77話

 地下の飲食店で夕食を摂ると、雨の中を帰り、二人は屋敷に戻った。帰宅しても雨は銃弾のように地に注ぎ、風で斜めに荒れていた。

 室内にいる者を圧迫する低い雨。夜は水に閉ざされて、月の光すらも見えない。

 雨粒が波打つ窓から意識を離し、成葉はカーテンを戻す。ベッドに身体を預ける。彼は転職の件をしばらく考えていた。性急な流れになったことに違和感を覚えて、津吹や小秋の発言をさかのぼっていたのである。糸口はないか、と。

 雨。本。吸血鬼。血と足……。


 ──名前?


 何か閃きそうになったその時、ノックの音が思考と雨音を断つ。


「小秋さん?」


 ベッドから起きた成葉は、扉を開けて廊下の方に顔を出した。そこには裸足の小秋がいた。彼女は白いネグリジェ姿で、義足を露わにしている。


「何かありましたか」


 訪ねる青年に、小秋は俯いて首を振った。


「足が……痛むのです」


 ああ、と成葉は理解した。


「久しぶりのスケート靴が合わなかったのか、全身運動でソケット部と肌が過干渉してしまったのか……どちらにせよ、朝まで様子を見てますか。それでも治らなければ──」


 彼の言うことも聞かず、小秋はその胸に抱きついた。洗髪剤と女性の体臭が青年に飛びかかった。


「いいえ。これはスケートのものではありません……幻肢痛ですわ」

「そんな。それでは、どうしましょうか?」

「今夜は貴方のお傍に置いてください。わたくしを慰めてください、成葉様……」


 小秋がその場で脱力しそうになった。成葉は彼女の身体を抱える。額や頬に手を当てる。熱はない。それなのにひどく辛そうな面持ちだった。小秋が訴える足の痛みは本当らしい。成葉は慌てながらも、傘士の仕事の手順通りに行動した。ベッドに小秋を座らせて、彼女の義足を外し、左足の残り部分を解放させる。


「大丈夫ですか?何か飲み物を持ってきましょうか」

「今は要りません」


 小秋は力なく窓の方を見た。


「雨の日は時々痛くなるのです……この足」

「気候の変化で体調を崩されるのか、あるいは精神的なものでしょう」

「後者ですわ、きっと……。あの日もこんな雨でしたから。とても苦しくて、何度も泣いてしまったことを覚えています」

「あの日……」


 成葉は訊ねようと発したものをそこで止めた。小秋の言うあの日とは、彼女が左足を意図的に瘴雨に晒した日の事だろう。


「どうにも理解できません」


 思わずそう言っていた。小秋は痛みのせいで片目を瞑っているが、開けている方の目を上げた。ひとつの深い群青の海が、さっと成葉を呑んだ。


「何が……でしょうか?」

「小秋さんが左足と名前を捨てたのは、私に想いを寄せていたから──というのはなんとなく理解しています。ですが、何故……私に好意を寄せてくださっているのか。そこが今ひとつ、分からないのです」


 小秋は喘ぐように苦痛の声を上げた。彼女は成葉の質問には答えなかった。


「触って」

「え。何とおっしゃいました?」

「成葉様。お願いです、足に触れてください。摩って、わたくしの足からこの痛みを取り除いてください……!」


 それがあまりに苦痛な口調だったので、成葉は迷わずに小秋の左足に触れた。


「失礼します」


 切断部。医療用語では断端だんたんとも言う。瘴雨性微生物で壊死した部位を切断した後、切断部の傷口は脂肪で固めるので、ぷにぷにと薄い弾力で柔らかい。小秋のものも柔らかかった。

 子犬の頭を愛でる要領で撫でた。客の調子を窺いながら、その動作を延々と続ける。雨の勢いが落ち着くと、小秋の苦しそうだった表情も次第に和らいでいった。頃合を見計らって、成葉は動きを止めようとしたが、小秋に手首を掴まれた。


