74話

 三回目の出張が終わり、十月に入ると、成葉は屋敷での生活に慣れていった。

 小秋の囁くような声で毎朝起こされ、洗顔と朝食を済ませてブランデル社の制服を着る。小秋の作った弁当を持たされて、家を出る。昼間は監視機構で行動を把握されていると感じつつも、仕事後の毎晩の帰宅時には優しい声で迎えられて安堵する。そして温かい夕食を二人で摂って、静かに眠りに落ちる。平日はざっとこのような感じで進み、土曜日の朝からは例の出張だ。現地ではレッヒェ社の制服を着て働く。基本的に休みはない。たまに取得できる半日の休暇の際は、小秋と二人っきりの茶会を開いて、のんびりとした時間を彼女と過ごした。

 今日も半日休暇だった。午前中のみ休み、午後から出勤のスケジュール。

 美味しい紅茶とマドレーヌが腹に収まり、穏やかな眠気が襲ってくる。成葉は、小秋の勧めで来客用の大きなソファ上で横になった。枕として足を差し出した小秋に礼を言って、彼女に頭を預ける。微睡みながらも、吸血鬼の少女の足の柔らかさに鼓動が早まった。


「ふふふ……可愛らしいお姿ですこと。成葉様は甘えん坊さんですのね」


 青年の頭を撫でながら、小秋はくすくすと小さく笑った。


「すみません」

「謝ることではありませんわ」

「ご迷惑をおかけしていると思うと、私は心苦しいのですが……」

「あら?わたくしはそんな風には考えていませんよ。貴方とここで暮らせているだけでも幸せなのですから」


 小秋は顔を近づけて、成葉の額に軽い接吻を降らせた。そのうち、我慢がきかなくなったように青年を上から覆って抱きしめた。小秋は足を伸ばす。ソファ上で二人が身を寄せ合って寝転がる形になる。青年は咄嗟に上半身を起こした。小秋と距離を取ろうするが、彼女の手にぐいっと襟を引っ張られ、またソファに導かれた。

 間髪入れずに唇同士が深く重ねられる。成葉が抵抗しなくなると、小秋は彼を抱きしめながらも唇を離し、艶っぽく微笑んだ。


「そう……わたくしは幸せなのです。成葉様もそうでしょう?今のままが幸福ですよね?」


 涙とは違った潤いが小秋の目にはあった。雨に湿った窓ガラスを連想させる彼女の双眸は、鏡のようなはたらきを有しており、成葉の心の底を彼自身に見せつけるかのようだった。

 実際のところ、成葉は、屋敷で一緒に暮らすという小秋の提案にかなり助けられていた。

 ブランデル社とレッヒェ社──ふたつの傘士の立場の往復は、当初想像していたよりも遥かにストレスの温床だったのだ。それぞれの職場で違う人間を相手にするばかりか、出張の二日間のラグで、目を離した案件がまったく違う仕様に変わっていることもあった。加えて現在のシーズンは配血業界は繁忙期の真っ只中だ。二回目が終わった時点で、早くも青年は心身ともにくたくたに疲れていた。

 小秋の細やかで献身的な助けがなければ、とっくに倒れていたに違いないと成葉は思った。しかし、そうして小秋に甘え続ける状況も考えものであるとも感じていた。もしレッヒェ社に転職するとなれば、自ずと小秋から逃げる道を選択することになる。このまま甘えていると、いざその時になって、彼女への未練を断ち切れないのではないだろうか。もっと自立して彼女との干渉は避けた方が良いのではないか……。頭ではそう分かっていても、小秋の母親のような包容力や優しさについすがってしまう。縋る度にもっと彼女を求める自分が確かに存在していたのが、成葉にはとても恐ろしかった。


「……幸せですよね?わたくしと一緒にいることが」


 二度目の問いかけは、低い声だった。

 身体を強ばらせた成葉は辛うじて頷く。彼のそれはぎくしゃくした動作だった。嘘ではなかったが、その幸福を本当に認めて良いものなのか、女とは無縁で育ってきた傘士の青年は判断がつかなかった。


「本当に?」


 青年の頷きを吟味するような口調で、小秋は詰め寄った。互いに息が当たる。


「私が信じられませんか」

「信じていますが、怪しいように映るのです。わたくしの目には……」

「それは信じていないのと同じでは?」


 成葉は平静を装って返した。


「そうではありませんわ」


 小秋はようやく身体を離し、ソファに座り直した。その深く澄んだ瞳で、横たわっている成葉をちらりと見下ろす。


「“女の心配と愛はつねに連れ添うもの。どちらもないか、あればどちらも極端に走ります。わたくしの愛がどんなに深いか、あなた様もよくご存知のはずでございます”……」



 午後からの出勤で、成葉はリハビリ施設に赴いた。以前にドイツ製の義肢の部品をブランデル社でも採用するか否か決める会合があったのだが、今回はその続きだった。

 会合が済んで会議室からは人が退く。成葉も荷物をまとめて社に戻ろうとしたが、乱暴に投げられてきた空のペットボトルがこめかみに当たった。飛んできた方向を見ると、宇田が憮然とした表情で立っていた。


