71話

 翌日の土曜日も雨だった。

 屋敷の一室にて、日が昇る前から準備を進めていた成葉は、荷物や装備の確認を済ませると玄関に向かった。音を立てないよう慎重に歩いたが、それも意味を成さなかったらしい。玄関には、起こしては悪いと気遣っていた同居人がいたのだ。成葉は拍子抜けしたと共に緊張した。彼女に声をかける。


「小秋さん、おはようございます。起きていたんですね」

「ごきげんよう。成葉様」


 小秋は華やかな笑顔で応えた。朝早いというのに、小秋は普段通りシワひとつないロングドレスをきちんと着用し、眠気を僅かにも感じさせない顔で青年のことを待っていた。


「昨晩はよく眠れましたか?」


 その質問に、成葉は軽く頷きを返した。実際は、浅い眠りを繰り返す程度にしか休めていなかったが。

 避難所生活や傘士の過酷な研修時代もあったので、彼は枕が変わると眠れなくなるタイプではなかったが、昨夜は色々とあって流石に緊張で寝られなかった。小秋との深い接吻。屋敷で暮らすことになった突然の事態。なにより、小秋に命令されるよう告げられて、特に拒むことなく荷物を寮から屋敷へ移した自分自身。

 成葉は耐雨外套のマントを羽織った。小秋はそれを彼の背中から手伝う。固定部のチェックを含め、二人で行うと時間はかからなかった。

 小秋は軽く頬を膨らませる。彼女は不満を隠さずに笑う。


「……わたくしに声をかけてくださらないんですもの、ここで貴方を待っていたんです」

「すみません。でも昨夜に、明日は朝食も見送りもいらないから気にせず眠っていてくださいと言ったじゃないですか」

「そう言われてわたくしが大人しく眠ると思っていたんですの?」

「どうでしょう」


 小秋の言葉をごまかしながら、成葉は長靴を履いた。薄々、彼女が起きているとは勘づいていたがそれは言わなかった。


「成葉様、お腹は空いていませんか?今からでも何か簡単なものでしたら朝食としてご用意できますよ」

「お気遣いはありがたいのですけど、出張の際は遠慮しておきます。駅で何か買って新幹線の中で食べますよ。道中、かなり長いですし」

「そうでしたわね」


 小秋は苦笑いした。つられて成葉も笑った。


「あ、そろそろ行きますね。日曜の夜には戻ると思います」


 成葉はそう言ってフードを被った。顔面を保護する耐雨性のビニールも下げる。

 正直なところ、彼はこういう場ではどう振る舞えばいいのか知らなかった。外出する自分を玄関から見送ってくれる人の存在が新鮮だったのだ。


「ちょっとお待ちください」


 小秋は青年の胸に手を伸ばすと、斜めになっていたホワイトペリカンのバッジの向きを直した。それから、青年の頭からつま先までを入念に見る。


「大丈夫そうですね。これで準備に抜かりはありませんわ。成葉様、どこから見ても今の貴方はブランデル社の素敵な傘士さんです」


 微笑すると、小秋は成葉の頭をフードの上から撫でた。彼女は満足そうだった。登校する息子の格好を気にする母親みたいな言動だ。成葉は苦笑した。

 小秋は、出張先でも青年が日頃と同じ装備で仕事をすると思っている様子である。

 フードを被っていて助かったと成葉は思った。これで彼女からは表情が読まれなかったはずだ。というのも成葉は、ブランデル社の社員、と小秋の口から聞いた時に自分の表情が強ばったと感じたのだ。大袈裟な苦笑はそれを隠すためでもあった。


「あちらの地域には、ブランデル社の支社がないと聞いております。貴方がおっしゃるように、他の会社の方との軋轢はどうしてもあるのでしょう。けれど、何か嫌な思いをしたとしても……どうか悪いことだけは考えないでくださいませ。ここに帰って来てきてくだされば、何があっても、わたくしが貴方を出迎えてあげますから」


 小秋の優しさや気遣いが外套を侵食して成葉の心を濡らした。彼女は女という水であり雨だった。それがなくては男は生きてはいけない。だが、過剰だと風邪をひくか最悪溺れ死ぬ。


「それと──これをお渡ししておきますわ。この屋敷の合鍵です。どうぞご自由に使ってください」


 小秋は両手で淑やかに鍵を渡した。身構えるつもりはなかったが、成葉は短く事務的に礼を言うだけに留めた。鍵をもらって会釈し、彼女に再度頭を下げて視線を外す。


「あなた」


 扉に向く青年の背中めがけて、小秋がそう発した。成葉は、ドアノブから手を離し、室内を振り返った。見送りのためにそこにいる小秋は、明らかに頬を赤らめていた。彼女は両手を自身の胸の前に重ねている。祈る時とは異なる、もどかしそうな手の仕草。

 出張前に最後の吸血をしたいのだろうか。成葉が漠然とそう考えていると、小秋は少し高い声で「あの」と呟く。


「い、いってきますのキスを……してほしいのですけれど」


 昨夜の記憶が登ってきて、成葉は顔を赤くした。二人はしばし鏡合わせのようになった。

 小秋は、林檎のような赤い顔を恥ずかしそうに手で覆ったものの、成葉から目を逸らそうとはしなかった。今朝の小秋には、昨晩の吸血鬼めいた不穏な余裕や艶然とした笑いはなかった。新妻のそれに似た、奥手な愛情を抑えた強引な無表情が彼女の顔に貼り付いていたのだ。それは少女や母親のものではなかったが、成葉には可憐に映った。


「……分かりましたよ」


 観念した成葉は扉から離れて戻ると、フードを外した。そして小秋と唇を重ねた。小秋は青年に身体を預けながら、嬉々とした笑みで新婚夫婦のような甘い挨拶に応じた。三分ほど抱きしめ合い、二人はそこでようやく時間のことを気にして渋々止めた。

 成葉は名残惜しそうに小秋の横髪に触れる。


「何かありましたら連絡をください」


 小秋は青年の手に自分の手を添えた。彼女も青年と同じ気持ちだったのだろう。


「そうさせていただきますわ」

「小秋さん……じゃあ、その、いってきます」

「ええ。いってらっしゃい」


 そう言って、小秋は頬に当てられた成葉の手をそっと下ろすが、指先は彼の手に絡めたままだった。耐雨グローブ越しに爪が食い込む痛みが走る。それは小秋が昨夜語っていた幻肢痛に他ならず、成葉は彼女が抱く別離の痛みを再認識した。


「“あなたなしでは生きられないほど愛しているの、分かっている?”……わたくし、成葉様のことは信用しています。尊敬しています。慈しんでもいます。その上でお伝えしておきますわ──他所で女をつくってはいけませんからね」


 甘い微笑みを保つ小秋だが、目元は全く笑っていなかった。

 成葉が気づく頃には、小秋の笑みはまるで変わっていたのだ。彼女は以前のように獲物を捕える吸血鬼の眼をしていたのだった。



 雨の中に出る。門を出たところで屋敷を見た。扉が開いていて、室内が見えた。小秋がにこやかに手を振っている。成葉は彼女に手を振って、門前から離れた。


「高田、今どの辺にいる?」


 携帯無線機のマイクのスイッチを入れて呟いた。無線機は一方通行だ。一旦そこでスイッチを切る。雑音を挟んだ後で、同僚の咳払いが聞こえた。


「もうじき着くぞ。回収地点は前と同じく」

「分かった。通信終わり」


 雨の中を小走りし、成葉はペリカンのロゴが記載された配達用のトラックを見つけた。二年前に屋敷を見つけた際に停車した場所である。

 瘴雨ではなかったので、外套は汚れていない。成葉は迷いなく助手席に乗った。車内に水が飛び散る。


「冷たっ。おい!ちょっとぐらい雨払ってから乗れよな、くそ」


 運転席から抗議の声。


「屋根もないのに無理言うなよ」

「午前三時から働いてる人間に酷な言い方だな」

「私だってこれから出張だし、労働時間みたいなもんだからお互い様」


 成葉はマントを脱いだ。同僚の高田とこうして外で話すのがなんだか久しぶりに思えた。

 ここで高田の車に拾ってもらうことは、昨夜、寮に戻った際に彼に会って頼んでいた。駅まで乗せてほしいと。そして、とある頼み事も彼にしていたのである。


「成葉の荷物、そっちの足元にあるぞ」


 車を発進させた高田が言った。成葉は助手席の足元を見る。津吹からもらった紙袋だ。その中には、白い不透明のビニール袋に包まれている衣類──レッヒェ社の装備一式。


「助かった。恩に着るよ」


 成葉はため息を吐くように言葉を出した。

 レッヒェ社の装備を荷物として屋敷に運ぶと、小秋に発見されるおそれがあったので、こうして高田に預かってもらっていたのだ。平日の間の保管も彼に任せていた。これならば小秋側には事が漏れない。


「その中って何が入ってんの?」


 憮然とした面持ちの高田が訊いた。眠たいところに水滴を浴びて機嫌を損ねているらしい。


「見たのか」

「いや」

「ならいいや」

「で、何なのさ。中身」


 成葉は言い訳を考えたが、これといったものは出てこなかった。


「義足の部品とかカタログとかだよ。出張でちょっと必要なんだ」

「そうか。別に構わないけど、なんでそれをわざわざ俺に預けるんだよ。だって出張ってか……ボランティアって今後も毎週末あるんだろ?自分で持ってた方がよくないか」

「人質だよ。高田は土曜日、この時間に働いてるから。足代わりにしたいけど断られると私が困る。だったら事前に荷物を高田に渡して、どうしても私に会って荷物を渡さないといけない場面を作ればいい」

「お前そんなに性格悪かったっけ?」

「知らないよ」

「あと、俺をタクシーにするのは結構なんだけど……なんでこんな場所にいたんだ?こんな時間に」

「散歩」

「散歩?」

「雨の中の散歩。私は傘士なんだって認識できるから」


 成葉は津吹の言葉を借りた。


「都市伝説の支社長かよ。マジで徒歩で?いかれてんのか?何時に起きたら歩きで寮からここまで来れるんだよ……」


  高田は呆れながらも、それ以上は何も口出ししてこなかった。余計な詮索はしない、という彼の流儀とやらに成葉はこの時になって初めて感謝した。傘士と配達員を乗せた車は名古屋駅へと向かって行く。

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