「今夜はもう休んだ方が良いかと。お部屋までお連れしますよ」


 諭すように語りかけても、小秋は手を離さず、ベッドからも動こうとしなかった。彼女は悄然しょうぜんとした瞳で哀願している。


「今夜だけでも……わたくしと一緒に、寝てくださいませんか?どうしても駄目ですの?貴方を引き留めるだけの魅力は、わたくしにはないのでしょうか?」


 泣き出しそうに細い声だった。女の弱さを旋律として奏でた言葉遣いに、成葉は胸を突かれた。苦しかった。今すぐにでも彼女を抱いてしまいたかったが、青年はこの瞬間にも傘士だった。渦巻く欲望を無理に抑え込んだ。男としては死にそうなほどの息苦しさの中で、彼は無謀にも理性で吸血鬼に立ち向かった。


「立ち上がれないのなら、私が勝手にお連れします」


 小秋の身体に手を回すと、ベッドから彼女を浮かして抱えた。お姫様抱っこの体勢だ。廊下まで軽々と運ばれてしまい、小秋は驚いた表情をした後、無表情に目を細めた。感情を汲み取れない彼女の顔つきは、照れているのか悲しんでいるのかさえ明かそうとはしない。


「重たくはありませんの?」


 廊下を進む最中、小秋は観念した様子で、青年の首の後ろに手を回した。成葉は小秋の身体を腕の中で持ち直す。彼は曖昧に「ええ」とだけ返事した。

 吸血鬼の少女は足一本がないため、その分だけ軽い。だがそれは同時に、足一本分のケアが必要という意味での別の重みを伴った。少女は軽くて重かった。その特殊な重みをものともしないのが傘士であるが、この時の成葉には重たく感じた。それは小秋自身の、彼女自身の心が持つ痛みの質量であった。

 両足に幻肢痛を患うオイディプスである青年にはそれがひどく堪えたが、小秋を投げ出したくはなかった。

 小秋の部屋に着く。ベッドに小秋の身体が沈むが、当の彼女は未だに成葉の首から手を離そうとはしなかった。逆に身体を引っ張られて、上から小秋を覆う形になる。ふたつの膨らみが甘い呼吸と共に浅く上下している。服さえ剥いでしまえば、彼女のしなやかな白い肢体がそこにあるはずだった。青年は目のやり場に困って顔を背けた。


「お父様」


 数秒の沈黙を挟み、小秋が言った。ぎょっとした成葉は彼女の顔を覗き込んだ。小秋は一筋の涙を流していたが、想い人の戸惑う視線を予期していたように愉しげに微笑んでいる。牙が見える。少女には似つかわしくない、とうたけた嬌笑だった。


「大好きですわ。わたくしのお父様」


 身体を強く抱きしめて、小秋は甘い声でそう呼んだ。成葉の中で禍々しいほどの嫉妬心が火を噴いた。海の上に炎が現れるような強さだった。


「私は成葉です。支社長ではありません」

「その名前も元々はお父様の呼び名ですわ」

「だとしても、あなたにお父様と呼ばれる筋合いはないです」

「今の言葉、そっくりそのまま貴方にお返ししますわ。わたくしをお母様に仕立てあげたのはどこのどなたでした?」


 心臓で槍で刺されたように、成葉はくぐもった声を上げた。立ち去ることも反論することもできず、ただ小秋の言葉に自分のこれまでの行動を否定された。彼女に憎らしい感情を抱く権利はない、と彼は分かっていたが、この時はあの夢の中でそうしたように、眼下の吸血鬼を叩いてしまいたかった。そうさせたのはあんただろう──。


「……言い過ぎてしまいましたね。ご無礼をお許しください。心配されずとも、さきほどのは冗談ですよ。今のわたくしには貴方しか見えていませんもの。それに、わたくしは貴方のためなら、お母様にでも他の何者にでも変身してみせますわ」


 小秋は抱きしめていた青年の身体から微かに退くと、胸を隆起させて息を吸い込んだ。


「“あなたさえ、おさしつかえがなければ、わたしはあなたの隣人にもなり、看護婦にもなり、家政婦にもなります”」


 ふっと、顔つきを戻した小秋は優しい調子で語った。普段、引用を口にする際に話し方を僅かに変えるのと同じ言葉遣いだった。失明して自暴自棄になっているロチェスターを口説くジェーンの台詞だ。


