68話

 一呼吸の静寂。津吹は続ける。


「ひとつは──レッヒェ社に行き、二度とここには戻らない道。生い立ちや女吸血鬼たちを全て忘れて生き直す。もうひとつは──このままブランデル社に残る道。あの子の物になることを受け入れ、君はあの子と結婚し、津吹家の人間となって会社を継ぐ」


 二人の傘士は顔を見合せた。

 娘の都合に振り回された挙句、王位を退いて死んだリア王。先王を殺して王になったものの、三人の魔女にそそのかされて破滅したマクベス王。


「選択肢はそのふたつしか?」

「不満か?」

「いいえ……少々、理不尽だなぁと思っただけですよ」


 成葉は薄く嘲笑した。頭痛と目眩が落ち着かなかった。本。名前。血と足。吸血鬼──母親と父親。過去の全てが雨風の下でめぐる。不意に、彼は何もかもが無価値に思えてきた。


「面倒で仕方がないです。なんで僕ばっかり」

「成葉……」

「今この瞬間に、私がここから身投げして死ねばどうなるでしょう?かの悲劇のスフィンクスのように」

「それは無効扱いで頼む。まだ若い者に負ける気は更々ないぞ。これでも元陸自だ」


 初めてそれを聞いた成葉は息を呑んだ。

 小さな皺が目立ち始めた津吹の横顔には、明度に強弱のある月の光が流れている。その顔の中に、本当の父親の姿を探している自分がいた。あれほど嫌っていた父親であるというのに。

 成葉は自身に呆れて苦笑する。情けなさで笑った。笑うと体調不良が少し引いた。深呼吸する。人がいない分、夜の会社の空気は居心地が良い。


「すみません。第三の道はないわけですか?警察あるいは自衛隊に入るとか」

「選択肢としてはおすすめしない。配属先でハズレを引けばおしまいだ。さっきも言ったが……津吹グループの勢力圏から逃げない限り、君はあの子からは逃げられないんだ」

「それでは国外は?ドイツとか。筆談であれば私は話せますし、向こうの配血企業に入れば生きていけるかと」

「やめておけ。ヨーロッパは日本より雨が少ない分、配血業界は狭い界隈だ。傘士は日本ほど重要視されていないから、外国人の君は目立つ。ドイツ国内で転職しようが、津吹グループの海外企業が介入すれば君の居場所なんて簡単に見つかってしまう」


 背水の陣とはよく言うが、迫ってきている敵は小秋という雨だった。彼女は吸血鬼だった。背後の水も瘴雨だとしたら?

 成葉は意味もなくうなじに手を回して摩った。小秋が傘になってくれる道を考えたがありそうになかった。

 窓までは五メートル以上ある。地上五階。地面はコンクリート。津吹の足を一瞥する。頭痛が戻ってきた。退場するしかないのか──避難所から逃亡した時のように。成葉は考え込む。

 試してみようかと思ったが、窓はしっかりと閉まっている。開け放って身投げするまでのタイムロスは長そうだ。津吹と力比べで勝てる自信はない。

 それに、ブランデル社に所属している若手社員が自殺となればマスコミは黙っていないだろう。小秋の献血者探しの「狩場」として機能していた愛知支社にも汚点がつく。そうなれば、墓の下で眠る彼女に合わせる顔がない。

 結局、青年には津吹から提示されたふたつの道からいずれかを選ぶしかなかった。途中退場は許されない。自分たちの劇はまだ終わっていないのだから。


「……あなたなら、どうします?」


 成葉は平坦な声で訊ねた。


「なんだ?」

「足のなぞなぞの時と同じです。参考に聞いてみたいのです。あなたが今の僕の立場なら、どちらの道を歩くのか……」

「逃げる」


 即答だった。意外な反応だった。


「“足の不自由な人と暮らしていると、自分も足を引きずるようになる”。事実、俺はそうなった。自分が両足のくるぶしを留金で貫かれたオイディプスでもあったとしても、その幻肢痛は治せるはずだったと……俺は今でも後悔することがある」

