80話

 課長は静かに全貌を語り始めた。

 成葉が任せられた新人は課長の娘であり、実は過去にブランデル社に在籍していた人間だった。この父娘は愛知県の出身で、母もそちらの人だという。しかし、三人の家庭が円満だったのはもう十八年も前になる。2000年の東海豪雨にて災害救助隊として現地に派遣された、当時自衛官だった父は、部下を死なせてしまったこと、被災した瘴雨患者への義肢制作や輸血といった直接的な支援が出来ない自分の立場に落胆して、現在の職にやりがいを感じられなくなった。彼はその後、転職して傘士になると言って息巻いた。経済的な安定を求める母は反発し、家庭はあっという間に分裂した。離婚後、娘の親権は愛知県に残る母の方に渡り、父は愛知県から逃げるようにして遠方の九州へ渡り、配血企業レッヒェ社に転職した。

 そして半年前──娘は傘士として働く父の姿に憧れて、母の反対を押し切り、愛知県のブランデル社に入って傘士になった。だが、その父への思いが止められずにレッヒェ社に転職したそうだ。

 現在の課長と新人は、周りからは父と娘の関係があるようには見えない。血の繋がった父娘が同じ職場にいることに由来する独特の距離感もあったが、それよりも大きいのは、離婚後ということで苗字が違う──家族を表す「名前」が異なるから、というだけの単純な理由だった。


「妻を助けに行くと言って、洪水に沈んだ道に飛び込む君の親父さんを止められなかったのは……この私だ」


 課長は、酒に酔っているとはとても思えないほど、冷静な諦観を含んだ言葉遣いだった。

 深夜、雨の中に隔絶された課長室は、懺悔室にしては酒臭かった。


「両親を亡くして身寄りのない子供の噂を耳にし、それが君だと分かったあの日、私は君のことを引き取ろうとしたんだ。君の親父さんが親戚との付き合いがないのは知っていたからね。だが、手続きを済ませるために数日ほど体育館に行けなかった間に、君は逃げ出していた。そして何の因果か偶然か……津吹に拾われた」

「支社長と……私の血縁上の父親に何の関係が?」

「津吹同様に、君の親父さんはあの施設の出身なんだよ。ついで言うと私もね。私たち三人は昔から交流があった」

「え?」


 間の抜けた声を出す成葉を見て、課長は微かに頬を緩めた。


「津吹グループが投資しているあの養護施設は、義肢装具士の資格を取るために必要な専門校の卒業まで子供たちの生活を保証してくれる。つまり施設にいる間──学生時代、だ」


 まさか自分の周りの三人の男がそこまで近しい仲だったとは流石に予想していなかったので、成葉は驚いた。


「本当なのですか、そのお話。私は父親の過去について何も知らないのです」

「あいつは君に対して隠していたんだろうな。後ろめたかったんだ、きっと」


 課長は目を伏せた。


「養護施設って、結局は親との仲に問題があったか、そうでもなければ縁が切れてしまった子供たちが行く着く場所だからね。あいつはそれをずっと根に持っていたんだ。笑顔の絶えない場にいても、目の奥はいつも寂しそうだった。親の愛情に飢えていた。だから結婚したというあいつの奥さんを初めて見た時──失礼かもしれないけど、ああやっぱりな……と思ったよ」

「どういうことです?」

「あいつの奥さんは、何があってもどっしり構えてるタイプの女性だった。まるで母親みたいな感じさ」


 ふう、と息をつき、課長は腰を上げた。彼はプラモデルが並ぶ棚の方に行き、そこにある物をいくつか意味もなく触りながら、成葉の方に振り向く。


「そのくせ、どこか奥さんもあいつに似ていた。あの夫婦はお互い、親に対するコンプレックスがあったんだろう……そう言ってしまえばそれまでの話ではあるが」


 父親は息子の名前と、それをつけた息子の母──自身の妻に対して憤りや不満を抱いていたことを成葉は思い出した。成葉の本名は、母の父に当たる男と同じ名前であるからだった。


「私の父親は……私の母親の父に嫉妬していたわけですね」


 口に出して、成葉はそれがまさしく自分の「名前嫌い」の源泉だと改めて知った。お父様、と呼んでくる小秋の顔が瞼の裏に鮮明に映された。冗談だと言われても無性に腹が立った。

 父親は普通の女が欲しかったのではなく、母親という存在になりうる女が欲しかったのだろう、と青年は推察した。それはまさに小秋という吸血鬼の母娘によって、雁字搦がんじがらめになっている自分自身の考えと非常に似通っていた。あれほど憎んだ父親と同じ道を歩いていると悟り、やるせなくなった。

