79話

 レッヒェ社に到着した時には、とっくに日付が変わっていた。会社は静まり返っているが、正面玄関からの出入りはできた。まだ中に人が残っているらしい。

 雨音と闇に支配された廊下を歩く。義肢の制作部屋に近づいていくと、笑い声と微かな明かりの気配があった。部屋の扉を開く。強い酒の匂いが漂ってきて、成葉は顔をしかめた。室内では椅子に座り、缶や瓶、菓子類などが散乱する作業用のテーブルを囲んだ中年男たちがいた。笑い声を止ませた彼らの目は一様に驚いていた。


「……なんだ、成葉くんか。ブランデル社の格好してるから、びっくりしたじゃないか」


 酔っているのか赤い顔をした課長が腑抜けた口調で言った。他の数人の傘士も顔がほんのりと朱色に染まっている。

 成葉は嫌悪感を隠すことなく、彼らを見下ろした。


「ここで何をされているのですか、課長さん」

「なにって……飲み会だけど」

「職場で、ですか」

「この時間帯、雨が降ってると酒を提供する飲食店はどこも閉まってるだろ。愛知の方じゃなかったっけ?瘴雨対策条例とかなんとかいう、変な取り締まり──」

「配血企業の社員が職場でアルコール三昧ですか」


 その言い方が露骨に侮蔑的だったので、他の傘士が物言いたげに成葉を睨んだ。


「で、何の用かな?」と課長が訊いた。

「あなたにお話があります」


 課長は、気分を悪くしてそうだった部下たちへ宥めるように笑いかけ、無言で解散だと手を振った。ぞろぞろと部屋を出ていく彼らを尻目に、成葉は、その場に残った課長に詰め寄った。


「傘士が酒なんて飲んでいいのですか?自覚が足らないのではありませんか」

「やばいドラッグみたいに言うなよ」


 成葉のことは気にもかけず、課長は赤ら顔の額に飲み終えたばかりの冷たい缶を推し当てた。


「第一、担当してるお客さんへの輸血を済ませてる連中しか呼んでないよ。あと二ヶ月は採血しないんだし、飲んだって別に構わんだろ」


 何も言い返せずにいる成葉を見上げて、課長は新しい缶を開けた。


「ブランデル社はお堅いね。飲む?」

「遠慮します」

「ははは、そう言うなって。まぁ付き合えよ。飲酒のお説教をするためにここに来たんじゃないだろ?」


 成葉は黙って、差し出された三百五十ミリリットルの缶をじっと眺めた。二ヶ月毎の定期輸血に用いる血液袋よりも重い。彼からすれば、缶の中身は血液よりも汚れている液体としか思えなかった。


「お互いシラフで話しても嫌だし」

「ですが……」

「少しぐらいはいいだろ、ほら」

「……では、いただきます」


 課長からビールをもらう。成葉はそれを慎重に飲んだ。喉を滑り落ちていく苦い麦の味の冷たい液体。緊張し、動揺した。小秋の元から逃げ出した挙句、他所でなんてことをしてるのだろうと自分で自分が嫌になった。努めて理性的な態度で毒薬を飲んだソクラテスは立派だったのだと成葉は思った。


「美味いか」

「正直、よく分からないです」


 修道士を思わせる、潔癖主義的な生き方を強いられていた傘士人生にあって、彼が酒を飲んだのはこれが初めてだった。舌に芳醇な苦味が残り、呼吸の度に鼻を抜けていく。美味しくもなければまずくもない。

 少しずつ飲んで、ようやくビールを一本飲み終える。課長は頷き、示し合わせたように笑って肩を下げた。


「君が今日ここに来るとは夢にも思わなかったけど。嫌でも週末にこっちで仕事があるだろうからさ」

「それまで待てなかったので……」

「せっかちだな。誰に似たのか」


 課長は腰を上げる。彼は「片付けないとな」と呟きながらも、飲み会の残骸には手をつけずに部屋を出た。



 レッヒェ社の義肢装具課の課長室は、制作部屋の真上にあった。課長の後に続き、成葉もそこに入る。室内にある棚には戦車のプラモデルが所狭しと並んでおり、その近くの壁には、陸上自衛隊の耐雨装備を含めた制服一式と、整列した自衛官たちを写した大きな写真がかけられていた。どちらも時の流れを感じさせる古い物だった。

