67話
「転職」
成葉は聞き返した。
職を転じる。別の職に転がる。ドイツ語よりも理解が難しい日本語だった。
「それって……私がブランデル社を離れるという意味ですか?」
パンフレットを机上にそっと置いた。表紙の黒い鷲が成葉を──あるいは、青年の胸にいるホワイトペリカンを見つめている。
津吹は腕を組み、すぐに解いた。顎に手をやり、また腕を組み直す。彼にしては落ち着きのない素振りだった。
「そうだ。ここを退職し、レッヒェへ。給料は大差ない」
「一体どういうおつもりで?」
「君の人生を手助けしたい。あの子の手が届かない所へ行けるようこちらで手配する、と言ってるんだ」
「……私は用済みですか。いらなくなったから、ブランデル社から追放するんですね」
「違う」
津吹は細い声で呟いた。
口の中で下唇を噛み、成葉は浅くため息をつく。津吹が言わんとしていることは概ね理解していたが、気持ちの整理がつかなかった。
先日、墓場への移動中に小秋本人の口から語られた策略が青年の耳に残留している。未だ小秋の声が錆のようにこびりついて離れない。
小秋が左足を欠損したきっかけは、他でもない成葉だった。
小秋は昔から待ち続けていたのだ。成葉が傘士になり、義肢制作や業務全般に慣れ始める時期を。そして準備が整うなり、彼女は自ら進んで瘴雨に身体を晒した。母親と同じ左足を雨の下に露出させたのである。左足を失った吸血鬼らしい身体を手に入れるために。
成葉の想いを母親によく似せた自身へ向けさせ、恋仲となるべく──それも既に二年前の出来事だ。
「あの子は母親に似て……とても嫉妬深いし、賢くて芯が太い。大人しそうに見えて相当な自信家だ。君を手に入れられないなんて考えは存在しないはずだ。その考えを現実のものにする度量もある」
「そうでもなければ故意に自分の片足を失うなんて真似はしない、というわけですね」
「まったくだ」
その時だけ、申し訳なさそうだった津吹の声が低くなった。
津吹にしてみれば、眼前の青年のせいで娘の身体が不自由になったと解釈することもできる。娘が勝手に行ったものであるにしろ、だ。親心は容易に敵を見つける。常に自分の子ども以外の何かに。
成葉のことを本物の息子だと思っていると津吹は何度か言ったが、それはあくまでも精神的なものだ。一種の強い心がけや暗示に過ぎない。成葉にはそれが不満だった。血縁のない者同士が家族になっていく類のハートフルな物語が嫌いである主な理由も同じだ。彼は他人と血で繋がりたかった。足で繋がりたかった。
青年の──否、少年のこれら昔からの願いを間接的にではあるが叶えてくれる職業が傘士だった。吸血鬼に血を与えて、足を授けて結ばれる。血と足で繋がる。天涯孤独の彼は、その激しい妄執を実現するべく生きてきた。人との確固たる繋がりが欲しかった。
傘士が救う、血と足の問題を持つ瘴雨患者──吸血鬼という現実的な存在。成葉にとってそれは数少ない希望だったが、血と足でも、理想たる関係にはまだ程遠いと彼は気づいた。自分の名前が成葉であり、それを命名したのがあの吸血鬼の女だと思い出したのだ。
不遇な育ちから親子関係を信じない成葉だったが、吸血鬼の女の登場によって、皮肉にも親子関係こそが人間の愛情を持続させる最良の手段だと結論づける他なかったのである。そこには、嫌いな名前ではなく「成葉」と呼んでくれる親のような存在が必要だった。
成葉が恋をしたのは、後にも先にも母親になってくれる吸血鬼の女のみだった。
そして、二年前に吸血鬼の女の娘が──母親のような美しい容姿や身体で青年の前に現れた。本名ではなく、「成葉」の名を呼んでくれる彼女が。母親の血を継いだ彼女が。当時の青年は胸中で
「私は……責任を取るべきなのでしょうか?」
「そんなことを口にするな」
津吹は吐き捨てるように言った。成葉は「すみません」と謝り、萎縮した。
「愛と哀れみを混合してはいけない。左足が欠けたのは、あの子自身が取った行動のせいだ。君が彼女を受け入れる義務はどこにもない」
「では、お嬢様はどうなるんですっ?」
成葉は身を乗り出した。
「失礼かもしれませんが……支社長が亡くなった後、誰が血液をお嬢様に?あなたは誰も信用していないからこそ、私のような人間を探していたのでは──」
「もういいんだ。俺が間違っていたんだ」
津吹は椅子から腰を上げた。彼の足元で何かがぶつかり、がさりと音が立つ。入室した時には目がいかなかったが、津吹は紙袋を持参していたようだ。
