第12章 喰らわれるもの

69話

 “血を呼ぶ、か。そうだ、血が血を呼ぶのだ”


 ──シェイクスピア『マクベス』



 “彼女の愛撫の手にさわられて、グーの音も出ずに生血を提供する犠牲者たち……彼女の恐ろしい抱擁のうちに死んでいく犠牲者たちは、そのまま今度は、彼ら自身がかわって他の人間を餌食にする吸血鬼とならなければならないのである”


 ──F・G・ローリング『サラの墓』



 “悲劇において血が流れ、人が死ぬことは決して必要なことではない”


 ──ラシーヌ『ベレニス』



 昼の雨の暗い空気が、サンドイッチの肌に影を作っていた。

 部屋に漂う紅茶の香り。微かな血液の臭気。それらが混じり合い、傘士の青年と吸血鬼の少女がいる客間を包んでいる。


「出張……ですの?」


 金曜日の正午。二ヶ月に一度の定期輸血のために屋敷を訪問した成葉は、小秋が全血製剤を飲み終えた頃にさりげなくその話を振った。津吹から言われた通り、小秋には単なる被災地ボランティアに行くとだけ話した。

 成葉は頷いた。


「行政からの要請だそうです。ブランデル社からも傘士を出してほしいとのことで、私が選ばれました」

「どうして成葉様が?」


 小秋の目は、雨雲で覆われたように仄暗い。テーブルを境に青年と対面する小秋は、ソファの上で僅かに身動ぎした。


「他の方ではいけないのでしょうか?成葉様は豪雨災害でご家族を亡くした過去をお持ちですのに。貴方を選ぶだなんて……あまりに配慮のない考え方ですわ。お父様の会社は何をお考えなのですか」

「くじ引きで決まったので……。第一に、私は被災地に赴いても平気です」

「本当にそうですの?わたくし、とても心配ですわ」

「小秋さんが不安になることはありませんよ。私は、とっくに過去とは決別しています」


 それを聞いた小秋は、少し首をかしげると、ソファから立ち上がった。すらりとした吸血鬼の身体が義足に支えられる。


「……いけませんわ、そんなの」

「どうされたんですか?」

「成葉様はこちらでお待ちくださいませ。わたくし、今からお父様に話をつけなくてはなりませんから──」

「必要ありません」


 成葉はソファから身体を上げて、小秋の手を掴んだ。彼女の体温が染みたオペラグローブの肌触りは滑らかだった。


「これはもう会社で決まったことなのです。週末に私がいない編成でのスケジュールも既に組まれています。急な変更があると、周りに支障が出てしまいますよ」

「でも……」


 小秋は涙を押し殺した声で呟く。


「毎週二日間のみとはいえ……成葉様はその間、こちらにいらっしゃらないではありませんか。わたくし、それが他のことには一切例えられないぐらい寂しいのですわ」


 小秋は振り向いて、成葉をじっと見た。

 潤んだその眼差しは、青年の心を魅力するには充分だった。吸血鬼の目。女の目。

 われに純潔と禁欲を──。成葉は口の中で唱えながらも、彼女を抱き寄せた。


「寂しいのなら、向こうから私が電話を差し上げます」

「声だけでは物足りませんわ」

「ご辛抱を。どのみち今年の秋が終わるまでの話です。どうかそう気を落とさないでください」

「その後は……貴方はこちらにずっといてくださいますの?わたくしの隣に」


 転職。選択。両者が成葉の中で血のように循環し、心臓を苦しめた。


「当然ですよ。私はあなたの傘士なのです。心配は無用です」


 成葉は小秋の耳元でそう言った。半分は本音、半分は嘘。青年は迷っていた。

 その言葉を聞いた小秋は、たちまちに明るくなった。彼女は薄く微笑む。


「あら、ふふふ……ごめんなさい。不安になってしまって。そうでしたわね、わたくしたちは繋がっていますものね。血と足で」

「もちろん。それでは……小秋さん、本件についてはあなたのご理解を得たと受け取っても?」

「はい。ただし、ちょっとした交換条件がありますわ」

「何ですか?」

「ボランティアが終わるまでの間、成葉様にはこの屋敷で暮らしてもらう──というのはいかがでしょう」


 一瞬、成葉は黙ってしまった。


「……屋敷って、ここで?暮らすというのは?」

「文字通りの意味ですわ。貴方はこれから特にお忙しくなるではありませんか。きっと、日々の炊事や家事を煩わしく思われるのではないでしょうか?」

「それはまあ、そうですが」

「わたくしはいつだって貴方のお力になりたいのです……。ですから、お仕事の方が一旦落ち着くまではこちらで寝泊まりされて、雑事はわたくしに任せるのがよろしいかと。どうでしょう?悪い話ではないと思いますわ。ご遠慮なんて必要ありませんから──ね?」


