65話

 雨が降る──深夜の制作部屋。

 たまっていた仕事を独りで片付けているところに津吹が来た。成葉は驚いて、作りかけの義足から顔を上げる。


「お疲れ様です、支社長。どなたかお探しで?」

「君だよ。話をしたくてな。残業してるだろうとここの課長が教えてくれたから」

「そうでしたか」


 成葉は、制作スペースにある椅子に促した。津吹はそちらに腰を下ろす。彼が青年に向ける砕けた笑みは、後ろめたさを含んでおり、少しばかり引きつっていた。


「課長の奴、最近どうだ。仕事を君に押しつけたりしてないか」

「特にそういうことはないですよ」

「そうか。知ってると思うが、課長の奴、前に息子さんが怪我したんだ。退院してから少し親バカになったのか……仕事を抜け出すようになってな。おかげで上は困ってるよ。せめて部下には迷惑をかけてないといいんだが──」

「無駄話は聞きたくないのですが」


 父親と息子。

 成葉はその話題に苛立ち、本題に入るように言った。津吹は表情を暗くする。


「……あれから一晩たったが、気分は?」

「最悪ですね」

「だろうな」

「心底失望しましたよ。私は本当にあなたを尊敬していたのに」

「すまなかった。だが、俺はああするしか……他に道はなかった」

「ああするしかなかった?だったら、私のこの十八年間は一体何だったのですか」


 津吹は黙った。



「本?」


 雨音の中にあって、その単語は奇妙に耳に入った。

 名古屋の地下劇場での『オイディプス王』鑑賞後、津吹家の墓参りに訪れた成葉と小秋は、待ち伏せしていた津吹と鉢合わせていた。

 そこで津吹から、小秋が未だに明かしていないであろう事実を聞かされた。それというのが──「本」らしい。


「……どの本のことですか、私に渡した本って?色々あると思いますが」


 成葉が訊ねた。


「全てだ。厳密には、規制法の検閲に該当する書籍だけだが……とにかく、これまで君に渡した本の全てだ」

「規制法?」

「瘴雨が降ってから……雨や足、血の表現を制限するようになった、読書家にとっては厄介な例のやつだ」

「それは知っています。でも、だから何だって言うんですか?」


 内心、津吹が言わんとしている旨は成葉も理解していた。それでも津吹本人の口から確認できるまでは信じたくなかった。一縷いちるの希望にすがりたかった。


「俺たちは、これまで成葉にオイディプスの存在をひた隠しにしていたんだ」


 その一言をついに聞いてしまった。数秒間、成葉はぎゅっと目を閉じた。『オイディプス王』を観る前に抱いた違和感に合点がついたのである。

 英文学をはじめ、成葉には幼い頃から鍛え上げた豊富な文学的教養がある。否、あるはずだった。しかし『オイディプス王』の存在だけはごっそりと抜き取られたように認知していなかった。初めて聞いたのは劇場にて、開幕前に小秋から教えてもらった時だ。

 そこで成葉は無意識にこう考えた。誰かがこの血と足にまつわる悲劇を私が触れないよう意図的に遮断していたのでは、と。そんなくだらない話はあるはずがないと信じたかったが、津吹がそうだと認めてしまった。


「君を騙し通すのは、実に簡単なことだった」


 彼は雨も気にせずに紙の文庫本を二冊取り出した。


「あの、それは……?」

「悪いな。君たちが劇を鑑賞している間に、独身寮の君の部屋から拝借した。返そう」


 ホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』が成葉の方に放り投げられた。本を大切に扱う津吹らしくない行動だった。まるで偽物の本には興味などない、とでも言いたげに映った。

 慌てながらも両手でキャッチする。成葉の隣には、傘をさした小秋が無言で立っている。


「……成葉様」


 小秋は、霧雨のような眼差しを青年に向けた。


「ページをめくってくださいませ……発行日が記載されている部分ですわ」

「小秋さん?それがどうされたのですか」


 彼女に言われて、文庫本たちの最後のページを開く。


「……これは」


 成葉は絶句した。

 文庫本は、両方とも平成十二年以降の比較的新しい版だった。それに対して、書籍の初版発行は四十年ほど前だったのだ。

 規制法により惜しくも削除されてしまった、古い表現が楽しめるからと──率先して「検閲前の古本」を渡してきた、当の津吹からもらった本だというのにも関わらず。


「その本たちだけじゃない。その他数多くの……昔の書籍にはオイディプスの名前が出てくる。日本語版だろうと、ご親切に物語のあらすじを解説した注釈付きで。しかし俺たちは、どうしても成葉にオイディプスという神話を与えたくなかった。それで君に渡す本を選定した。ただし選定したのは本そのものじゃない。だ」


 大きな豪雨災害後、出版物は血や足や雨にまつわる表現を規制される傾向にある。去年の九州北部豪雨でも、今年の西日本豪雨でもそうした動きは少しあった。

 災害発生後に出版された本は、版を重ねる度に表現が消される割合が高くなる。つまり1974年から現在の2018年に近づけば近づくほど……オイディプスからは遠ざかっていく仕掛けになっている。

