76話
混雑する名古屋の地下スケート場にて、成葉はこの世に産み落とされた小鹿のような足取りで氷上を動いていた。そのすぐ先を小秋が軽やかに滑って移動している。
二人はそれぞれ仕事と学校での日常を終えて、街へ遊びに出かけていた。だが二人揃ってのスケートは中々上手くいかなかった。成葉がまったくの未経験だったからだ。
青年の方を振り向く小秋の表情は、困惑の色を含む可憐な微笑だった。彼女の笑みの中には、奇妙な満足感があったことを成葉は見過ごさなかった。それは息子を育てる母親のようである。周囲で行き交う他の客たちの姿は雨の日の景色のようにぼやけ、小秋の立ち姿だけがくっきりと見えた。優しく彼を見守ってはいるが、しかし彼を自分の元からは離れさせようとはしない。今の小秋もそういう微笑みを浮かべていた。
「手先はあんなに器用でいらっしゃいますのに……足先は違うのですね」
小秋は呆れたように言った。
「貴方がまさかこうもスケートが苦手だとは思いもしませんでしたわ」
十歩分も移動すると転倒して片膝をついてしまう。転んだ成葉の元へ、小秋が近寄った。義足の上から装着可能な専用のスケート靴は、使用者のバランスを崩させなかった。彼女が出した手を掴んで、成葉はなんとか立ち上がる。
「難しいものですね」
「力みすぎなのですよ。もっと力を抜いて、自然体にいれば安定しますわ」
「やってみます」
情けなくなったが、成葉は根気よく滑る練習をした。その間にも小秋は隣にいるか、数メートルほど前か後ろで待機し、彼を楽しそうに眺めている。
「氷の上にあなたといるのは些か変な感じですね」
小秋が前に立っている時、成葉は彼女にそう言った。
「変とは、どこかでしょうか?」
「凍っていようと水だからですよ。吸血鬼の小秋さんが水の上に立っていらっしゃる。これは設定の無視では?」
小秋は肩を小刻みに震わせながらも、その可愛らしい笑い声を抑えた。
「吸血鬼のあれは流れる水の上──ですから。わたくしも平気なのですわ」
「では、こうしましょう。今この瞬間に、ここにある氷が全部溶けてしまって、それがかなりの水の量……人が溺れるようなものだったとしたらどうですか」
「貴方の制服もわたくしのドレスも台無しになってしまいますわ」
「真面目に答えてないでくださいよ」
成葉は笑った。小秋もつられて口角を上げる。
「そうですわね……。仮にそうなったとしても、成葉様がわたくしを助けてくだるのでしょう?」
「当然です」
そう答えた成葉だったが、僅かな氷上の凹みにつまずいて全身がぐらつき、バランスを崩しかけた。小秋は彼の腕を掴むなり自分のそれと組ませて、安定させるべく密着した。青年は不本意ながらも少女に救われた。
「あれですよ。小秋さんをお助ける云々のさきほどの話は氷の上ではない前提ですので。いえ、小秋さんが転倒しそうになったら、それはもちろん助けるつもりですが……」
恥を隠したくて成葉は色々言ったが、小秋は気にしていないどころか、むしろ愉しそうだった。
「氷の上では成葉様も頼りないのですね。わたくしがお傍にいないと、立つことすらもままならないみたいで、ふふ……」
「何です?」
「可愛い」
「……そうですか」
「目を逸らさなくても良いではありませんか。成葉様は可愛いと言われるのが苦手なんですの?」
息が当たるぐらいに顔を寄せ、小秋はその吸血鬼らしい青い瞳でもって青年に訊ねた。
「私に聞かなくても分かっているでしょう、小秋さんなら」
「買いかぶらないでくださいな。わたくしにだって分からないことぐらい、ひとつやふたつありますわ」
「他のはどういうものなのですか、それって」
「どうすれば貴方がわたくしから逃げられないようになるか……とか」
冷たい空気を温めるような、小秋の甘い香りが青年の鼻をくすぐった。彼女は彼の耳元に薄くキスをした。
「二人三脚みたいですね」と唇を離す時に小秋が囁いた。
「二人三脚って、あの?最近の小説や本では削除されている……という話でしたね」
「ええ。嘆かわしいことです。足を減らしたとしても、人と人とは繋がれますのに」
成葉は自身の右足に触れている、小秋の義足に視線を下ろした。本来はそこにないはずである人工の足。
「……話を戻しますが、万が一、私が小秋さんを助けずに自分だけ助かろうとしたら……小秋さんはどうされるおつもりで?」
「水のお話?」
はい、と成葉が返す前に小秋は声を低くして続ける。
「もちろん、決まっているではありませんか。貴方を捕まえてわたくしが引きづりこんで差しあげますわ。真っ暗な水の底まで」
午後八時を過ぎ、客の大半が帰っても、二人はスケートを楽しんだ。多少ではあるが成葉の動きも改善されて、人が少なくなった氷上を悠々と滑った。補助がなくとも無理な動きさえしなければ、ひとまず移動できるようになった。歩くのとはまた違う、足を適切に使う喜びがそこにはあった。
醜態を晒さずに済むと安心しかけた成葉だが、隣で手を繋ぐ小秋は、無愛想につんとした眼差しだった。長い睫毛は退屈と憐憫を示すように傾いている。
「すみません……小秋さん、どうかされました?」
成葉は訊ねた。彼女はもっと自由に滑りたかったのだろうか。彼はそこで、同伴者である自分の練習に小秋を付き合わせてしまったことを謝った。小秋はそんな青年を横目に、硬かった表情を緩ませた。真っ白な彼女の頬は、全身運動とスケート場の冷たい空気のせいか仄かに赤く、皮を剥いだ桃のようだった。