「支社長?あなたは──」

「勘違いするな。俺は妻のことを心から愛していた。問題なのは、今になってもあいつがどこかにいるように思えてならないことだ」

「……だから、支社長は雨の中を歩かれるのですか?」


 津吹は嬉しそうに頷いた。成葉にはその笑みが不気味に見えた。


「幽霊は昔から水場にいるものだ。俺は雨が好きなんだ……あいつに会えるような気がするんでね」


 ブランデル社の都市伝説──雨の日に限って、耐雨外套姿で歩く津吹。

 そうする理由として、傘士であることを実感できるからと以前の津吹は言っていたが、成葉は釈然としなかった。今になってようやく納得がいった。課長の馬鹿げた話はあながち間違いではなかったのだ。


「それに──いや、これはまた話そう」


 津吹に言葉を濁されてしまい、成葉は露骨に嫌な顔をしてみせる。


「この期に及んでまだ隠し事ですか?」

「なに、心配しなくていい。今回の件に関する事じゃない。本質的にはあの子とは無関係のものだ。君がどちらかの道を選んだら、その時はちゃんと教えてやる」

「そうですか……変な感じです」

「何が?」

「なんだか、あなたは僕みたいに思えてくる」


 成葉は意識せず、ぼそりと言った。


「ああ……君は俺だ。昔の俺だ」


 津吹は組んでいた足を交互に入れ替えた。


「俺もあの施設の子どもだったんだ。そこからあいつの母親に拾われて……成葉という名前を授かった。吸血鬼という母に恋をしたんだ。君と同じ恋の仕方だ……その後に母は死んだ。だが妻がいた。娘も生まれた。最後に君が来て、俺は成葉じゃなくなった。今はただの名無しの津吹だよ。あの子と結婚すれば君もそうなる。名前すら失って、ただの家長になるんだ」


 先の小秋による告白にも、津吹の過去というその内容は含まれていた。津吹家の父と娘はこれで全てを話したようだった。成葉は安心する。気になる点はあれど、大筋は掴んだように思えた。

 成葉は吸血鬼に囚われた獲物だったが、津吹もそうだったのだ。


「母親と同じであの子もそう長くない。それでも傍にいるのなら、近い将来……君は彼女以外の女には何の魅力も感じないようになる。根拠の無い憶測だが、あの子は死ぬ前に娘を生むだろう。俺の妻の母親がそうしたようにな。そして生まれた娘の血液に腐心する君は、あの施設から忠誠を誓う男の子を見つけ、俺と同じことをする」

「……まるで呪いのようですね」

「的確だ」


 津吹は低く笑った。


「これは雨が止むまでの……血と足の宿痾。津吹家が背負った宿命で、吸血鬼の病。呪いだ。それに振り回され利用され、母親という女に縛られる俺たち男の子のお話なんだ」


 少しの間を挟み、津吹は口調を変える。仕事の時のものだった。


「だが君には、そのお話を断ち切る選択肢がある。具体的な話をしようか。幸いなことに短いながらも猶予はある。期限は今年の十一月末。秋が終わるまでだ──」


 今回の転職について津吹は説明した。彼の話によれば、成葉はレッヒェ社に移るにあたって、同社でもやっていけるか否か考える時間があるそうだ。

 来週から成葉は、同社のテリトリー内であり、数ヶ月前に発生した西日本豪雨で比較的軽微な被害だった地域へ赴く。表向きには国が募集している被災地ボランティアの枠を使い、書類上で辻褄を合わせる。

