66話

「配血業界は必死なんだ。少子化という時代にあってもそうするしかない」


 津吹は墓石に触れて、空を仰いだ。雨が夫妻を濡らす。


「瘴雨が止まない以上──国民の輸血医療は生涯必要となるのに、対応する人手はいつ不足している……。それに、日本人の血液型は諸外国に比べると偏っている。Rh血液型が陰性マイナスである人間の割合が極端に少ないんだ。国内の配血企業がどこも希少血液型の人間を欲しがるのは、それが主な理由だ。しかし、そういう人材の恒常的な確保は容易ではない。地域住民の個人情報をしらみ潰しに調べ上げ、血液型だけを見て個々に求人を出そうものなら……それこそナチスの後追いになってしまう」


 そういえば血液型による性格診断はドイツが発祥だと、成葉はふと思い出した。

 残念なことに、彼らの誤った説は次第に歪みを増していき、大戦前に指導者が掲げた人種差別を主とする過激な理論を多少なりとも手伝ってしまった。欧州は戦争の歴史で築かれている。もっと言えばそれは血の話だった。人種による血の隔たりという幻想で互いを遠ざけ、幾度も飽きることなく戦争を繰り返した。シェイクスピアが書いているように血の違いなんてものはないのに、何百年も気づこうともせず。

 そうしていつの間にか、バルカン諸島や東欧地方の伝承に過ぎなかった吸血鬼が、欧州を支配していた教会による後押しによって、多様な肉付けを施された。悪魔の代理として。人間の心の内の虚像として。敵として。

 吸血鬼とは畏怖の神話として形作られたのである。人々が「川」を境にした外敵を憎み、間違っても自分自身がそうはならないよう戒めるために。自分が「川」を越えないように──吸血鬼にはならないために。


「……配血企業において人材確保は切実な問題なんだ。綺麗事では済まされない。だから我々は今回も同じことをした。被災地の子どもを集めて施設に送り、傘士になるよう誘導教育を……。だが今回は……会社のためだけではなかった。俺たち夫婦の私情が入っていた」


 津吹は小秋を見た。


「生まれたばかりのその子が、吸血鬼だったんだ。足こそついていても、母親の乳のように血を飲まなければ死んでしまう……新生児の吸血鬼だった」


 小秋は何か言いたげに目を細めたが、口は開かなかった。

 車内で彼女からこの話を聞いた時、成葉は大して動揺はしなかった。ポリドリと宇田による介入のおかげもあり、早い段階で小秋に関して隠蔽されていた事実のうち、吸血鬼化の時期の矛盾については事前に知っていたからだ。

 小秋は生まれた時から吸血鬼だったのだ。

 犬のオルトロスから生まれたスフィンクスが犬であるように、吸血鬼の女から生まれた女もまた吸血鬼だった。彼女は遺伝により、胎内で既に吸血鬼化していたのだ。

 とはいえ、小秋が左足を失ったのは2016年の梅雨期なのは事実だ。吸血鬼だった小秋は、同時期に瘴雨を浴びて足を喪失した。それを成葉や宇田にはあえて伝えなかったのである。ある目的のために。


「その子は、今にも死んでしまいそうなほど無力な赤ん坊だった。しかも……あいつの虚弱な身体は出産を経て更に弱っていた」


 成葉は歯を食いしばった。そうでもしないと、涙が今にも零れてしまいそうだった。

 先の小秋による告白では、夫人──とりわけ津吹家の吸血鬼たちをめぐって、このような背景があった。

 津吹夫人──吸血鬼の女は、悪魔と取引をしたかのように美しかったが、昔から非常に弱い身体だった。昼夜問わず、まともな外出は月に数日あれば良い方だったそうだ。実は彼女も生まれつき吸血鬼だった。驚くべきことに彼女の母親も吸血鬼である。血から引き継いだ吸血鬼という病魔は、津吹家の女たちの身体をむしばんでいたのである。

 もう助からないと診断を下されると、吸血鬼の女は夫の津吹とは一生涯を共に歩めないと悟った。彼女はいつからか実家を出て、郊外に構えてある洋風造りの屋敷でモンテーニュに習った暮らしをした。過去に自分の母もそこで若くして息を引き取ったという、いわくつきの屋敷で。多くの本たちに埋もれながら。

 死にながら吸血鬼の女は生きた。愛する夫との時間と、彼から吸う血液が辛うじて彼女の命を留めさせていたが、それも時間の問題だった。無慈悲にも、津吹家の宿痾しゅくあは待ってくれない。新たに血液を欲する娘も生まれた。


「俺は二人とも守りたかった」


 津吹は懊悩おうのうとした様子で言った。


「そのためなら、別の人間の血を飲ませることも苦ではなかった。手段を選ぶ気はなかった。なのにあいつは……拒んだ。その子の分の全血製剤も決して受け取ろうとはしなかった。輸血用の血液を俺一人に任せようと……」

「それってまさか──」


 ぞっとした成葉は、そこで言葉を切った。輸血拒否というやつだろうか。宗教上の理由ではなく、このような形であるとは。

 津吹は、外套の上から胸元についているバッジを握った。


「俺はペリカンになろうと誓った。血を我が子に飲ませて養う、欧州の鳥の伝説に習ったんだ。“親の血を吸うあのペリカン娘を生んだのは、この肉体だからな”」


 『リア王』だ。成葉には分かった。娘に振り回されて、破滅する王様の話……。『マクベス』と並ぶシェイクスピア四大悲劇のひとつ。


「支社長は、どうされたのですか。それから」

「変わらず与え続けたよ。数百ミリリットルぐらいなら、規定の採血限界を越えても不可能な量ではない。採血課や赤十字の連中、本社からの査察にばれるわけにはいかなった……という点に変わりはなかったが」

「そんなことできるわけがないじゃないですか。社員の採血量は常に記録として残されているはずです」

「記録に残さないとしたら?」


 成葉は考えた。どうやればそのような真似ができるのだろうか。内通者のポリドリに改竄を依頼したのか、と予想したが、彼はあくまでもリハビリ施設の人間であって、血液そのものの業務に手を伸ばせる立場ではないだろう。

 社長特権という線もなさそうだ。社内機関の採血課を黙らせることが可能でも、全血製剤の製造は赤十字社にしかできない作業だ。

 要するに、赤十字社を介さずに血液を小秋に与えなければならない──。


「もしかして……吸血?直接の輸血を?全血製剤への加工手順を踏まず……お嬢様へ?」


 沈黙が返ってきた。成葉の額に冷や汗が伝う。

 輸血医療においては、患者に対し、患者の近縁者が輸血するのは望ましいことではない。血液の中に残存する献血者のリンパ球が患者の身体組織を攻撃する危険性があるからだ。放射線照射によるリンパ球の破壊処置の工程を経ていない、純粋な生血なら尚更のことだ。これは一般人の従来式の輸血でも同様である。

 献血者と患者の間に、血縁関係があるのは避けなければならないのだ。

 過去、小秋に噛まれた首元にかゆみが走った。成葉はそこに手を当てる。彼もまた、小秋に生血を献上した人間だ。


「俺の身体がどれだけ崩れようとも、たとえ死が待っていようとも、あいつとその子が救えるなら俺は構わないと考えていた。だが、限界があるのは言われずとも分かっていた。病弱の妻を看取って、俺も死んだ後……遺された娘はひとりぼっちだ。生涯、誰が俺たちの娘に血液を与える?俺と妻は、それが気がかりになった」

「誰って……津吹家に仕える人間や、もっと言うのなら津吹グループに託せば良いのではありませんか」

「そいつらが潰れたとしたらどうする?」

「えっ?」

「津吹家はたしかにかなりの良家だ。津吹グループも他の旧財閥と肩を並べるほどではある。しかしそれらも絶対じゃない。何かしらの不祥事で潰れない保証は誰にもできないだろう。俺の違法輸血だって、世間に漏れればブランデル社はおしまいだ。万が一そうなった場合、娘の面倒は誰が?」

「そんな話……」


 ──大袈裟だ。


 津吹の話を聞いた成葉の感想は、一言で表すのならそれだったが、口には出せなかった。親心というものは、時に子どもの理解の範疇を越えるものだと感じ取ったからだった。


「……だから、俺たちは探した。将来、娘に徹底した忠誠を誓ってくれるようになる素質を持った子どもを。そこに……成葉……そう、君が来た。B型でRh型がマイナス。持病もなし。自衛官の父親譲りで身体は頑強になる見込みがあり、年間の採血量が女性よりも多い男の君が」


 吸血鬼の女が静かに微笑む情景が、成葉の中で、雨のカーテンに遮られながらも確かに見えた。


「俺たちの目の前に、雨で失った母親を忘れられない男の子の君が来てくれたんだ。母親という幻肢痛コンプレックスにもがき苦しむ──オイディプスのような君が」


 成葉は頬に熱を感じた。小秋の視線がそこにひしひしと刺さった。小秋の瞳は笑っていなかった。憐憫と嫉妬が激しく渦巻いていた。


「案の定、君は我々に絶対的な恩義を抱いてくれた。君は小さい頃から何事にも決して手を抜かなかった。そこで俺たちは、君が今後歩むであろう読書歴から『オイディプス王』を奪った。全て順調にいった。君はブランデル社の傘士になり、娘の担当となって、ついに今日まで忠実に仕えてくれた。母親の虚像をその子に投影してな。“良い靴は足の形の良さをあらわす”……その義足が最たる例だ」


 津吹は、小秋の左足を指さした。吸血鬼の女が装着していた義足と同じデザインの足。

 恥辱と憤りに駆られた成葉は一歩前に出る。小秋の傘から身体が出たので、頭から雨に打たれた。秋の雨はひどく冷たかった。

 青年の身体の奥底から、秋雨の寒さに晒されたあの日の記憶が蘇った。吸血鬼の女に名前を与えられた、雨の時間。曇天の光を鈍く反射する銀色の義足。陶器のように白く優美な温顔。首をかしげて揺れる白髪。男の一生を決定づける力に満ちた、フランス人形のような碧眼。優しく頭を撫でてくれた手。『マクベス』の背表紙。悲劇の主人公の名前はやめた方が良いと忠告してくれた、母親という女の声……。


「嘘だ!そんなの嘘だっ!支社長と奥様は、僕を利用していたとでも言うんですか!?」

「そうだと言っている」

「そんなことあるわけがないっ。奥様はお優しい方でした……奥様、奥様は……。奥様は私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!」


 絶え間なく雨が降りしきる墓場で、成葉という青年の──少年の叫び声が響き渡った。


「君の母である前に、あいつは俺の妻だ」


 津吹はそれっきり何も言わず、生垣の囲いから出ていった。オイディプスに呆れて退場した、預言者テイレシアスのように。

 傘士と吸血鬼の少女は、ぼんやりと墓石に目をやるしかなかった。やがて、こつこつと義足が、雨の波紋を描くコンクリートの上を踏む。小秋が成葉に近づいたのだ。小秋は傘を青年の頭上に差し出した。ざあざあと耳に流れてきた雨音が、ふっと低くなる。


「成葉様。お身体が冷えてしまいますよ。わたくしたちもそろそろ──」

「私は……」


 成葉は傘の下から出た。彼は墓前の薔薇を拾い上げる。


「何故です?どうしてこんな花を供えるのですっ。支社長もお嬢様も……あなた方は奥様に失礼だとは思わないのですか」

「思いませんわ。死人は三途の川を渡ってきてはいけないのですから」

「……あの時」

「はい?」

「あの時、母さんと溺れ死んでおけばよかった。僕は熱で寝込んでいて、母さんの足を抱きしめていたんだ。あれを離さなければ……こんなことには」

「全ては過去のことですわ」


 小秋はため息をついた。


「それから……何度も言わせないでください。わたくしは小秋ですわ。小秋という名を新たに継いだ、貴方の吸血鬼なのですよ」


 小秋はにこやかに近づき、再度、傘で彼を雨から守った。彼女は傘を握っていない方の手を上品な仕草で出すと、青年から薔薇を奪って墓の傍に捨てた。


「一緒に帰りましょう?成葉」



 義肢だらけの制作部屋は、外部の人間にはとても不気味に見えるらしい。特に夜間は。

 時折、雨雲の隙間から覗く月光が入り、義肢たちを淡く照らしている。午前一時。その部屋には二人の傘士がいた。

 成葉の抗議を聞いて黙っていた津吹だったが、ようやく視線を青年へ戻した。津吹は制服の胸元に付いているホワイトペリカンのバッジを外し、指で弄んだ。


「今の時間ならあの子も眠っているだろう。我々がこうして会ったことも、疑うだろうが確信は持てないはずだ」

「用件は何ですか?」


 成葉は突き放すように端的に言った。


「信じてくれないのも無理はない。たしかに、俺は少なからず君を利用した。君の弱みにつけこんで、親代わりを演じた。それでも俺は……君を本物の息子だと思っている」


 成葉は作りかけだった義足に目を落とす。


「帰ってください。私はもうあなたと話したくありません」 

「頼む。最後にもう一度だけ信じてくれ……これがその証拠だ」


 そう言って、津吹は制作用の広い机上に書類封筒を置いた。


「……これは?」


 やや重い封筒を手にしながら成葉は問いかけた。


「俺からの提案だ。どうするかは君に任せる」

「提案、ですか」

「ああ」


 中身を取り出すと、プリント類と薄いパンフレットらしき物だった。ざっと文面に目を走らせる。駆け足で。ふたつの目で。

 プリントの明朝体の文章を読み上げるものの、半ば理解が追いつかない。


「西日本豪雨災害における、義肢装具士のボランティア募集……宿泊施設、交通費等の支給について……」


 西日本豪雨の被災地が傘士のボランティアを集めているそうだ。しかしそれがブランデル社と何の関係があるのだろう。同社は九州方面進出を諦めたのではなかったのか。

 パンフレットの方を開く。義肢や耐雨外套の装備の写真が載っている。こちらはなんとなく親しみのある明るい文字フォントだった。


「……こんな時代だからこそ堅実な物作り。義肢を自分の手で作ろう。外套を着て雨の中を歩いてみよう。採血を受けよう。あなたも憧れの傘士になれる……職場体験会のお知らせ……学生向け、社会人向け……。求人情報。義肢装具士の中途採用、新卒正社員の募集要項……」


 閉じるなりひっくり返して、表紙を見た。賢そうな黒いわしが、義足と血液袋を掴んで翼を広げている会社のロゴマーク。ドイツ血液型研究協会を創設したオットー・レッヒェから取られた社名──パンフレットは、九州方面を拠点とするレッヒェ社の物だった。


「配血企業同士はすこぶる仲が悪いが、一枚岩じゃない。俺の学生時代の知人が今、あっちで義肢装具士課をまとめているんだ」

「……お知り合いが?」

「そうだ。ものは試しにと思って電話したら、喜んで承諾してくれた」


 津吹は微笑した。


「これを私に……その、どういうおつもりなのですか」

「転職しないか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る