「“あなたに本を読んであげたり、散歩のお供をしたり、あなたのおそばにすわったり、あなたのお世話をしたり、あなたの目となり手となりますわ”」


「私は盲目ではありません」と成葉は否定した。だが、彼の頬にはとめどなく涙が伝っていて、雨のように小秋に落ちていく。小秋は慈愛のこもった顔つきで雨を受け止めていた。


「お母様のことが恋しくて仕方ないのでしょう?大丈夫ですよ。貴方の望むこと、わたくしは全て知っていますから」

「だからって……こんなの」

「はい?」

「こんなの、普通じゃありませんよ。好意を向けてもらうために自分の足を駄目にするだなんて……普通じゃない」


 小秋の顔を濡らした涙を指でなぞって拭う。白い顔は人形に似て、儚げで美しい。それに触れるべくまた指を動かす。そうしているうちに腕の力が抜けて、小秋との距離が縮まっていく。成葉の足は既に部屋の床にはなく、ベッドの上にあった。


「普通の恋愛の方がお好き?」と小秋は苦笑する。


「どうしてわたくしが貴方のことをこうも恋慕しているのか、お分かりで?」


 成葉は目で分からないと伝えた。小秋はそれを読み取ったらしく、切り出す。


「お母様が亡くなって……わたくしは正直に言うと嬉しかったのです。もちろん、お母様のことはわたくしも愛していました。ですが、お父様をあれほど独占するんですもの……わたくし、お母様を憎らしく思っていることの方が多かったのですわ。お母様がいなくなって、これでようやくお父様がわたくしのことだけを見てくれるとばかり考えていましたの」


 小秋は疲れた顔つきで息を吐いた。


「……と言っても、その後もお父様はわたくしをあくまで娘として扱いました。昔のわたくしは酷く裏切られた気持ちになって、お父様に恋をするのはもう止めようと反省したのです」

「それで私の存在を思い出した……という事ですか」

「はい。立場は違えど、貴方も同じ心境を味わっていたのだと考えると……なんだか、似た者同士だと思ったのです。貴方を意識するようになったのはそういった理由ですよ。当然ですが、似た者同士ならば誰でも良かったわわけでもございません。直にお会いして、貴方の優しさに触れたことが一番の理由ですわ。たとえその優しさがわたくしに向けたものではなかったとしても、です」


 やがて耐えきれなくなったように顔を歪めて、小秋は涙をこぼした。


「お母様は欲張りですわ。結局、貴方も今日に至るまでお母様のことばかり想っていましたもの。お父様も、貴方も、いつまでも自分のものにしてしまうんです……あの人は、本物の吸血鬼なのですわ」


 成葉は沈黙した。吸血鬼の寝室が雨音に沈む。


「なんて……そのお母様の魅力を借りて、貴方に好意を抱いてもらおうとした卑怯なわたくしが言えるものではありませんね」


 小秋が視線を成葉の肩の後ろへと向けた。青年は後ろ──天井を仰いだ。そちらには以前にも小秋と共に見たフランス語の文字が彫られていたが、それにしては場所が違う。よく見ると文言はモンテーニュたちのものではなかった。目を凝らす。


「“病んで愛される秋よ お前は死ぬだろう ばら園に嵐が荒ぶころ 果樹園に雪がつもるころ”……これは」


 フランスの詩人であるアポリネールの詩だった。部屋のベッドから真上に位置する箇所に、その文字はあった。

 天井を見上げる姿勢で半身を反らしている成葉めがけて身体を起こした小秋は、正面から彼に抱きついた。


「お母様は色んな場所に、自分への戒めの文字を残していましたから」

「しかしあんな抜粋の仕方は──」

「わたくしも初めて見た時は困惑しました。本来の詩の良さを損ねているとも見えますね……もっともな意見ですわ。でも、生前のお母様の病状を切に訴えるものとしてはこの上なく最適です」


 瘴雨を直接浴びたのではなく、親からの譲りもの──先天性ゆえの吸血鬼。血を飲み、足を補いながらもその病の侵攻に打ち勝てなかった津吹夫人。台風で雨が降る季節に生まれて、紅葉で山々が血色に染まった季節に死んだ吸血鬼の女。

