73話

 一回目の出張の際、成葉はほとんど経験者としての扱いを受けていた。その点は問題なかったが、流石にそれはないだろうと彼が思ったのが、自分に新人の教育が任されたことだった。


「本日からご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致しますっ」


 溌剌はつらつと挨拶してくる傘士は、駅まで迎えに来た女性だった。成葉は思いっきり面食らった。

 レッヒェ社で成葉の歓迎も含めた朝礼が終わるなり「君の仕事はこの子の教育ね」と、義肢装具課の課長が伝えてきたのである。

 こちらの課長は太ってはいないが、熊のように身体が大きく、歳は五十過ぎといったところだ。津吹の学生時代の知人である。彼は淡々と事務的な内容を伝えたが、次第に肩を震わせて笑った。唖然としている青年の顔がお気に召したらしい。


「大丈夫大丈夫。そう心配しなさんなって。教育と言ってもね、この子だって半年はここで働いてるから。成葉くんはあくまで先輩的指導をしてあげてって話。会社の基本的なルールはこの子から教えてもらって、逆に傘士としてのルールは君がこの子に教えてあげるって形で……ここはひとつ頼まれてくれないかな?」


 私は転職希望者なのですけど、と成葉は喉の奥で言葉を抑えた。レッヒェ社が深刻な人手不足に陥っているのは事実のようだった。

 成葉は「はい」とよく通る声を返した。課長はにこにことしながら、青年の肩を労うように叩く。その動作は津吹のものに似ていた。


「ま、頼むよ。今後こっちにいるって決まった時、成葉くんが職場に馴染んでる方が何かと話が早いだろ?」


 その言い方には、早くもレッヒェ社への転職を決定事項としている含みがあった。

 成葉は曖昧に頷き、子犬のように微笑する新人女性を一瞥する。今朝、小秋から「他所で女をつくるな」と念を押されていたことを思い出した。しかし会社の命令なのだから仕方ない。それに、遊びではなく仕事上での後輩なのだから問題ないはずだと成葉は自分に言い聞かせた。

 こうして、青年は何故だか見知らぬ土地で後輩を持つことになった。

 その後、成葉と新人女性は、共に外回りに行った。

 瘴雨が降る中をレッヒェ社の車で走る。車内には会社にとって新顔の男女二人。助手席に座る成葉は、着慣れないレッヒェ社の装備の着脱を繰り返し、ミスがないか入念に確かめていた。

 窓から見える風景には見覚えがない。転職をめぐる出張で訪れることになったのは山口県だ。レッヒェ社の支社があり、西日本豪雨で被災した同県の一部地域への支援を活発化させているという。ここは旧来の地域区分では中国地方だが、気象省の区分では九州だ。瘴雨以後は気象情報の価値が高まったので、気象省の基準があらゆる面で主流になった。このため、山口県は九州地方に属するとされている。九州全域は、津吹グループとは異なる旧財閥を前身とした企業群のテリトリーである。


「あのう……そういえば、成葉さん──先輩ってどちらから来たんですか?」


 運転席の女性から質問がきた。


「愛知です」

「わぁ、愛知……!私、あっちにお友達がいるんですよ。最近会えてないんですけど、すっごく親しくて。奇遇ですね!」

「そうですか」


 成葉は適当に返した。

 宇田といい、どうして女はこうも無駄話が多いのだろうと思った。青年は、アクセルを踏む新人女性の足を盗み見ても何の魅力も感じなかった。その一方で、小秋の話は長くても何ひとつ無駄とは感じなかったことに気づく。女とは足である、と以前考えた青年にとって、それは面白い発見だった。

