75話

 薄暗い外では雨が降っている。打ちつける雨粒は大きく、地上から熱を根こそぎ奪うほどの勢いだった。建物の中は雨音に満ち、濡れた窓ガラスは結露によって、曇り空のように灰色に染まっていた。

 児童養護施設の読書室。そこでは木製の椅子に腰かけた一人の吸血鬼の女が、没頭した様子で文庫本を読んでいる。本のタイトルは『オイディプス王』だった。

 女の片足は存在せず、義足をつけている。なんて美しいのだろうと青年は息を呑んだ。心の内で賛美の言葉をいくつも彼女へ捧げた。それだけでは足りないと彼は感じ、呼吸を止めて自分の心臓の音を彼女に重ねた。それは出血を伴わない、言うなればプラトニックな献血だった。

 部屋の出入口付近から、そのようにひどく厳かに吸血鬼の女を眺めていた青年だったが、次第にそれだけでは我慢できなくなった。欲求がたかぶった。手首を切って、若い身体の内から溢れ出す自己の生き血を彼女の口に押しやりたいという偏執的な衝動に駆られた。バッジはないだろうか。そこでようやく自分の身体に関心が向き、彼は手足の異変を察した。


 ──この格好は?


 室内なのに耐雨外套を着用していた。外套とバッジはブランデル社の物で、内側の営業用の制服はレッヒェ社の物だった。ふたつの会社の装備が混ざっているのだ。

 無線端末は途切れ途切れに雑音を流している。イヤホンは外れていた。青年の手が触れた瞬間、端末は甲高い電子音を爆発させた。


『瘴雨は、いつ、止むのでしょうか……』


 女性アナウンサーの声がしたと思うと、もう何も聞こえなくなっていた。

 その音を耳にして、吸血鬼の女は目を上げた。どこかもやのかかっているうれいげな瞳が、青年をまっすぐに見つめた。吸血鬼の女は微笑む。晴れた瞳ではなかったが、断じて悲しそうではなかった。

 良い天気という古い言い回しといい、雨は昔からネガティブなものとして扱われるが、青年はそれが気に食わなかった。雨の静かな雰囲気の方が彼女を美しくさせることをよく知っていたからである。


「成葉、お帰りなさい」


 吸血鬼の女の声に、青年は二回ほど素早く頷いた。


「ただいま。どうですか奥様?」

「……あら、随分と成長されたみたいですね」

「はい。今では私だって……立派な傘士です」

「あらあら、本当に?あんなに小さくて可愛らしかった男の子の貴方が?」

「そうです」


 青年は笑顔を絶やさずに、彼女がいる方へと歩いた。


「今から証明してみせますよ」


 ペリカン鳥のバッジを外套から外す。収納する刃を展開し、袖をまくった左手首に当てた。リストバンド型の社員証はブランデル社だった。青年は迷いなく手首を切った。血が雨のように木目の綺麗な床に滴り落る。吸いやすくするため、青年は更に傷口を開いたが、吸血鬼の女は優しい笑顔で傘士のそれを拒んだ。


「ごめんなさい。わたくし……あの人以外の血は吸わないことにしていますの」


 青年は怒りに震えて刃を落とした。彼女の首を掴んで、椅子から引きずり倒す。本が床に落ちる。きゃっ、と短い女の悲鳴が聞こえた。何故だか水たまりが傘で跳ねて、飛沫が吸血鬼にかかるイメージが頭の中に湧いた。それには構わずに、抵抗する彼女に馬乗りになる。その白い頬を平手で打った。


「吸え!吸えよ──僕の血を吸えっ!」


 何度も彼女の頬を打った。腕で顔を隠して守る彼女を怒号でおびやかしながら、血を吸えと青年は強要したが、彼女は頑なに拒んだ。怒りが頂点に達して、青年は拳を握りしめる。その手を振り上げた時、背中で聞き覚えのある足音が響いた。


「“船をひとつのいかりに繋げてはならないし、人生をひとつの希望に繋げてもならない”。貴方にはそう教えたはずでしたのに」


 後ろから耳元に声をかけられて、青年は尻目に声の主を見た。そちらには引きずり倒したはずの吸血鬼の女が立っていたのだ。しかし彼の身体の下には誰かがまだそこにいる。青年は驚きのあまり固まった。

 吸血鬼の女は有無を言わさず、青年の外套を剥がした。そこにあるレッヒェ社の制服を眺めて、出来の悪い子供を叱りつけた後の母親のように眉を下げる。青年の全身に寒気が走った。彼は裸でも見られたような反応で飛び退いた。


「……“そんなふうにあっちこっちするのは、心が病んでいることを示しています”。貴方、迷っていらっしゃるのでしょう?」


 義足の足音がひっそりと忍び寄ってきた。尻もちをついていた青年は逃げようとしたが、何かに足を掴まれて転んだ。彼の足を捕らえたのは、もうひとりの吸血鬼の──少女だった。女と同じ義足をつけた少女。青年に打擲ちょうちゃくされて真っ赤になった頬と、そことは不釣り合いに青く光る瞳。表情はほとんど死んでいるのに、口の端は悦びで緩んでいる少女は不気味だった。