 この部屋に刻んだ意味とはなんだったのだろう。かつて同じ部屋で、成葉はその名前を吸血鬼の女から授かった。ここは今でこそ娘の小秋の寝室だが、昔は違った。来客用として長らく使われていなかった様子の部屋だった。それが意味するのはひとつだけだ。吸血鬼の女は漠然と死を悟りながらも、本当はもっと生きていたかったのだ。だから目につかない場所に未来の自分自身の真実としての文言を刻んだのではないか。

 彼女を想い、成葉は目の奥が熱くなった。


「母さん」


 意識せずに発していた。母さん、と繰り返すと、目は枯れない泉と化して涙を溢れさせる。外からは何も受け付けない盲目。それは斧を落としても金製にも銀製にも交換されない、よどんだだけの泉だった。

 小秋は壊れ物を扱う手つきで青年の涙を拭うと、頭や背中を撫でた。彼女こそ成葉が失くした女神だった。


「やめてください。私なんかに優しくしないでください」と成葉は嗚咽しながら言う。小秋を振りほどこうにも、彼女からは固く抱擁されていた。


「弱い人には優しくしてあげたいのです」

「違います。弱い……のではないのですよ。私はただ最低の野郎なだけです。小秋さんがおっしゃったように、あなたをあの人として再現するために……あの足を作ってしまったのです。奥様がはめていた義足にそっくりな足を」

「ええ、分かっていましたわ。義足を貴方から頂いた時には既に」

「何故それを言ってくれなかったんですか?もっと早くに、小秋さんが私を問い詰めていれば……」

「いれば?どうなっていたのでしょうか?成葉様」

「問い詰めていれば……私は、そのことを潔く謝って、それっきり屋敷に通うこともしませんでした。それで……それで全て良かったかもしれないのに」


 青年は呻いて切実に訴えかけたが、吸血鬼の少女は下唇を噛んだのにも似た表情で視線を落としていた。


「良くなんかありませんわ。貴方がいなくなっては、わたくしが片足を失くした意味がまるで無くなってしまうではありませんか。それに、貴方が今こうしてここで義足のこと、お母様のことをわたくしに認めてくださった──わたくしにとってはそれが何よりも肝心だったのですから……もういいのです。どうか必要以上にご自分を責めないでくださいませ」

「無理ですよ」


 ため息の度に、涙の水滴たちが傘を震わせたように塊になって落ちた。


「僕の人生、昔からこんなことばかりです。何かを得ようと思えば、いつの間にか指の隙間から逃げていく」

「間違った認識をされていらっしゃるのですね。今の貴方にはわたくしがいるではありませんか」


 小秋は、涙で濡れた成葉の顔に触れた。次に自身の胸の前に。


「わたくしの愛情ならここにございます。お分かりでしょう?フランス語における心臓cœurという語には、様々な意味合いを含みますのよ。誠意、良心や勇気、それに思いやりなどの意味ですわ。なんて高邁こうまいで美しい言葉たちなのでしょうね。これらは、貴方の働き者のその素敵な手からは決して滑り落ちないものたちですよ。貴方がその血をわたくしの心臓に注いでくださる限り。その手でわたくしの足を守ってくださる限り……。津吹家の名にかけて、直々にお約束致しますわ」


 約束しますから、と小秋は続けて迫った。


「まだ……私にお話していないこと、今からここで全て白状してください」


 雨の空気が張り詰める感覚を覚えた。外からの熱がなくなる。小秋が自ら身体を離したのだった。つい今まで優しい抱擁を与えられていた成葉は当惑した。恐ろしくなった。孤独に苛まれた。青年は手を伸ばした。小秋に近くにいてほしかった。だが、成葉の手は強く払われた。


「そこで構いませんから……正座してください」


 小秋が指さしたのはカーペットが敷かれていない冷たいフローリングの床だった。


「さあ、お早く。夜が更けてしまいますわ」


 成葉は何も言わずに従った。足を折りたたんで、床に座った。

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