「ゴミ箱だったら後ろにあるが」


 その言葉には耳を貸さず、宇田は苛立った様子でため息をつく。


「アンタさぁ……何を企んでるの?」

「何の話だ」

「レッヒェ社の制服を持って、週末にどこをほっつき歩いてるの──って話だけど」


 成葉は自身の作り笑いが顔から失せたと感じた。


「……高田から聞いたのか」

「厳密に言うと、アンタが教育している子がきっかけだけどね。あの子ね、私の友達なのよ」


 全く予期していない事態だった。成葉は荷物をまとめた鞄を握りしめた。


「本名じゃない珍しい愛称で、すごく冷たい態度の転職希望者の男だってね。人手不足でそいつが一時的に先輩になったっていうおかしな愚痴がきたから、まさかと思って……名前を聞いたらアンタだった。高田もなーんかこそこそしてると思って問い詰めたら、週末になるとアンタに荷物を渡してるときた。あいつから荷物をひったくって、中を見たらまぁびっくりしたってわけ」

「頼みがある」

「まだ何も言ってないけど」

「小秋さんには黙っててくれ。宇田、頼む。お願いだ」

「……アンタの事情なんか私は知らないけど」


 既にこのことは報告済みらしい。成葉は焦った。津吹が内密に用意してくれた逃げ道だったのに、もう崩壊してしまったとは──。


「小秋ちゃんから聞いたわよ。あの子が身の回りの世話をしてくれているんですってね。家のことを瘴雨患者の女の子に任せて……アンタは他所で転職活動?馬鹿じゃないの?」


 返す言葉もなかったが、宇田の言葉は無視した。


「私は今のままでいいのか分からない。ブランデル社にいて、ここにいて、私の人生が好転するのか分からずに……迷っている。それだけだ」

「だからって、何も言わずに黙って事を進めるものかしら?あんなに好いてくれる女の子を捨ててまでやることじゃないでしょうが」


 宇田の視線は軽蔑に満ちていた。


「転職すると決めたわけじゃない。それとも何か?私には別の人生を歩む選択肢すら用意されてないのか」

「ちょっと、何をそんなに怒ってんのよ。ただ私は、アンタが小秋ちゃんに対して無責任じゃないのかって話を──」

「無責任だって?あれは私と小秋さんの、津吹家の話で……お前には関係ないだろっ。そこに首を突っ込んで、安全な立場から説教を垂れ流す方がよっぽど無責任だと思うが」

「関係ないことないわよ。小秋ちゃんは私の友達なんだから」

「じゃあ尚更、話は早い。私みたいなクソッタレに構ってないで、もっとマシな男を捕まえるようにあの吸血鬼を説得しろよ」

「したわよ!したけど、でも、あの子……アンタじゃなきゃ嫌ってそればっかりなのよ」


 二人は黙った。嫌気で全身がむず痒くなって、成葉は舌打ちした。


「……なぁ宇田。小秋さんに、この件をもう話してしまったのか」

「言わないわけがないじゃない」


 確認のために聞いたのが馬鹿だったと、成葉はもう一度舌打ちする。


「いつ?」

「アンタが二回目の出張から帰ってきてすぐね」


 午前中の小秋の意味ありげな言動や素振りはそのためだったのか。成葉は奥歯を噛み締めた。しかし、レッヒェのことを聞きながらも、小秋は決してそれに関して問い詰めようとはしてこなかった。ただ、しきりに屋敷に留まることが幸福なのかどうか訊ねてきたりはしていたのだが。

 全てを承知しながらも、小秋はそれでもこちらを自由にさせてくれているのだと成葉は知った。小秋は寛大だったのだ。一方でそれは、特殊な生い立ちと苦悩を抱える青年が、ブランデル社に残留する未来を見透かした、女吸血鬼のある種の自信の裏返しにも受け取れた。彼女の態度は、母親を演じる自分から、青年が自立できるわけがないとでも言いたげに思える。成葉にはそのことが悔しくもあり、同時に、彼女が自分のことを隅々まで深く理解していて嬉しかった。


「……本当に転職するの?」


 成葉は曖昧に首を振った。


「しないといけないようにも思えるし、その逆の気持ちもある」

「あっそ。もしも転職するって決めたら、私アンタを一生見下すからね」

「別にお前に──」

「言っとくけど。小秋ちゃんだって同じよ。私と同じ気持ちよ、きっと」


 宇田はペットボトルを拾った。キャップの部分を握って、野球のバットのように持ち、それで成葉の腕を遠慮なく数回叩いた。


「自分のことを捨てた男なんてね、女にとっては敵でしかないの。女がそんな馬鹿をいつまでも好いてくれるだなんて都合のいいこと、絶対に考えないでよね」

「待ってくれよ。そこまであくどく考えてないが」

「嘘ね。顔に書いてあるわよ?転職しても、小秋ちゃんに会おうと思えば会えるだろっていう、あの子の好意に甘えてる怠けきった顔してる。むかつくわ、アンタのそういう態度」


 宇田の剣幕に凄まれて、成葉は反論できなかった。彼女は僅かに笑みを滲ませる。


「捨てといて、それ」


 ペットボトルを成葉に押しつけ、宇田は彼を横切っていく。彼女は扉を開くと、思い出しようにノックの音を立て、まだ部屋の中にいる青年の注意を引いた。


「何だよ」

「この件がすっきり終わるまで、アンタのことをマザコン野郎って呼ぶから」


 マザコン野郎──オイディプス。

 心では釈然としなかったが、理性では納得した。

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