「娘のことは忘れてくれ。本来、あの子と君とは何の関わりもない。だから君が心配する事柄ではない。成葉はただ……自分の将来に集中してほしい」
「そんなの勝手ですよ。ここまで私に関係を持たせておきながら今になって引き下がれ、だなんて……」
「分かっている。けれど、俺は君をあの子から遠ざけようと努力していたんだ」
成葉は耳を疑った。
「考えてもみてくれ。あの子は君を自分の担当にしておこうと必死だったことはなかったか?もしくは、俺を説得するよう君に頼んだことは?」
はっとした成葉は顔を上げた。
義足制作が終わった後のことだ。傘士の必要性が点検を除いてなくなっていた時期だ。もしかすると定期配血も配送課に移行して、二人の関係が終わってしまうのではないかと小秋は恐れていた。成葉もそうだった。これで彼女とも終わりなのだろうかと。
しかし、配血も含めて担当の変更はないと津吹から告げられた。成葉は安堵した。一方で、小秋はそのことを少しも知らない様子だった。
それだけではない。先日の墓参りの際、そこに津吹がいることは小秋は予期していなかった。加えて、書籍の発行日に関するもの──『オイディプス王』を隠すためのトリックを小秋は車内の告白では語っていない。津吹による告白にも、彼女は最後まで抵抗しようとしていた節がある。つまり津吹は、小秋が有利になる動きをしていなかった事もあるというわけだ。小秋が明かしていない情報を独断で、小秋側が全く想定していない場面で成葉に提供したのだから。
「俺は君に味方したかった。もちろん、全体的に見れば……君が欲しいと言うあの子の意向を手伝ってしまったのは否定できないが」
「話が見えません……。何故なのです?血を確保するためにはお嬢様に一生仕える人間が必要だったのでしょう?奥様のお墓で、あなたが私に謝罪した時から疑問に思っていました……。支社長が、この私に味方する意味はないはずでは?」
「そうだな。君の言う通りではある」
津吹は肩を下げ、曖昧なため息を漏らした。
「お嬢様とあなたの考えは同じはずです。お嬢様は私が欲しい。あなたは忠実な献血者として私が欲しい。あなたたちの利害は一致しています。では、何故?」
「……虫のいい話に聞こえるかもしれない。俺は途中で恐ろしくなったんだ」
「恐ろしく?」
「ああ。一人の人間の生涯を方向づけることが……。妻が死んだ後、すくすくと育っていく君を眺めていくと、日を追う事にその思いは増していった。君が傘士になった頃、それは頂点に達した」
津吹は制作部屋をゆっくりと歩いた。他の社員たちが置いていった義肢を眺め、手にし、元の位置に戻す。男の重い足音で、外の雨音が途切れる。
「息子である君を津吹家に縛らず、自由にさせてやりたいと願う父親の自分と──君を津吹家の婿として迎え入れて、息子として可愛がりたい父親の自分が……いた。二人の父親が俺の中にいたんだ」
「……ですが、最初の方、小秋さんはあれほど支社長が作った義足を所望されていましたよ?」
「初めはそういう計画だったんだ」
津吹は立ち止まった。
「あの子は俺の義足を欲しがっている、と成葉に思わせたかった。話を合わせろと言われたから俺は従った。大方、あの子なりに君を嫉妬させたかったんだろう。自分のことが死んだ母親と同一視されている以上……成葉を嫉妬させるには、本物の母親にとっての夫である俺を使うのが手っ取り早いわけだ。君は、母親を独占する父親を恨む盲目の
成葉の頬に、微かな朱色が走る。
父親の作った義足しか受け入れないと言って、青年の仕事を拒んだ当初の小秋の姿。そんな彼女に歯向かうようにしながらも、本当のところは津吹に対して嫉妬していた自分を思い出したのだ。
結果として、小秋の企みは上手くいった。彼女との本格的な関係は義足の調整やリハビリ活動の日々で始まったからだ。
小秋は、初めから成葉の心の動きを読んでいたのだ。昔から津吹にオイディプス的な敵対心を抱いていた青年なら、どんな悪態をついても絶対に義足を作ってくれるだろうと。むしろ傘士の仕事を拒めば拒むほど躍起になり、生前の母親の物に似せた、あの銀色の左足を用意してくるのだろうと。
制作した義足を見た時、小秋は喜んでいた。あれは母親と同じ物を使えるからではなく、成葉を手に入れるためには母親を演じれば良いと再確認できたからかもしれない。
津吹に習うように、成葉も立ち上がった。二人の横顔が月明かりで照らされる。