 実際には、現地で試用期間中の傘士として働き、会社が気に入るかどうか判断してほしいという話だ。試用期間とは、従来は会社側が新人をふるいにかけることだが今回の成葉は状況が違う。仕事を続けるか選ぶのは彼の方だった。ただし、向こうも大手だ。たかだか青年一人に構っていられるほど暇ではない。十一月末までに転職の返事ができないなら、話は無かったことにするという。必然的に、それまでの時間が成葉に残された猶予になる。業務は週二日間のみで行われる。土曜と日曜だ。現地までは新幹線で通う。往復には六時間以上かかるが、職種のその特異な性質上、傘士にはリモートワークの概念は存在しないのだから仕方ない。主な業務は会社見学だが、成葉は経験者なので義肢制作の補助や雑用もこなすよう求められる。

 転職について意見は固まっていなかったが、成葉は「分かりました」と応えた。


「先方に話が通っているのは変わりませんし……迷惑をかけないためにも、ひとまずは行ってみようと思います」

「そうか。じゃ、これが必要になる。大切に使えよ」


 紙袋を渡される。中はビニール袋に包まれた新品らしき配血企業の制服。


「向こうにいる時はレッヒェ社の制服を着用してくれ。仮にも君は転職希望者というていで行くんだ。転職するかは別にして……周りの反発を防ぎたい。マスコミによからぬ噂を立てられて、他社を刺激したくもないんだ」


 西日本豪雨で主な被災地となった北九州や中国地方は、レッヒェ社やその他の会社が大多数を占める領域である。国内最大手のブランデル社の社員が被災地でボランティア活動となると、国や自治体からの応援要請を盾にしたとしても悪目立ちしてしまうのだ。

 さて、と息を吐いた後、津吹は椅子から離れた。


「分かっていると思うが、当然……あの子は君のことを見てる」

「……監視機構のことですか」


 成葉は緊張で口内に湧いた唾を飲んだ。


「そうだ。しかしあれにも隙はある」

「逃げ道があるのですか?」

「愛知支社社員の位置情報を把握する監視機構は、県外にまでは伸びていないんだ。監視網は愛知県内。県域から出れば、少なからず屋敷にいるあの子が君を監視することはできない」

「となると、私のブランデル社のバッジや制服は……どうしますか」


 小秋は寮の部屋の合鍵を入手できる立場にある。

 ブランデル社の装備を置いて留守にしている最中、もし彼女が無断で部屋に入ってくれば一巻の終わりだ。


「君はいつもの装備で出発すればいい。ブランデル社の格好で。県外に出たことを確認してから、新幹線の中でレッヒェの物に着替えろ。戻ってくる時はその逆だ。これで監視機構からはばれないはず……荷物は増えてしまうが我慢してくれ」

「了解しました」


 成葉は紙袋をもらうと、席から立った。


「試用期間は来週末から始まるが……成葉、君の嘘は顔に出る。あの子に会うことがあっても、毎週末に不在になること自体は下手に隠すなよ」

「はい。ボランティアの応援に行くとだけ言うつもりです」

「それでいい」

「……あの」


 成葉は、話を終えて部屋を出ようとする津吹に声をかけた。


「ん?」

「お嬢様が今の支社長と似たようなことをおっしゃっていましたが……あれはどういう意味なのですか?男が嘘をつく理由はふたつあるらしく……私と支社長は、嘘のつき方が同じだと指摘されたことがありまして」

「そうだったのか」


 津吹はきょとんとした。


「……久々に聞いて変な気分だ。それは俺の妻の持論だよ。男が嘘をつく主な理由はふたつ。自分の虚勢を守るため、あるいは好きな女か母親を心配させないため。未だに信じてないが、俺たちに限れば本当かもな」


 二人の傘士──リアとマクベスは、互いに共感の苦笑を交わした。


「それなら、女性が嘘をつく理由はいくつで、何のためなのです?」

「ひとつ。自分のためだな」



 寮の自室に戻った成葉は、シャワーを浴びた後でレッヒェ社の制服を手に取った。

 紙袋から装備一式を取り出す。レッヒェ社の社員は愛知県近辺にはほぼいなかったので、制服を見てもそう嫌悪感を抱くことはなかった。これがラントシュタイナー社だと話は変わっていたかもしれないが。

