70話

 吸血が止んだ。

 唇を離した小秋は、塗り薬と包帯で青年の首にある傷口を治療しつつ「どうでしょう?」と訊ねた。成葉は首元を手で触る。痛みはない。


「出血は止まったみたいです。ありがとう、小秋さん」


 小秋は微笑む。彼女は成葉の右手を取って、自身の片頬に当てた。成葉はじっと彼女を見る。小秋の素肌の体温と横髪の感触はどこまでも柔らかく、全てを受け入れてくれるかのようだった。


「お部屋には空きがございます」


 噛み殺した嬌笑の後、小秋は言った。

 出張に行く交換条件として提示された──この屋敷での同居。

 成葉は手を動かす。手を小秋の細い首へやり、今度は自分が吸血鬼になったようにして近くまで顔を寄せる。


「出張は決定事項です。私の権限ではくつがえせません。あなたのお話をどうしようと、私には……」

「言い訳は駄目ですよ」


 小秋は、優しい口調ながらも毅然と返した。


「貴方が不安になるような真似は決してしません。お約束いたします。ただ、少しの間……この屋敷でわたくしと一緒に暮らしてくだされば、他には何も望みませんから」

「お客様である小秋さんに生活の雑事をお世話してもらうのは……傘士としては気が引けます」

「あら?成葉様、ここではあなたの方が来訪者でお客様ですわ。それに女は、自分の好きな殿方のためならどんなことでも負担とは思わないものですの。ですから、どうかわたくしを頼ってくださいませ」

「意見の相違ですね。男は自分の好きな女性には、どのような形でも重荷を載せようとはしないものです」

「お上手ですこと」


 小秋の頬が、健康そうな赤みの域を越えて紅潮した。


「けれど残念。本当は、わたくしのことを警戒していらっしゃるのでしょう?」


 成葉は包帯の巻かれた首を摩る。


「……毎日血を吸われるようになっては、私は干からびますからね」

「お言葉ですが、わたくしなにも貴方のことをとって食おうだなんて考えてもおりませんわ。貴方のためにスフィンクスを演じる期間はとっくに終わりましたから。今は純粋に貴方のお力になりたいだけなのです」

「そうだと助かりますが……」


 吸血鬼の身体から手を離し、青年は姿勢を正す。


「これは私の問題なのです」

「成葉様の問題?」

「もしここで小秋さんと暮らせば、私はあなたのことしか頭に浮かばなくなってしまいます」


 小秋は嬉しそうに頬を緩ませる。


「とっても素敵なことではありませんか」

「とんでもない。私にはそれがとても恐ろしいのです」

「わたくしのことが好きではないのでしょうか?」

「好きだからこそ怖いのです」

「よく分かりませんわ」

「私は誰も好きになりたくないのです。その人を失ってしまった時を思うと……」


 成葉は、雨の中を独りで歩く津吹のことが気になった。若くして失った妻を追い求める父親の姿が。津吹は言った。ここに残るのなら、いずれ君もそうなる。君は昔の俺だ──と。

 小秋は微笑のまま表情をぴくりとも変えない。


「まだ失ってもいないのに痛みに苛まれるのですね。幻肢痛とは違った、幻の痛みに」

「そうです。本物の幻肢痛に悩まされる小秋さんには甘えた話に聞こえるでしょうが……私にはこれが切実な痛みなのです」


 義足の足音がした、と気づいた時には、成葉は小秋の両腕に捕まっていた。ぎゅっと身体を抱きしめられる。


「……ずっとお独りでいるおつもりですの?この雨が降る中を」


 言葉が詰まる。成葉には分からなかった。凍てつく雨に打たれて、自分が独りで生きているか否か。自信はなかった。だが、隣にいたはずの親しい誰かが雨の下で倒れているところだけは見たくなかった。

 スフィンクスのなぞなぞを解くべく、津吹家の墓まで徒歩で歩いた時、心細かったが思考ははっきりとしていたことを成葉は思い出した。あの時、たしかに青年は自立していた。青年と呼ばれる繊細な人間は、歩くことで成熟する仕掛けになっていたのだ。

 あの時の歩き。歩行。確かな足の動き。

 それは素晴らしいものではあったものの、生涯そうした歩みを続けられるのかは青年には明確ではなかった。目的地こそあれど道は闇に沈んでいる。微かに光るだけの電灯たちに見下ろされて、容赦のない雨下の暗い道を独りで歩く。無線を切ってしまえば全てと断絶される、孤立した道を。