「……支社長は良心の呵責に苛まれたわけですね。駒にしようと教育していた子どもが……僕が本物の息子のように思えてきた。娘の人生と息子の人生を天秤にかけるのが苦痛になった。親が子どもたちに向ける愛情は常に均等にしなければならないから、とでもおっしゃるつもりでしょう。だからお嬢様の味方をされるのと同じように、時には私にも味方した……そういうことですか?」
津吹は顎を引くように首肯した。そこには古風な父親らしい威厳が──それとも会社のトップの風格とでも言うべき何かがあった。
「許されたとは思っていない。どのみち手遅れだったのかもれない。やることが全て遅すぎた。成葉。君の中にはあいつがいるんだろう?吸血鬼が」
「そのようなことは──」
青年のその言葉を遮って、津吹が「今となっては」と少し大きく言った。
「君にも俺にも分からない。君がどちらの小秋に囚われているのか……そんな簡単なことでさえ」
成葉は視線を逸らした。
月光が雨雲に隠れた。光と足音の代わりに、雨が降る。津吹は空咳をする。
「──知っているか?中世の時代、吸血鬼とは教会が生んだ悪魔だった。敬虔なキリスト信者の敵だった。だが時に、男を惑わす存在としても語られたんだ。女吸血鬼は男たちを堕落の海に溺れさせる……ちょうど、セイレーンのように」
「セイレーン……ですか」
海原を往く男たちをその魔性で
小秋の過去の言動が降り始めた雨のようにして、乾いていた成葉の心を染めていく。青年にとって、小秋は雨であり傘だった。危険でもあり、そこから救ってくれる女性でもあった。マッチポンプという意味ではない──彼女は雨にもなり、傘にもなる。相容れないのに、それらの性質を奇妙に両立させていた。
「成葉、これを覚えているか。われに?」
「われ?」
「われに?」
「……何ですか」
「われに純潔と?」
「はい……?あの、支社長。どうされたんですか?」
「われに純潔と禁欲を与えたまえ」
それを聞いた途端、成葉は言葉を失った。
その文言を忘れてしまっていた。男の欲望を自制するフレーズを。入社前と、ドイツ出張を控えた津吹から教わった言葉を。最後に津吹の口から聞いたのは、それこそ深夜の義肢制作部屋──この部屋にてだった。義足をめぐるやり取りの最後に。
「これはアウグスティヌスの言葉だ。改宗してキリスト教徒になり、その後司教となるが……若い頃は色欲や酒に溺れていた普通の男だった」
微かに記憶に残る、父親の背中が見えた気がした。酒に呑まれて堕落しきった父。成葉は嘔吐しそうになった。汚らわしいとさえ感じた。どうしてこうも人間は汚いのだと。何故、己の欲求すら満足に我慢できない──?
潔癖かつ神経質なこの青年には、人間の望むあらゆるものが穢れに満ちた邪悪に思えた。そこに足を取られかけている自分も、汚れていると思った。
「違いますっ。私は……あんな奴とは違います。怠惰になんてなりませんっ。私は傘士なんです」
「それなら即座に暗唱できなかったのは何故だ?」
「違う……違うんですよ。偶然です。本当に偶然です。私は忘れていません。私は甘えてなんか、堕落してなんかいません……」
頭痛と目眩に襲われた。成葉は片手を制作テーブルにつけて身体を支える。
われに純潔と禁欲を……と短く何度か口内で息のように呟く。傘士に過ぎない青年にはそれしかなかった。胸の前で十字を切ることは無意味だった。
──いつから?
一体どれくらい前から、小秋と一緒にいる間、この文言を唱えなくなっていたのだろう。成葉は思い出してみようとする。
義足の採型時、小秋の生足に触れた時に何度も唱えた記憶はあった。女の身体と手触りと甘い香りに、負けてしまいそうになったから。それ以降はもはや彼には分からなかった。いつの間に、小秋という女に心を奪われてしまっていたのだろう。
吸血鬼の彼女を前にすれば、培ってきた真面目な傘士としての好青年的人格すら、安いメッキのようにしか思えなかった。成葉にはそれが恐怖だった。吸血鬼の青い瞳に、本性を見透かされてしまうのではないか。そう疑いたくなるような、潜在的な怖さが彼女にはあった。
「別にいい。気にするな」
津吹は、
「分かってくれたか?あの子は君が考えているよりずっと
足元の紙袋を持ち上げ、津吹は机上に置く。パンフレットと並んで成葉に示される。
「最終的に選ぶ権利は成葉にある。君の意見を全面的に尊重しよう。約束する」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます