冗談はやめてください。私と小秋さんは真反対です。私はあなたほど色恋にそう情熱を燃やせません。仮に私が金持ちでも、好意を寄せる人間一人を囲うためにこうも手の込んだ真似は絶対にできません」

「いいえ。成葉様だって、とても情熱深い方ですわ。初恋の女の娘に、その人と同じ義足を作って渡すぐらいには。わたくしが鬱屈とした傘士であっても、そんな馬鹿げた事はしようとも思いませんもの」


 二人は努めて丁寧な口調を保ってはいたが、それは周りにいた使用人たちが心配するほど、互いに棘と敵意を剥き出しにした会話だった。睨み合う最中、傘士と吸血鬼はそれぞれ自分の子供時代に思いを馳せていた。

 少年は、津吹夫妻の娘に嫉妬心を抱いていた。日常的に夫妻を独占し、正真正銘、彼らの血を継いだ本物の娘を相手に。

 少女もまた、部外者であるはずの少年に嫉妬の念を燃やしていた。血の繋がりがないのにも関わらず、夫妻の会話の中で自慢の息子として扱われていた彼に対して。

 雨と血と足。複雑に絡み合ったそれらの因縁が、二人の仲を簡単には解けないほど強固なものにしていた。


「二人っきりにしてくれませんか」


 小秋がそっと声を抑えて言った。津吹家の使用人たちは顔を見合せ、戸惑ったものの、小秋の命令に従って離れた。成葉を拘束していた男も彼らに続いて去って行く。


「これ以上、貴方と敵対していても仕方がありませんわ。ここはお互いに頭を冷やしましょう……」

「同意です」

「そうでしょう?ですから帰り道の京都に止まって、辺りを一緒に散策してみるのはいかがでしょうか。きっと良い気晴らしになりますわ」

「……さっきまでの私の話はどこに行ったのです?独りにしてほしいのですけど」

「わたくしはこれ以上、独りでいたくはありませんわ」


 小秋は笑顔を見せた。それは恋する少女の穏やかな笑みでもあり、同時に獲物を狙う吸血鬼の酷薄な笑顔でもあった。


「使用人もついていない、独りぼっちのわたくしを帰すほど、成葉様は薄情な人ではありませんよね?貴方は真面目な傘士さんなんですもの」


 よく見ると、周辺に使用人たちはいなかった。彼らは少し離れたのではなく、本当に帰ったらしかった。ごとごとと新幹線車両が駅のホームに入ってくる音が上から響いてくる。

 小秋は初めからこうする手筈だったのだろう。彼女の策略はいつも相手の弱い所や置かれた立場を突く。契約している客が輸血要員を付き添わせないまま、長距離移動するのは傘士の成葉には見過ごせないものだった。


「……卑怯な吸血鬼だ、あなたは」

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