 装備はブランデル社とほとんど同じだ。着替えても手間取ることはなかった。見かけばかりの接客用の制服。その上から、ダイビングスーツと宇宙服の中間のような防護服を着用し、更に二重構造になったマント状の耐雨外套を羽織る。無線端末用の裏ポケット、頭を保護するフード部の造りも同規格らしく、これまで使っていた物と使用方法や装備のパーツごとの接続・固定手順は変わらない。ひとつ違っているのはバッジだ。性能は同じ。位置情報を発信する小型チップを搭載し、自傷用の刃を収納している。だが、社を表すロゴの部分はレッヒェの黒い鷲だった。

 心臓に近い位置にそのバッジを付ける。改めて見下ろすと、そこにはいつものペリカンはいない。違和感は拭えなかったが、成葉はうき足立つような心持ちになった。別人になれた気がしたのだ。物心ついてから初めてと言っていいほど、何ものにも束縛されていない開放感を覚えたのだ。ブランデル社も津吹も、二人の小秋のことさえ完璧に忘れてしまいそうなほどに。


「……転職か」


 口に出してみた。

 青年は他社の格好のままベッドに転がる。仰向けになって全身から力を抜いた。


「考えたこともなかった」


 狭い寮の部屋の中で、成葉はぼんやりとした。これまで居場所はここにしかないと思い込んでいた。

 学んで、作って、血を抜いて、客と会社と恩人たちに尽くす──。彼にとってはそれが唯一正しい世の理だった。限られた世界に生きていた彼にある道は、それ以外にはなかった。

 現状を誰かに相談してみたかったが、成葉の周りには誰もいない。高田や宇田に話すのは違うと思った。たとえ全てを話したとしても、二人は幸せな人間だ。転職を反対するに決まっている。男として無責任だときつく罵ってくるだろう。彼らは過去との葛藤とは無縁のタイプで、きっと気持ちを汲み取ってくれない──そう思った青年は項垂れた。

 他の同僚も同じはずだ。成葉の苦悩に注目する者はおそらくいない。社長の娘との関係という一点に話題が湧くだけで、それはより一層、小秋から逃げられない状況へと追い詰められてしまうことを意味している。

 成葉は転職すると決めたわけではない。自分の立場を誰かに知ってもらい、津吹がそうしてくれたように背中を押してもらいたかった。しかし誰もいなかった。結局、彼には傘はなかった。彼は雨の下に生きていた。


 ──こうなることも含めて、支社長は転職の話を持ちかけてきたのか?


 津吹はある種の脱出手段として、転職の話を寄越してきた。彼の意見を疑いなく呑み込むなら、それは彼の最後の親心だ。

 ブランデル社も津吹グループの手も届かない場所。そこでの暮らしを安定させれば、小秋から逃げられるかもしれない。その一方で、津吹を完全には信用できなかった。


 もしも、転職の話が筒抜けだったとしたら──?


 父と娘が依然として共謀犯だと仮定すれば、成葉に隠れて、裏でやり取りをしていると考えるのが妥当だ。そう仮定すれば事態は悪化する。

 嬉々として転職し引越した直後、レッヒェ社の独身寮に入るはずが一軒家に変更させられ、不思議に思いながらそちらに入ってみると、中から小秋が「おかえりなさい」と素知らぬ笑顔で出迎えてくる……。

 全くありえない話ではなかった。成葉は身震いした。頭を抱えて縮こまる。どうすれば良いのか分からなかった。会社のマニュアルにも、これまで読んだどんな本にも、この状況の最適解を記した物はなかった。

 気晴らしに無線をつけた。うとうととしながら、気象観測課が二十四時間流しているニュースを聞く。外の雨は止んでいた。そのためか、雨雲が南下する以外には特に天候の報せはない。しばらく耳をすませていると週間予報の話になった。

 来週末は、全国的に雨の予報だった。

 今年の秋も雨が降る。

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