 両足を少女に抱きつかれ、青年は床に伏せたまま立てなくなった。もがくと、床にある本の存在を悟った。本は『マクベス』だった。

 吸血鬼の女は屈み、青年の肩に触れた。レッヒェ社の制服の布地に細い指の腹たちが這う。


「わたくし……悲しいですわ。成葉はここに残ってくださらないの?わたくしたちの傍にいてくださらないの?」

「考えているのです。私に時間をくださいっ」


 恐怖を隠して発すると、それはもはや叫び声になっていた。

 二人の吸血鬼──小秋は艶めかしく笑った。その笑い声は冷たい秋雨となって、落ち葉のごとく乾いた青年の身体を泥みたいにふやけさせた。


「駄目ですよ」


 吸血鬼たちの声が重なった。母娘は淑やかに笑っている。


「そのような選択肢なんて、貴方には最初からありませんもの」


 

「──成葉様?起きてください。もう朝ですよ」


 その声と共に足を揺すられて、成葉は跳ねるように上半身を起こした。


「まあ……ふふ。びっくりしてしまいました?」


 驚いた様子の小秋は目を瞬かせ、首をかしげて微笑した。彼女はベッドに浅く腰かけて、布団の下で眠る青年の両足に触れていたらしい。

 ぼやける視力で辺りを見回す。成葉は息をついて、胸を手で抑えた。次いで手首を見るが血の一滴もない。夢か。彼は安堵した。

 カーテンからは朝の光が漏れている。現実は五回目の出張を終えた月曜だった。明るいが曇り空で、まばらに細かな雨が降っている。しばらく窓を眺めて、成葉は夢の内容を思い出す。明晰夢と呼べるほどの鮮明な情景。夢というよりは、一種の幻覚症状と表して差し支えないほどのものだった。それはふたつの会社を往復する二重生活の疲れが生んだのであろう、吸血鬼の「幻」だった。

 これまで何度かそういうことがあったが、夢の中に娘の方の小秋が出てくるのも、自分自身の年齢が少年ではなく青年であったのもこれが初めてだった。成葉はベッドから足を床に降ろして、汗の滲んだ額を手で拭う。


「今、何時ですか?」

「六時ですわ」


 平日勤務で、家を出る十分前の時間だった。

 やばい、と声に出して立ち上がる成葉のことを見て、小秋は満足そうに笑った。


「慌てなくても平気ですよ。今日は午前中、成葉様はお休みですから。違いました?」


 記憶をたどる。スケジュールを暗記した脳内のカレンダーをめくると、確かにこの日は半休を申請していた。冷や汗が引いた。成葉は再びベッドに腰を下ろす。


「じゃあこんな時間に起こさないでくださいよ……焦って損しました」

「うふふ、ごめんなさい。でも、朝食をご用意してしまいましたから」


 小秋は品のある佇まいを維持したまま立った。こ、と小さく義足が床を打つ。


「貴方の寝顔なら、今でなくともいつだって拝見できますもの。起きている貴方とお話したくて……」

「そうでしたか」


 最近は働き詰めで、屋敷にいる小秋の相手をあまりしていない。成葉は不服と眠気を一瞬のうちに忘れた。夢の中で、彼女の顔を打ったことがまざまざと思い出されてくる。やり場のない焦燥感に促され、成葉は部屋を出ていく小秋に続く。その背中に追いつき、手を握った。


「小秋さん、今日は何かご予定は?」

「学校がある他は特にありませんわ」

「そうですか。では今日の夕方、お時間は空いていますか?久しぶりにどこかに遊びにでも行きませんか」

「まあ、嬉しいご提案ですね」


 小秋はにこりと笑った。


 朝食を並べたリビングのテーブル席についても、小秋はその微笑みに浸っていた。紅茶を用意する彼女は、散々迷った挙句に苦笑いの表情を浮かべる。


「遊びに連れて行ってくださるのでしたら……わたくし、どうして行きたいところがひとつありますわ」

「どこでしょうか?」

「スケート……に行きたいのですけれど、駄目でしょうか?」


 以前に危険なスポーツとして断ったことがあったが、成葉は二つ返事で承諾した。それほどまでにあの夢の内容が心身に堪えていた。

 小秋は意外な解答を得たと言わんばかりに、青年へ目を輝かせる。


「ありがとうございます。成葉様」

「安全のために私が近くにいるのが前提ですが、それでも?」

「貴方と一緒に滑ってみたかったんですもの、それは交換条件にはなりません。わたくしにはかえって魅力的に映るだけですわ」


 小秋は過去にも、何度か家族でスケートをした経験があると言っていた。彼女の発言から鑑みるに、それは片足が義足であっても綺麗な思い出として保管されているらしい。

 紅茶をひと口飲むと、小秋は笑みを潜める。


「今日はいつにも増してお優しいのですね。何かありましたの?」

「少し反省しているのです。最近は休みの日でもないと、小秋さんとのまとまった時間が確保できていないと……思ったので」

「それならボランティアなんて断ってしまえば済む話ですのに」


 語調は微笑ましく明朗だったが、小秋は明らかに出張の件を揶揄していた。

 宇田の話では、小秋は既に成葉がはたらいてる嘘や不正を認知している。二人は互いにそれを切り出さないだけだった。

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