 視線を感じたのか、女性は顔を隣に向ける。バックミラーに彼女のあどけない顔が映った。


「……先輩って……えーと、入社はまだですけど、傘士としては私の先輩に当たるんですよね?敬語で話をされなくてもいいんじゃ……」

「初対面ですので」


 新人女性は口ごもり、前方に視線を戻した。距離を置きすぎたか、と成葉は反省しながらも冷めた目で彼女を眺めた。

 たとえ隣にいる彼女が瘴雨を浴びて吸血鬼化し、左足を失ったとしても小秋のようにはなれないだろう。その予感だけで、成葉には彼女が一切価値のない人間にしか見えず、そんな馬鹿なことを思案している自分自身にも嫌気がさした。青年の中での女の基準は、あの吸血鬼の母娘──小秋に他ならず、しかも小秋は他と比べる基準というよりは揺るぎない絶対のものだった。



「それは嬉しいですね。わたくし、お恥ずかしいぐらい嫉妬深いものですから……。“人間嫉妬せずにいられることなどあるものか?”」


 小秋は一瞬目を伏せたものの、視線を上げると屈託なく微笑んだ。青年に女の影がないのがよほど幸せな事だったようだ。

 初の出張を終えて愛知県に戻った成葉が、新人女性の存在や、彼女の教育担当になった事実を小秋に伏せた理由は言うまでもない。彼はあの新人に何の興味も関心もなかったので、それを小秋に話したところで無駄だと感じていたのである。

 静謐なこの屋敷での二人っきりの楽しい食事中に、無関係の人間なんて詳細には語りたくなかったし、話題にも挙げたくなかったのだ。誰もここには来ないという確信を持った上での、小秋との時間が成葉にとっては全てだった。雨の時間、足の時間。血の時間──。これら三つが女吸血鬼の存在を「小秋」たらしめた。


「お気待ちは私にも分かります」


 成葉はそう言うとスプーンを置いて、胸元のブランデル社のバッジに片手を被せた。ペリカン鳥を握る。


「それでもご心配には及びません。“私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる”ものです」

「……」

「吸血で……小秋さんと私は、足だけではなく血でも繋がっているのです。これは他の誰にもあてはまらない、強固な絆だと思っています。違いますか?」

「おっしゃることは確かですけれど……。これからは、わたくしが貴方の血を吸わない毎日が始まるのですよ?」


 小秋は眉を下げた。

 ボランティア期間中は違法輸血──吸血はしないと彼女が言っていた。成葉は慌てて付け加える。


「“他の人のことをまったく考えないというのが、恋の真髄”というものです。とにもかくにも、小秋さんが嫉妬心を抱かれることは必要はありませんよ。私は……」


 口を閉じた。あなたを愛していますから、とは言えなかった。他の想いも同様に言葉にならなかった。

 もしその続きを言ってしまえば、レッヒェ社に行く最後の余地が自分の中からさっぱりなくなってしまうだろうと感じたのだ。成葉は「私は……」と空虚に続ける。


「はい?何でしょうか」


 顔を少し前に出すと、小秋は正面に座る成葉をじっと見つめた。吸血鬼の眼から逃れるように、青年は立ち上がった。スプーンと皿がかたりと揺れた。


「いえっ。なんでも、いや、なんでもというのは違います。別にその……」

「うふふ。あらあら、成葉様ったら」


 適切な言葉を探すも見つからず戸惑う青年の姿に、小秋は目を細め、喜びを抑えない大胆な笑顔を咲かせた。吸血鬼の鋭い牙があられもなく口の端から現れる。


「もっと素直に、愛していますから、とでもわたくしに囁いてくださってもよろしいですのに。奥手な人ですのね」

「私は──」

「それとも、わたくしの前でそう発してしまったらもうおしまい……とでもお考えでいらっしゃいますの?」


 取り繕おうとした成葉の笑みは瞬く間に萎れた。

 青年の笑みを吸い尽くしたように、小秋がにこりと微笑む。彼女に嘘は通用しないのは明白だった。

 男が嘘をつく理由は、母か好きな女性のためか、己の虚勢を守るため。その理屈が正しいとするのなら、今の成葉は小秋に対して隠し事などできるはずがなかった。

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