 今度は小秋の方が成葉を抱きしめる。小秋は青年の頭を撫でると、子どもを諭す母親のように優しい言葉遣いで「ね?」と再び念を押した。成葉は固まってしまった。

 小秋にはもはや不安の影はなかった。彼女は柔らかで静謐な笑顔を浮かべていた。


「……成葉様。わたくし、これでも今までのことは全て申し訳なかったと思っていますのよ」


 津吹家の墓参りの際、移動中に小秋が語っていた一連の真相。小秋を抱きしめ返した成葉は、彼女の口から耳にした事実のひとつひとつを改めて咀嚼した。


 小秋の初恋の相手は、彼女の父親──津吹だった。

 血の繋がりで手に入らなかった父親という幻肢痛は、幼少期の小秋には埋め合わせられず、恋敵だった母親が亡くなってもその構図は変わらなかった。

 小秋は母親のことを愛しながらも、女としては激しく憎んだ。父親の心を奪い尽くしては飽き足らず、死後も彼を縛りつけてしまった母親のことを。

 だが、当時の小秋には、父親を独占する母親という恋敵以上に別の宿敵がいた。それは息子としての立場から父親を奪う、成葉という少年の存在だった。


「わたくし……実家ではいつも独りでしたの」


 小秋は、成葉の耳たぶを甘噛みしてから、囁いた。青年が考えていることを読み取ったようである。


「お母様が亡くなられた後、お父様は愛知支社を絶対のものにするため仕事に打ち込まれました。せっかくのお休みの日もお母様のお墓参りに行かれて、雨の日はずっと外を歩かれてばかり……わたくしのことなんて、あのお母様と血が繋がっていること以外には何も価値なんてないようでした。家の人間も、お父様に同情する一方で軽蔑もしていましたわ。お父様は、婿養子として津吹家の中では元々肩身が狭かったのでしょう。今だって、お父様は滅多なことでは使用人しかいない実家には顔を出しませんもの」

「……昔は、あなたも独りだったわけですか。小秋さんのことは……直接には存じていませんでしたが」

「わたくしもですわ」

「でも──」

「ええ。お父様を通じて、わたくしたちはずっと以前からお互いのことを知っていましたね」


 少年だった成葉は、児童養護施設に顔を出すようになった津吹のことを父親として相手していた。

 その裏では、津吹夫妻の間にいるであろう女の子に敵意を抱いていた。自分は夫妻のどちらとも血の繋がりがないのにも関わらず、女の子の方にはある。しかも二人と同じ家で暮らしている──。

 それゆえ、成葉は会ったこともない津吹の娘の話を聞く度に、嫉妬したものだった。子どもは容易に嫉妬する。自分が親からもらうべき愛情を別の子どもに奪われたときては、それは必至だった。

 成葉と小秋。男女の名前をそれぞれ継いだ二人の少年少女。二人は十数年にも渡って顔合わせこそしなかったものの、津吹という父親を通じて、互いの存在を確かに感じていた。そこに自分たちの本当の名前は必要なかった。二人にとっては、互いの存在は常に敵だった。だが時には、自身と似た状況にいる者として深い親近感を抱かせる相手でもあった。


「いつ頃だったでしょう……貴方への敵意が恋心に変わったのは」


 小秋は成葉の首を噛んだ。ぶつりと皮膚が裂けて、数滴の血が出る。


「わたくしは毎日、お会いしたこともない貴方の存在ばかりを考えていましたの。お父様が楽しそうに成葉という名前を出す度に……嫉妬もしましたが、同時に貴方が男の子であることも意識したのですわ」


 小秋は首元に垂れた血を丹念に舐めた。成葉を逃がさず、出血が収まるまで執拗に彼の血を吸い上げた。小秋はそこで語ることを止めた。

 その後の経緯は、成葉も全て聞いている。

 津吹は施設から帰ると、成葉という少年のことを自慢の息子だと満足そうに語り、常に小秋に聞かせた。津吹にとっては、娘が少年に恋をしてくれるのが最善だったのだ。小秋と成葉が恋仲になればお互い幸せなまま、血と足が約束された将来を誓い合ってくれるのだから。そのためには少年の心を捕らえるべく、娘に母親のフリをさせなくてはいけなかった。

 津吹夫婦の考えに誤算があるとするなら、それは娘の小秋が予想に反して成葉を強く恋慕してしまったことだった。

 小秋──というより当時の少女は、自分の名前を捨てることにした。

 彼女は、成葉が親の愛情に飢えた自分とよく似ていると知っていたのだ。成葉の好意を向けさせるために、自分が何をするべきなのかは彼女にとっては数学の宿題よりも簡単だった。成葉がブランデル社に入り、傘士になって数年が経つと、小秋は津吹に協力を仰いだ。彼女は瘴雨に左足を晒し、自ら身体障害を負い、壊死したそれを切断した。そしてにしたのだ。母親──津吹の妻は、「小秋こあき」という名前だった。

 小秋と名乗り、成葉にはあたかも母親と接しているかのように錯覚させる。その考えを先に行っていたのは津吹夫妻だった。夫妻は、成葉に対して「小秋」という名前を教えず、小秋のことを「あの子」と呼んで名前の存在を徹底的に伏せ続けた。皮肉なことに、隠し通すのが過剰になって、成葉は小秋という名前が母親のものであるとは知らされず、娘の口から初めて聞くなり、それが娘につけられた本物の名前だと思い込んでしまったのだが。

 宇田が告発したログの一件も、その名前が発端だった。リハビリ施設で複数の「小秋」に繋がる医療ログがあったのは、かつてあの施設に通っていた吸血鬼の女──母親の記録が存在していたからだった。医療施設では、瘴雨患者の記録を三十年間は保管する義務がある。

 リハビリ中の少女は、宇田に対しても偽りの名前である「小秋」と母親と同じ生年月日を明かしていた。これは成葉から本来の身元を隠すためだったが、宇田がログを見て勘違いをした。無理もない。血液型、体格や欠損部位もほぼ一致する母親のログと娘である小秋のログを同一視してしまったのは自然なことだろう。

 というのも「小秋」のカルテがどちらとも紐付けされていたからだ。実はこれは、小秋に関する診療データ群と彼女の素性を宇田に疑わせ、いずれはその考え──吸血鬼の少女への猜疑心が、宇田から成葉の手に届くようにした細工だったのである。結果的にこれは上手く機能した。

 この細工を仕組んだのは、言うまでもなく成葉の味方をしたかった津吹と、彼の要請を受けたポリドリだった。

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