 沈んでいく成葉の暗い思いを汲み取ったのか、課長は話題を変えるように咳をした。


「戦車は塹壕を越えるために作られたそうだね……。昔、津吹の奴が言っていたけど、吸血鬼には川を越えられないというルールがあるそうだ。それなのに、水に溺れて死ぬと吸血鬼になるという伝承もある。あれって、そういうことなんじゃないかな」


 成葉は課長の方に目をやった。課長はドイツ軍のIV号戦車を手にしていた。


「塹壕は川なんだ。それをもし越えて、他人の領域に侵入したら……その時点で彼らは人間ではなくなってしまう。吸血鬼という伝説は、他者を攻撃する人間の暴力性へのアンチテーゼや風刺なんだろうね」

「実際、吸血鬼に関する創作は宗教や人種をめぐる戦争が絶えなかったヨーロッパで成熟したみたいですね。まぁ、これはほとんどお嬢様からの受け売りですけど……」

「お嬢様か。懐かしい響きだね、津吹の奴も以前は──」


 課長はそこで喋るのを止めた。彼の視線はドイツ戦車から集合写真に向けられていた。成葉も立ち上がり、近寄ってそちらを見た。

 写真は古く、半ば色褪せていた。陸自の74式戦車を背にして、数十名の自衛官がカメラを見据えて立っている。迷彩服姿の男たちの中には、若かれし頃の父親たちの顔がある。


「課長さん、教えてくれませんか?津吹支社長との間に、あなたとどのような密約があるのか」

「話したらそれはもう密約じゃなくなるだろう」

「それでは何故、私との話し合いに応じてくれたのです?」

「私が話せる範囲のことを語っているうちに、君が気づけばそれでいいと思ったからだ。だが、君は津吹の思惑を察知していたみたいだし……今更、私から言うまでもないだろう」

「……転職の話は、仮に私が望んでも絶対に実施されないもの、要するに津吹支社長が用意したダミーだったと受け取っても?」


 課長は目を逸らし、頷いたと言えないこともない、曖昧な仕草をとった。


「あなたの娘さんがレッヒェ社まで転職されたのは本来は無関係のことだったのでしょう。しかし私がお嬢様から出されたなぞなぞを解いてしまい、更には西日本豪雨の被災地にこのレッヒェ社が重なった。そこで津吹支社長は、私に転職の話を持ちかけ、旧友のあなたに頼んで私を試すことにした。

 偶然は重なるもので、娘さんはお嬢様の友達である理学療法士の宇田さんと仲が良かった。当然、娘さんは本名も名乗らず突然訪れた不審な私のことを愚痴にし、宇田さんに告げ、彼女はお嬢様に告げる……。支社長とお嬢様は最初から共犯だったんですね?娘さんという部外者のせいで、不幸にもお嬢様に事態が発覚してしまった……という状況を作って、あなたたちは私を不利な状況に追い詰めたかった。概ねこういう背景でしょうか」


 成葉は喉の奥が乾いた。胸や腹の底が熱くなった。鼻の奥がつんとしてきた。とめどなく濡れてくる目尻を袖で拭い、背筋を伸ばして、真っ直ぐに課長に見つめた。


「言わばこれは、津吹家が傘士の忠誠心を試す試験ですか。ブランデル社に残留するならそれで良し、そうでなくとも連れ戻す……」

「ある時、私たちは自分の道を選んだ」

「はい?」

「独り言だ」


 課長はわざとらしく大きな声で言い、背を向けた。


「歳をとると、どうも独り言が増えて敵わない」


 成葉は課長の真意に気づき、閉口した。


「両親を亡くした私とあの二人は、施設に拾われて出会った。生い立ちや、血液型がRh陰性マイナスのB型という共通点を見つけて意気投合した。昔は全員、傘士なんて目指してはいなかった。皆、単純な男の子だった。新しい国産の戦車に憧れがあって、いつか皆であれに乗ろうと夢を馳せていた。戦車の中なら雨だって怖くないんだ、どこにだって行けるんだ……と」


 課長はゆっくりとデスクへ歩き、ミニチュアの74式戦車にそっと指を置いた。それは、瘴雨が日本で降り始めたのと同じ年に調達が始まった戦車だった。

 同年は、日本国内で売血の血液に由来する血液製品が全廃され、国土中の天候を観測する世界最大級の地域気象観測システム・アメダスの運用が始まった年でもある。


「しかしあの施設では、明らかに教育に恣意的な誘導があった。傘士以外の職業選択を阻むようなものが……。最もそれを強く受けるよう選ばれたのが、B型のRh陰性の血液型を持つ子供たちだった。当時の私たちもそれには薄々勘づいていた。

 そんな時、彼女と出会った。あの恐ろしくも美しい吸血鬼に。母親のいない私たちは、一瞬で彼女に心を奪われてしまった。彼女は傘士になるようにと微笑んできた。私たちは、久しく触れた母の優しさに戸惑いながら、施設での生活を送ることになった……」


 外の雨が強くなっている。勢いを増した雨は窓を洗い、すぐにでも部屋に侵食してきそうだった。

 母と自分を呑んだ水の群れに近い印象を覚えて、成葉の心臓の鼓動は早まった。


「彼女というのは──最初の小秋だ。一人目の小秋だ。瘴雨が降り始めて間もない頃、外の事情を知らない深窓の令嬢が雨に打たれて、足を失った瘴雨患者になった。この事態に焦った津吹家は、身内である彼女を救うために多額を投資してブランデル社を設立した。大きく育てた会社の中から、吸血鬼化した彼女に一生涯仕えて、血を与え、足を支える有望な人物を見つけることにした。彼ら津吹家が欲しかったのは、徹底して服従する人間だったんだろうな。そしてその人探し……いいや、婿探しと言った方が正しいか──それは無事に終わった。

 だが、彼女の娘が先天性の吸血鬼であることが分かり、もう一人必要になった……生贄だよ。あの施設では吸血鬼に仕える生贄を探していたんだ。当時の配血企業はまだ黎明期だったから、津吹グループの圧力にも負けじとマスコミもこぞって色んな探りを入れて、報道していた。私たちは外から流れてくるそういった大人たちの噂や話を取り入れながら、子供の想像力を活かして考えた……。もしかしたら津吹家は私たちと同じ血液型をした傘士が欲しいんじゃないか、という安直な結論に至った。子供ながらに馬鹿げてると思ったが、残念なことにそれは間違いではなく答えそのものだった」


 課長は、それまで独り言だと称して話していたのに、途端に成葉の方を見た。


「それ以降、雨から隠れて血を求める彼女が気にかかって仕方がなかった。当時はまだ吸血鬼という語句や創作物が規制されていなかったし、私たちも子供特有の偏見や恐怖感を持っていたから、そのうち裏で彼女を……雨籠あまごもりの吸血嬢きゅうけつじょうと呼ぶようになった」

「……」

「月日は流れ、私たちは高校を卒業した。施設が暗に強要してきたこともあって、三人とも専門校で義肢装具士の資格だけは取った。それから入隊した。既に成人だったし、精神的に独り立ちして、あの吸血鬼の女がいた時の記憶は過去のものにしようと全員で決めたんだ。だが……津吹だけは、そうはしなかった。数年後、彼は除隊する形で津吹家に引き戻さていった……二人目の小秋の生贄として。半ば自ら、もう半分は津吹家の圧力に色んな場所のお偉いさん方が屈したことで、彼は自衛隊を去った。

 津吹は幸福の名のもとに吸血鬼に喰われ続ける人生を進んだ。私と君の親父さんは俗世にて雨と泥の中で人間として歩く人生を進んだ。それがかつての私たちが取った選択だった」


 転職の件を勧めてきた時、津吹が話していたこととぴったり重なって、成葉は寒気がした。

 国家公務員となって国から身元を保証されれば津吹家が相手でも流石に平気なのではないか、という疑問に対して、津吹は「配属先次第で津吹グループの勢力圏に住まうので無駄」だと言っていた。あれはもしかして彼の実体験だったのではないか。


「津吹は、私や君の親父さんよりも母親のいないコンプレックスが遥かに酷くてね。君と同じ理由で、生前の母からもらった本名を嫌っていたよ。それだから、一人目の小秋から成葉という名前をもらい、私たちも彼をそう呼んでいた」


 津吹が「成葉」だった過去は聞いていたとはいえ、彼もまたオイディプスだったと再認識するのは、今の成葉にとっては苦痛でしかなかった。


「今度は二人目から三人目の小秋が産まれた。彼女もまた吸血鬼だった……。津吹家は再び絶対の忠誠を植え付けるに適した子供を探した。そこにはもちろん、君が知るように津吹も関わっている。あいつは昔の自分がそうされたように、今度は自分が娘の相手を血眼になって探してたんだ。皮肉なものだな……人は、自分が他人にされたことしか他人に対してやってやれないのかもしれん。時同じくして、東海豪雨で親を失い、B型のRh陰性の血液型を持つ君が現れた。津吹は君を施設で育て、傘士にするべく教育を施した。君は三人目の小秋のために選ばれた、三人目の成葉なんだ」

「課長さん」

「どうした?」

「あの時、あなたが私を拾ってくだされば、今はどうなっていたと思いますか」

「……どのみち、君の生い立ちは彼ら津吹家からすれば注目に値するものだった。津吹の奴は何をしてでも私から君を奪っただろうさ」

「だったら、もしもあの日……雨が降らなかったとしたら?」


 課長は沈黙し、俯いた。彼は成葉が退室するまで何も言わなかった。

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