「そうではありませんわ。ちょっぴりつまらなかったのは……なにも、成葉様のお相手をすることではないのです」
「では何をそう、お顔を曇らせていらっしゃるのです?」
「貴方が上達されるのが早かったことですわ。わたくしにとっては、それが非常につまらないのですよ」
「私が上手くなるのが……どういうことですか」
「言うまでもありませんわ。独り立ちと同じですもの。それが出来てしまっては、貴方はもうわたくしの元に留まってくださらないのではありませんか?」
両足にしがみついてきたあの時の小秋の赤い顔と、現在の彼女のそれにピントが合った。
昨夜に見た夢の記憶が出てきて、成葉は滑る速度を落とした。小秋も彼の手に引かれて止まった。塩湖のような氷の広場の中央で、二人は顔を見合せる。制服姿の傘士の青年と、瘴雨患者用に流行した古風なロングドレス姿の吸血鬼の少女。その組み合わせは一般的に見えるようで、それでいて絵画的な雰囲気を醸し出していた。まばらにいる客たちは、時折二人に視線をやった。
「わたくし……嫌ですからね。貴方が遠い所に行ってしまうのは」
「なんだか、世の中の母親のようなことをおっしゃられますね」
「そうかもしれませんね」
小秋は青年の片手を両手で包んだ。
「親は子どもに自立してほしいと建前として願う一方で、本当はそんなことを微塵も考えていないのです。これからも近くで、自分の子どもとして可愛い存在として……健やかに生きていて欲しいと思うものなのですよ」
「……それは、私には妙に怖いものに聞こえます」
「はい?」
「だってそういう考え方は、一種の独占欲ではありませんか」
小秋は間を空けて、「悪いものではありませんよ」とにこやかに返す。
「それとも成葉様は、自分の実のお母様がお好きではありませんの?」
「あんな母親」
反射的に唾棄して言っていた。成葉は口ごもり、目を伏せる。
幼い頃に見て触れて感じた、母親の足がよぎる。暗い台所で夕飯の準備をし、庭で洗濯物を干す際、重力に任された二本の肉の足。枕代わりになった冷たい足……。それらを上塗りするのは、吸血鬼の義足だった。
「私にとっての母親は……奥様です。あなたの母親で、支社長のご夫人の」
「存じております。ですから貴方は、わたくしにこの足を渡してくださったのでしょう?」
小秋はその場で一回転した。軽く氷が削れて彼女の軌跡が残る。軽やかな身のこなしに、白いドレスが優雅に揺れて綺麗だった。
「わたくし、貴方のためならお母様になって差しあげますわ。そのための足で、名前ですもの」
努めて淑女然とした口調だったが、それは九月の劇場にて『オイディプス王』の劇を鑑賞した直後、その義足で大きな足音を立てて、成葉に憤りを示した小秋の声と本質的には同じものだった。鋭利な敵意と熱い愛情、そのどちらかがどちらに勝るよう運命づけられ、決着がつかずに睨み合い、激しい濁流となった声。
足を捨て、名前を捨て、青年の想いを得るために生きてきた吸血鬼の少女が拒まれてしまったと悟った時の──あの悲痛な叫び。
「血を吸われたい……そんなお顔をしていますね」
小秋が唐突に言った。
「自ら望んで?いやいやまさか」
成葉は明るい調子でごまかしたが、小秋はぴくりとも反応しなかった。
「貴方は昔から悔しくて仕方なかったはずですわ。お父様という人間がいて、お父様のせいで自分がお母様に選ばれなかったということが。ねぇ、そうでしょう?だって貴方はオイディプスなのですから」
オイディプスのコンプレックス。かつて精神分析家が発見し、瘴雨によって抹消されたという──父親を愛しながらも憎み、母親を求める息子の衝動と不全感。
成葉は黙った。彼の沈黙を破るように、天候情報について地下の娯楽施設全体に放送が入った。外が見えないので分からなかったが、通常雨が土砂降りになっているようだった。
青年から離れ、数歩分の距離を滑ると、小秋はそこで止まった。スケート靴は素っ気ない人工的な外観で、彼女の足は両方とも義足に見えた。
「お母様との繋がり。傘士と吸血鬼としての繋がり……自分の作った足を献上したかったという、貴方が抱えていた足の願いはこの通り、たしかに叶いましたわ」
小秋は左手で義足を摩った。
「自分の血を吸って命を長らえてほしいという貴方の血の願いも。製剤でも、吸血でも……これまでに何度も貴方はその願いを叶えています」
小秋は足を摩る手を止めて、胸の前でもどかしそうに両手の指を絡ませた。その力は決して弱いものではなかった。
「……これ以上、わたくしに一体何が出来るのでしょう?まだご不満なのでしょうか」
「不満なんて……」
「ではどうして──」
小秋は言葉を切った。彼女が言わんとしていることは成葉にも分かった。
ではどうして、レッヒェ社に転職しようとしているのですか?
「ボランティアが終わるまで待てません」と小秋は言った。
「わたくし、せっかちなのです。もっと早く貴方の選択を知りたいのです。急かしたくはありませんが、これまでだって散々……貴方のことを待っていましたもの」
成葉の返事がないと分かると、小秋は声を大きくして
「分かりましたか?」
じゃあ、いつまでに──。その疑問を呑んで、成葉は弱々しく頷いた。
二人にとっての秋。秋は、彼女の死と生誕の日。小秋が求めた期限は、おそらくそれまでだった。残り二週間もなかった。
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