72話

 新しい制服は落ち着かない。

 新幹線の中で文庫本を読んでいた成葉は、時折、自分の腕や足を眺めていた。普段とは違う制服で整えられた自分を。今の青年の格好はどこから見てもレッヒェ社の傘士だ。愛知県から出た頃合にトイレで着替えたそれは、黒を基調とした服で、胸元には黒い鷲のバッジがついている。

 本に集中を戻すと、見慣れたセリフのひとつが目に入った。


 “あの醜怪なドイツのお化け、吸血鬼です”。


 そのセリフをじっと読んだ。作中、女性主人公のジェーンが吸血鬼を見たと屋敷の主人のロチェスターに断言するシーン。これまで何度その場面を繰り返し読んだのかは、もはや定かではない。津吹から過去にもらった古い版の書籍なので「吸血鬼」という文字が修正されずに残っている。

 手にしている文庫本──『ジェーン・エア』を閉じて、成葉はぼんやりとした。

 『ジェーン・エア』は英文学の傑作だ。ヴィクトリア朝のイギリスにおいて一人の女性を軸にし、彼女の苦悩や葛藤を見事に描写した作品である。

 いちごタルトを土産に独身寮に訪れた小秋が、本棚を物色した際に、タイトルを挙げていた作品だった。当時の小秋が指摘した通り、これは成葉の好みの本だ。

 主人公のジェーンは両親を亡くした孤児だ。昔のイギリスでは色濃かった血統主義の影響が強いためか、天涯孤独のジェーンは何度も「血の繋がった人が欲しい」と弱音を吐く。血よりも家に重きを置く日本人には馴染みのない感性だが、生い立ちゆえに成葉はこの考えに深く共感していた。彼女の境遇が自分と似ているので、彼は昔からこの作品が好きだった。

 隣に座る無関係の客の耳に入らない程度に、成葉はため息をついた。頭を窓へ預ける。ガラスの冷たさが髪に染みた。本をぱらぱらとめくり、手で弄ぶ。紙の匂いと、雨の日の匂い。退屈になって、成葉はまた本に目をやる。

 物語の結末は知っている。自立しようと主人のロチェスターの元を離れ、外の社会で懸命に生きるジェーンだったが、紆余曲折あって、結局はロチェスターのところへ戻って彼と固く結ばれる。彼は怪我を負い失明したと判明するが、それでも支えるとジェーンは誓った……。

 『オイディプス王』の鑑賞以後、成葉はあることに気づかされた。自分はジェーンに親しみがあったのではなくて、失明したロチェスターがそうだったように、ジェーンのような女性に救われたいと願っていたのだと。何故ならば、自分は母と交わり父を殺した現実に絶望し、両目を貫いて盲目になったあのオイディプスだったからだ。あの豪雨に遭い、上手く歩いていけるか不安だった弱い自分を守るため、足代わりの杖や傘になりうる女性を必要としていたのかもしれない──青年はこのように自己の心理を再分析していた。彼はこの解釈でおそらく誤りはないと思った。

 ふと、小秋──あの吸血鬼の母娘の顔がよぎり、成葉は読み終えた文庫本を鞄にしまった。それから数分後には目的地に着いた。



 駅を出ると、成葉は雨が降る下をレッヒェ社の装備で外を歩いた。

 ここに来るまでに、何本の川を越えてきたのだろう。駐車場で迎えに来ているというレッヒェ社の車を探す最中、青年はそんなことを考えた。吸血鬼は川を渡れない。だが、もし渡ることが出来たとすれば、その時はオセロゲームの白黒が反転するように、吸血鬼も人間に戻れるのだろうか?

 立ち止まった。早くも帰ることに気が向いてしまったと成葉は反省した。ともかく、津吹の知人に恥を晒したくはなかった。出張中は小秋や津吹家のことを忘れ、傘士の仕事に尽力すると青年は決めた。


「あのう……もしかしてあなたが成葉さん、ですか?」


 再び車を探そうとした時、後ろからそう訊ねられた。青年は驚いて振り向く。そこにはレッヒェ社の傘士らしき若い女性がいた。


「そうですけど」

「良かった。えと、私は、成葉さんのお迎えに上がりました。レッヒェ社の者です。あ、名刺を……!ちょっと待ってください。今お渡ししますので──」


 女性はフードこそ被っているが、顔面保護の耐雨ビニールは降ろしておらず、外套のマントの付け方も緩めで、完全防護の格好ではない。その割にははきはきと喋る。対応が洗練されておらずアンバランスな感じで、だらしないというより、傘士としての振る舞いに慣れていない出で立ちだった。レッヒェ社は迎えに新人を寄越したようだ。


「雨の下ですよ」


 成葉は肩をすくめて笑った。女性の傘士の方は、「あ」と声を上げ、息を止めたように固まった。やがて恥ずかしそうに頬を歪める。


「すみませんっ。私、気が利かなくて」

「別に構いませんよ。こんな雨が降る時代なのに、未だに紙の名刺なんか使ってるこの国がおかしいんですから」

「そうかもですね、あはは」


 女性の傘士は少し緊張が解れたように笑った。



「おかえりなさい。成葉様」


 日曜の午後九時過ぎ。玄関で出迎えた小秋にお辞儀し、成葉は屋敷に上がった。


「ただいま」


 初めての帰宅に気後れしたが、青年はそう言った。小秋が嬉しそうにもう一度「おかえりなさい」と口にし、二人は互いを見つめて照れくさそうに笑う。

 小秋は、ブランデル社の外套を脱ぐ青年に向けて、おっとりとした微笑みを浮かべる。


「お疲れでしょう?わたくしは夕食の準備を済ませますから、貴方は先にお風呂に入ってきてください」


 夕食は以前にも小秋が作ったシチューだった。温かく優しい味のそれを食べながら、成葉は彼女に出張で起こったことを話した。

 一回目の出張は無事に終わった。

 転職希望者ということで人手不足のレッヒェ社からは大いに歓迎され、早速仕事に取りかかった。見学とは名ばかりで、他の傘士と混ざって普通に働いた。当然ながら働く体制や雰囲気が違うのは多少あったが、主要な業務は同じで、適応するまでに時間は要らなかった。日曜の定時頃には向こうの職場を後にし、成葉は新幹線でまた三時間かけて愛知県に戻ってきた。

 問題のレッヒェ社の制服は、帰る際に名古屋駅に呼び出した高田に預けている。

 これらのうち、成葉が話せる内容は限られてはいたが、小秋は耳にした話の細かなことひとつずつに感心した素振りで相槌を打っていた。彼女は青年が転職を迷っていることや制服を隠していることなどは知る由もない。

 小秋はしおらしく眉を下げ、小首をかしげる。


「被災地は……貴方の心の負担にはならなかったのでしょうか」


 成葉は頷いた。


「瓦礫が大分片付いていたというのもありますが、何も問題はなかったですよ。小秋さんも心配性ですね」

「それなら良いのですけれど」


 小秋はそこで言葉を切った。外の雨が止み始めたせいか室内の空気も変わった。


「他には何か、変わったことはありました?例えば女性の傘士さんと仲睦まじく働いたとか」

「そのようなことはないですよ」


 青年は苦笑いした。吸血鬼は節々が硬直した笑顔だった。

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