 部屋の最奥、窓を背にするデスクに腰掛けた課長は、成葉に来客用のソファを勧めた。


「こう見えても私はミリタリーファンでね」


 課長は苦笑し、デスク上の固定電話の脇に置かれたミニチュアの74式戦車を持ち上げた。


「西日本豪雨の災害救助の件で、自衛隊のお偉いさんがたまに来るんだが、そういう時にこの手の物があると色々と話がまとまりやすい──」

「それはあなたが単なる愛好家だからではなくだから……ですよね?」


 数秒ほど迷ったが成葉は続ける。


「おじちゃん」


 おずおずと課長を見た。水滴が這うばかりで、闇を切り取っただけの矩形くけいの窓は不出来な鏡となって、デスクにいる彼の広い背中を淡く反射している。沈痛の面持ちで無言を貫く彼に、成葉は苛立った。


「どうして……僕を見捨てたんですか?僕はあの避難所の体育館で、おじちゃんが戻ってくるのを独りで待っていたのに」


 壁にかけられた迷彩柄の制服を見た後、成葉はその視線を途切れることなく「おじちゃん」に戻した。酒の味が舌から霧散し、当時の彼からもらった菓子の味が蘇ってきた。

 長い沈黙の間、窓を打つ強い雨の音がテレビの砂嵐のように鈍く響いていた。課長は顔を上げる。


「本題は?」


 少年時代を思い返して感傷的になっていた気分は、まるで服についた雨粒だった。成葉はそれを払い、深呼吸した。少年としてではなく、傘士として振る舞うために。


「……転職の話です。あれは、最初からあってないのも同然だったんですよね?」

「そう思う根拠はなんだ」

「あの新人が元々はブランデル社に所属していた見習いの傘士で、しかもあなたの娘さんだったからです」


 成葉は胸ポケットに入っていた彼女の名刺を取り出した。


「お気づきにならなかったのですか。娘さんの発音には、三河みかわ弁のなまりが目立っています」


 児童養護施設にいる時から語学を叩き込まれてきた成葉は、耳にかなりの自信があった。加えて、彼が実親と住んでいたのは名古屋近辺の町だったので、自分たちの話し方とは微妙に異なる三河弁を他所の言葉として聞き分けるのは造作もないことだった。


「九州の言葉遣いはよく知らないのですが、それでも勤務中の娘さんの言葉遣いが周りと比べて浮いていることぐらい……この一ヶ月で察していました。当然、課長さんの微かな訛りにも」

「へぇ、方言か。証拠としては不十分に思えるが」

「他にもあります。共通の知人に、娘さんの話を聞きました」

「知人?誰のことだ」

「ブランデル社の気象観測課の人間です。彼らは天候を把握しながら、危険がある際は外回りをしている個々の社員に向けて注意喚起の無線を送るのが業務ですが……その知人は、私情で働くのが多い奴でして」


 それは、小秋と訪れた水族館にて予期せぬ瘴雨が降った際、成葉に真っ先に警告と共に冷やかしの無線を入れたのと同じ社員である。

 今回レッヒェ社に向かう前に、無線を入れて確認を取ったのはその人物だ。幸運にも彼は夜勤で会社に残っていた。彼以外にも確認を取る手立てはないわけではなかった。早い話、新人に直接訊ねればそれで済むだろう。だが、成葉は彼女との連絡手段がなかったばかりか、仕事中に雑談のひとつもせずに距離を置いていたので、仮に連絡が取れたとしても個人情報は教えてくれないかもしれなかった。また、新人の友人である宇田も候補にあったが、彼女は小秋の味方に回りそうだったので、津吹家と転職をめぐる事情を一切知らない人間に情報を提供してもらうのが最も得策だと成葉は判断した。事実、それは正解だった。


