78話

 小秋はベッド上に座ったまま、白く瑞々みずみずしい生足を成葉に伸ばし、彼のももの上に着地させた。小秋の右足は実に綺麗な女性の足だった。

 何も言い出せずにいる成葉の腿に、形の良いかかとが食い込んでいく。


「お話になって?正直に。わたくしに隠し事なんて無駄ですよ」


 見上げる先に、月のようにある小秋の顔は不敵な笑みを浮かべている。

 ボランティアと偽った転職活動の件は打ち明けなくとも別にいいのでは。断固として知らないフリをすれば──と成葉は楽観的に考えた。だが、それを見透かしたのか小秋の踏み込む力が強まった。痛みが走る。


「もう一度だけ言って差しあげます。まだわたくしにお話していないことがありますよね?包み隠さず、今ここで言いなさい」


 小秋が事実ではなく、成葉本人の自白にこだわっているのは明らかだった。


「何のことでしょうか」


 咄嗟にそう返事した。彼は我ながら悪あがきだとも思ったが、津吹との約束だったので話すわけにはいなかった。小秋は無言で足を離し、床に指を下ろした。五本の指先はバレエの所作に劣らず整っている。小秋の足の熱が身体から離れて、成葉はまたもどかしさに襲われた。それは雨に打たれて風邪をひいた時みたいなひどい寒さだった。数分が過ぎた。その間にも凍てつく寒さが雨音と共に青年の身体から熱を奪い、着実に衰弱させていった。

 小秋は、ふふ、と短く微笑んだ。


「痛みなんかよりも寂しさの方が貴方にはお辛いでしょう?おあずけ……ですよ」


 生足を眺めていた成葉は、頭上から小秋が囁く笑い声を浴びた。屈辱には慣れていたので何も言い返さなかった。しかし、音もなく小秋の足がベッドにゆっくりと戻っていく光景を目にすると、傘士としての決心はいとも容易く崩れ去り、彼は耐えきれずに「待ってください」と発した。

 客の断りもなく勝手に足に触れたのはそれが初めてだった。成葉は両手で、小秋の足首とふくらはぎをそれぞれ掴んでいた。彼は一瞬、自分が何をしているのか分からなかったが、理解しても退かなかった。


「あら、成葉様ったら……一体何をされるんですの?」


 口ぶりほど小秋は驚いても焦ってもいなかった。むしろ青年のその行動を待ちかねていたらしく、彼女の足は床に座る青年の腿の上に再び下ろされた。

 安堵した成葉は、小秋の足全体をきつく抱きしめた。柔らかく肉付きの良い彼女の足は、紛れもなく幼い頃に彼が恋焦がれた母の足だった。膝やすねの至る所に接吻し、その皮膚と均等な筋肉の弾力を味わった。時にはむしゃぶり、見えない骨の輪郭を舐めて噛んだ。自分から離れていかないよう、愛情を持って頬ずりし、激しく愛撫した。そうせずにはいられなかった。しばらく経って落ち着いた後も、足の熱を失いたくなくて、彼は捨て犬を思わせる面持ちで小秋を仰いだ。小秋の表情は、そのようなことがあったばかりとは想像できないほど穏やかで明るいものだった。


「わたくしの足でよろしければ、お好きにされても結構ですわ」

「本当ですか」

「“あなたがわたしのすべてだもの。だからわたしがあなたのすべてになってあげる。わたしがあなたの家族になり、祖国になってあげる。あなたを大切にします、いつまでも愛してますから”……」

「でも……」

「わたくしはいつだって貴方の味方なのですから、不安なことなんて一切ございません。ね?いいでしょう?」


 最後の理性を振り絞って、部屋から逃げようかと迷った成葉だったが、足の魅力には勝てずにとうとう頷いた。それを見た小秋はうっとりと笑った。恍惚とした彼女の笑顔の中に、伝説上の恐ろしい吸血鬼を思わせるほどの残忍な色があったことを見抜いていても、成葉はもはや小秋という女に抗えなかった。それが悔しくて仕方がない一方で、小秋を前にすると何もかもがどうでもよくなってしまった。


「可愛い人……」と小秋は呟き、彼の頭を手でそっと撫でた。


「男の人同士の約束なんて女一人の存在であっけなく終わってしまうものですね。神様に誓おうが、自分の名誉や名前に誓おうが……古今東西、そこに変わりはありませんわ。至極当然な真実です」


 ──名前。また、これに邪魔されるのか。


 俯きがちに、成葉はひっそりとため息をこぼした。

 結果的には小秋が言った通り、男同士の約束は女一人で粉々になった。

 高田の流儀では「ワケあり」な事は他言しないよう計らってくれそうなものだったが、彼はそうしなかった。友人であるという例の新人との連絡を通じて、成葉の出張を怪しんだ宇田に問い詰められた高田は、制服の入った包みを見せてしまった。結婚を控えた恋人とのトラブルの芽を摘むためなら、友人のことなんてどうでもいいらしい。恋人との仲に一片の傷をつけないため、もっと言えばどちらかの名前が変わる程度の瑣末さまつな行事のためだけに、自分は約束を反故にされたのだと思うと成葉の中で不満がふつふつと湧いた。やはり名前は人間それ自身を縛るのだろうか。


 ──名前?


 思わず顔を上げた。さきほどまで考えていたことがこの時になって急速にまとまり、整合性を帯びて輝き放ったのだ。

 例のスフィンクスの足のなぞなぞには、腫れた「足」というオイディプスの「名前」に通じる言葉遊びが施されていた。オイディプスはそれに気づいて謎を解き明かした。傘士である成葉は、足は雨傘を指しているのだと解釈し、配血企業に所属する義肢装具士がどうして傘士という命名をされるに至ったのか、その経緯を逆算して──つまりオイディプスと同様に「足に関する名前」を通じて答えにたどり着いた。

 この謎解きに最重要だったヒントをくれたのはポリドリだった。白衣についたネームプレートを自慢っぽく叩く彼の爪音が木霊した。

 名前を表す物。

 それは過去の因縁と、対人関係の多い職種に就く成葉には馴染み深いものだった。最も関連付けられたのは名刺だった。日々、嫌いな本名を記載したそれを渡す他なかった。屋敷の玄関で小秋と初めて会った際も。一方で、最近彼がもらう物もあった。レッヒェの新人が気を利かせずに雨の下で差し出そうとした名刺……。


 ──


「何をそう迷っていらっしゃるのです?わたくし、話を聞いても怒らないとお約束しますから……いい加減、その重たいお口を開いてくれませんか」


 小秋が満面の笑みで成葉を見下ろし、悪行をはたらいた子供をやんわりと叱るかのように諭していた。成葉はそれには反応せず、おそるおそる小秋の足を離して立ち上がった。


「違う」


 寒さで震えたが、それは彼女の足から離れたのが原因ではなかった。


「え?どうしたのですか?」

「未だに話してないのは、決して私じゃない……そうだ。そっちの方じゃないか」


 怒気を含ませたつもりだったが、声は萎んで震えていた。自身の怯えように、成葉は不安になって何歩か後ずさりする。

 小秋は柳眉りゅうびをひそめた。


「本当にどうされたんですの?」と再度訊ねようとしたところで、小秋は青年が事の真相に気づいたと悟り、表情を殺して閉口した。

 自信に満ちた小秋の笑みに、強風で流されてきた雨雲のようなかげりが、ばっと差した。それは今にも降り出しそうだった。義足をつけていない彼女はベッドから立ち上がれないことに落胆したのか、気弱に首を横に振った。


「──成葉様。いけません、駄目です。認めませんわ。お願い……こっちに戻って」


 部屋を出ようとする成葉に、小秋は哀願の眼差しを向けた。愛らしい媚態が彼女の瞬きすらも美しくさせていた。それでも彼は足を止めようとしなかった。目は互いに合っていた。山中で熊と対峙した時の模範解答のごとく、慎重に後ろに下がる彼の背に出入口の扉が当たった。


「お願いです、待ってください」

「断ります。用事ができてしまったので」

「嘘をつくのなら、せめてもっと上手についてください」

「用事ができたのは本当です。今から……確認に行かなくては」

「どちらに?」

「それはお伝えできません」


 小秋は言葉を失った。


「……貴方を相手に軽々しい言葉は使いたくはないのですけれど、一生のお願いです。せめて今夜だけでも、わたくしを貴方のお傍に置いてください。幻肢痛は今も多少残っているのです。本当なのです、どうか……」

「無理だ。もう信用できません」


 そうは言ったものの、成葉は後ろ手に掴んだドアノブをひねることはできなかった。

 ここで小秋の前から立ち去ってしまえば最後、こちらから会おうとしても彼女には再会できない気がしてならなかった。信用に値しないとしても、小秋が好きだった。彼女を嫌いになるには遅すぎた。否、それとも嫌いになれないよう津吹夫妻に育てられてきただけなのか。

 立ち去るか、留まるか──無慈悲な選択に疲れた。動機で息切れした。苦しくなって、成葉はドアにもたれて座り込んでしまった。小秋はベッドから彼を眺めている。彼女は心配そうなのに、心なしか甘ったるさのある表情で小さく手招きしている。


「一緒に寝ろ……とでもおっしゃるつもりで?小秋さん。どのみちそれは無理です」

「今夜のことを周りに広めて、貴方の立場をおとしめるような真似をするつもりはございません。お客様の意向に従うのが貴方たち傘士なのでしょう?」

「実際は今日のことにつけこんで、今後ずっと一緒に寝させるつもりなのでは?スケート後の雨の日、という瘴雨患者らしい言い訳が通用するのは状況的に今夜だけだ」

「つけこむだなんて……そんな気はありません。それに、遊びに行こうと誘ったのはわたくしではなくて成葉様だったではありませんか」


 小秋の言い分は事実だった。もし彼女にその気があるのなら、もっと計画的にスケートに誘ったはずだ。今回はあくまでも成葉が気まぐれで誘ったのだ。ただ、同居生活の中でいつか成葉から誘ってくると彼女が待ち構えていた可能性は大いにありうる。凄まじい疑心暗鬼に陥っていると青年は感じた。それも狙いなのではないかと疑うと、一層混乱した。


「ともかく確認には行きます」

「では、家の者に車を出すようわたくしが頼みましょうか?」

「結構です。車で行ける距離じゃない」

「……レッヒェ社に行くのですね」


 視線を落とす小秋を一瞥したが、成葉は何も言わなかった。彼は部屋を後にし、身支度を早々に済ませると屋敷を飛び出した。

 明日も平日だ。愛知県での、ブランデル社での通常の仕事があったが、今はそれもお構いなしだった。高田に預けている制服を回収する暇はないので、普段の装備で雨が降り注ぐ中、駅を目指して走った。道中、端末で会社に無線を入れた。夜中のこんな時間にも関わらず相手は会社に残っていた。

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