 実際、墓参りの後には風邪をひいた。独りでやれると過信していたところを大いにくじいてしまった。唯一の取り柄であり生きる糧だった仕事を休んだ時、成葉は落ち込んだ。

 そこを母親のように助けてくれたのは、紛れもなく小秋という吸血鬼だった。小秋が作った粥の味は、インフルエンザで寝込む成葉のために血の繋がった実の母親が最後に作ってくれた味だった。小秋が差し出してくれた足もまた、亡くした母の足だった。それらをもう一度でも失ってしまえば、成葉は次に立ち上がれる自信がなかった。それならば、初めから小秋のことを忘れてしまいたかった。うめく痛みの全てを身体から除きたかった。だが、小秋を忘れた人生に果たして何が残るのか──これも青年には分からないことだった。

 彼の中ではちょうど五分五分だった。ブランデル社という居場所への依存心と忠誠心。レッヒェ社という新天地への好奇心と逃避欲求。両者は天秤にかけられて見事な水平を維持している。これにあたって、同棲を勧めてくる小秋という存在は、この選択の天秤を恣意的に片方に傾けようとする狡猾な女吸血鬼に他ならなかった。


「独りでいると……寂しくなるものですわ」


 青年の心臓がある上に顔を埋めていた小秋が呟いた。彼女の言葉は真理だった。血を吸われるのとは反対に、言葉が注ぎ込まれた。

 小秋の声は、壮麗さを身体の奥底に覚えさせる深い味わいだった。美麗な女の声。雨の中、将来の傘士──吸血鬼の餌を育成する施設で、子どもたちのために本を朗読する女の声。

 それは今に思えば、セイレーンの歌声だった。かつて名もない少年は彼女に喜んで魂を捧げた。とうの昔に、自分は水の底に引きずり込まれていたのだと成葉は悟った。

 成葉は視線を下げ、小秋を見つめた。いつの間にか彼女は青年を仰いでいた。小秋の青い瞳は、宝石ではなく秋の海を想起させる目だったが、娘のそれは夜の海底に近い。

 二人はしばし無言になって、互いの目の奥の言葉を探った。息をすることすらはばかられるほど静かな部屋に、外から雨の音が入ってくる。


「一緒に住んでくださるのでしたら、吸血はこれっきりにしますわ。貴方はお忙しい時期ですもの。貴方のお身体の負担になることは絶対に強要しません」


 小秋は淑女然とした眼差しと物言いだった。


「それでも、やっぱり……わたくし怖いのです。貴方が向こうに行ってしまって、こちらに戻ってこなくなってしまうのではないかと想像してしまうと。貴方にとっての幻肢痛と同じですわ。これはわたくしの痛みなのです。貴方が離れてしまうかもしれない、という恐れが……」

「そんなことは──」

「でしたら、今ここでわたくしに誓ってくださいな」


 青年のうなじに手を回すと、小秋は彼の頭を引き寄せて唇を重ねた。それは舌で口内を愛撫されるような激しいものだった。一度唇は離れたものの、二人は互いの息遣いが感じられるほどの距離にいた。早くも呼吸を整えた小秋は、青年に美しく微笑む。


「……ね?わたくしに誓って?」


 われに純潔と禁欲を──と呟く成葉の口を、再び小秋が塞いだ。

 青年は小秋の額に触れて睨んだ。そうでもしないと、あっという間に小秋の思惑通りになってしまいそうだった。青年は心の中で呪詛のように自制の文言を唱え続ける。それが伝わったのか、妖しくうごめく小秋の舌が止まり、青年からずるりと引き出された。


「どうされましたの?」

「“妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である”とも言います。こんなことは止めてください、小秋さん」

「あら……うふふ」


 小秋は、まるで青年の言葉は聞いていなかったように、口角を上げて幸せそうに笑った。白い牙は青年に狙いを定めてはいたが、実際に皮膚に噛みつこうとはしなかった。


「“神はある種の快楽を禁じておいでになる。しかし、神と折り合いをつける道がないわけじゃありません”……。ねぇ、正直におっしゃって?成葉様も心地良かったのでしょう?わたくしとのキスが」


 成葉は黙った。青年が何も言う気がないと分かるなり、一瞬のうちにして、小秋の笑みは冷淡な吸血鬼のものになった。


「本当にどうしても嫌なのでしたら、止めてあげましょう。その代わりもう二度としませんから」

「待ってください!それは……」

「それは?なんですの、傘士さん?」

「……嫌ではないのです」

「何がですか?ちゃんと言ってくれないと、伝わるものも伝わりませんわ」


 小秋はころっと顔つきを明るいものにした。さきほどまでとは打って変わって、彼女は心底愉しそうだった。機嫌が良い時のものとは違う、もっと別の次元の満足に悦ぶ表情だった。子どもが小動物を無邪気に虐めて楽しむような透き通った残虐性が、小秋の笑みを形作っていた。

 ふふ、と小秋は短く笑った。

 成葉が目を上げた時には、小秋は普段のような悟性に満ちた美しい女性の雰囲気に戻っていた。そこに吸血鬼の影はなかった。


「もう結構ですから……出張に必要な物を今日中にこちらへ運んでくださいね?」

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