「そいつ、女性の傘士には必要以上にコンタクトを取るような奴なんです。意味は言わなくともお分かりかと思いますが……」


 課長は目を細くして、上半身を乗り出す。睨み上げられた成葉は身が縮む思いだった。


「半年前までブランデル社にいた娘さんに対して、仕事中に何度か私的に連絡を送っていたそうです。本人が自慢げに言ってました。可愛い傘士がいるから狙っていたと」

「それについては本当に初耳だな。その男、今ここに呼び出せるか?」

「連絡先をお渡しすることなら」


 成葉はメモ帳の紙を破ると、同僚の電話番号を書いて、名刺と共に背の低い来客用のテーブルに置いた。課長はデスクの席を立ち、成葉と向かい合わせのソファに座り直す。


「ただ、彼をかばうわけではありませんが……娘さんがわざわざブランデルからレッヒェに転職されたのはもっと別の理由で──」

「分かってる」

「そうでしたか。しかし、父親という立場ではやはり気になるものなのですか……自分の娘の男が」

「当たり前だ。娘の男になるということは、必然的に私の息子になることだからな。だが、もしもその男がろくでなしだったら、この手でぶっ殺してやりたいと思うのも父親のさがだよ」


 何故だか津吹の暗い顔が浮かんできたので、成葉はぎくりとした。


「……話を戻しますと、私はそのろくでなしから娘さんのことを聞き出したのです。娘さんの家族構成、それから転職先についてです」

「そうして私と娘の関係に気づいたわけか」

「ええ。これが決め手になりましたね」

「では、きっかけはなんだ?私とあの子の関係を怪しむ何かがなければ、予報士の男に事情を訊こうとは思わないはずだが」

「名前ですよ」


 成葉は、さきほど置いた二枚の紙たちをちらりと見る。


「娘さんは初日に駅まで迎えに来てくれたのですが、その時……彼女は私のことを本名ではなく愛称で呼びました。初対面で異性、しかも他社の人間に対して愛称でコンタクトを取る彼女の姿は些か不自然でした。私と彼女は所属する班が違ったので、ブランデル社での面識もなかったはずですし……そこが妙に引っかかって」


 話しながら、二年前、小秋の屋敷に初めて訪れた日のことを成葉は思い出していた。

 名刺に記載された「本名」を見ても、事前に津吹から聞いていたという助手の名前と合致しないと、小秋は成葉に対して困惑気味な演技をした。それは、過去にまったく接点のない初対面であることを来訪者の傘士の青年に装うための小秋の策略だった。だが、課長の娘──例の新人は小秋ほど器用な性格ではなかった。新人は父親から教えられた名前で青年に呼びかけたのだ。


「次に愛称を使って私を呼んだのは課長さんでした。他の方はまだ私の名刺と見比べたりして、愛称を使う理由を訊ねたり、躊躇していたのにも関わらず……。初日に迷いなく成葉と呼んだ二人だけが、同じ三河弁の話者とくれば怪しむのも無理はありません。案の定、探ってみればあなたたちは繋がっていました」


 繋がっていました、という言葉に成葉は嫌気がさした。私は誰とも繋がれない──。


「それだけではありません。課長さんが津吹支社長の学生時代の友人であること、その縁で今回の転職に関する話が私に来たこともヒントになりました。瘴雨が降るこのご時世、学生時代に親しい友人はそう簡単にはできません。オンライン出席での受講が難しい分野か、同郷の人間でもない限り」


 成葉の話を聞き終えた課長はしばらく黙り、ため息を吐いた。彼は壁にかけられた自衛官たちの集合写真を眺めていた。


「私は吸血鬼に噛まれたくはなかった。あいつとは……津吹とは、逆の道を歩いたんだ」

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