 『イーリアス』では足の悪い工芸の冶金の神・ヘパイストスと、彼が作った自律する三脚釜が出てくる。足に関する描写が平然と書いてあるのだから、文学上で重要な古典作品は露骨な吸血鬼小説でもない限り、検閲には引っかからないだろう──と心のどこかでたかをくくっていたが、現実は違った。出版社は批判を恐れてオイディプスの存在を抹殺したのだ。ホメロスの優美な著作を改悪したのだ。

 成葉は、津吹から贈られた本の発行日を詳しくチェックしてこなかった自分に落胆した。読書家として何たる失態だろうか、と。


「渡した本はなんでも読んでくれたこと、勉強熱心だったことは嬉しかった。評価もする。けどな成葉……親や教師の出すものが常に正しいとは限らないんだ」


 津吹は付け加えた。


「先方が送りつけてきた仕様書と同じだ。なんでもかんでも鵜呑みにしないことだな」


 違和感が晴れても、青年の心は曇ったままだった。隣にいる小秋を見る。小秋は何も言わない。語らぬ彼女と目だけがぴたりと合う。

 オイディプスは、序盤で盲目の預言者テイレシアスが予知したようになった。オイディプス自身も終盤で、絶望のあまり自ら両目を刺して盲目になった。成葉もそうしたかった。

 津吹は空咳をした。


「……そろそろ本題に移ろうか。今から十八年前だ。2000年の九月に東海豪雨と呼ばれる豪雨災害が発生した。名古屋周辺はあらかたそれでやられてしまった……その子が生まれて、すぐの出来事だった」


 娘の小秋と同じく、語り手は良い声をしていた。雨に男のしゃがれた声が染みる。彼は盗み見るように小秋に視線をやった。

 気を取り直すように、成葉は聞き耳を立てた。劇場から墓場に来るまでの移動中、小秋の口から真相を聞いていたので、津吹が語るその内容に何の指摘も挟まなかった。

 小秋の本当の誕生日は九月二日だ。十一月二日は、彼女の母親のものだった。


「ブランデル愛知支社は被災地の支援に乗り出した。支援という名の商売に……。当時、愛知県全域をカバーしていたのはまだ我々ブランデル社だけだった。行政は我々のことを高く買ってくれて、吸血鬼向けに製造する全血製剤や義肢はもちろんのこと、避難所や現地の病院に派遣する傘士にも、多額の投資や補助をしてくれたんだ。

 その延長で拡大したのが、ブランデル社が出資していた……県内のとある児童養護施設だった。育児放棄や被災などの理由で親と離れてしまった子どもたちが自立できるよう助け、劣悪な環境から救う……とでも言えば聞こえはいいかもしれないが、実際のところは──将来的に傘士になる人材を育てるためにあるような施設だった。分かるだろう?何のためにブランデル社がわざわざ出資しているのか。社会奉仕のため?慈善活動のため?そんなことはない……全部、会社の利益のためだ」


 雨が少し強くなった。気象情報の無線が入る。

 瘴雨の危険性がないことだけ聞き取った後、成葉と津吹は同じ動作で、片耳に装着したイヤホンを外した。


「子どもを……傘士に仕立て上げていたのですか?」


 成葉が怪訝な顔つきで訊ねた。津吹は迷わず頷き、疲れたように苦笑した。


「配血企業がブラックなのは君も嫌というほど知ってるだろう?身体もプライベートも、少なからず一部は会社の物になってしまう。まるで修道院が修道士たちに厳しく強いるように」

「……そういう面も、あるかもしれません」


 迷ったものの、成葉は肯定した。

 以前、高校時代の友人から、傘士は苦行だという類の軽口を言われた経験が今になって響いてくる。小秋にも「窮屈そう」だと心配されたことを思い返した。


「よほど憧れがあるか、就職に困っていない限り……配血業界に入る人間なんてそういない。ここはいつも人手不足だ。だったら、家庭に事情がある子どもたちを集めて、幼いうちから配血業界を身近に感じさせ……傘士になるよう導いてやればいいという魂胆だ」

「お父様は身寄りのない子どもに、空虚な未来を植えつけていらっしゃるんですのね」


 小秋が無表情で言った。彼女は、成葉の横から墓前の薔薇を注視している。青い瞳に赤が灯る。吸血鬼の瞳の奥には、明らかな敵意があった。


「ひとつ弁解させてもらうが、施設に住まう子どもたちに強制はしていない。導くと言っても、会社見学や進学、就職相談のサポートを手厚くしていただけだ。あの施設出身でも他業種に就いた子どもたちは多いし、それについて追及したりは絶対にしていない」

「……失笑してしまいましたわ。本当に健やかな子どもは遊ぶことが仕事ですもの、自分に与えられた愛情や衣食住の恩返しだなんて常日頃ずっとは考えないものです。人の親でありながら、そんな事も分からないのですか?」


 小秋は軽やかな口調でそしった。


「それは子どもが、大人になる過程で自発的に気づくべきものなのです。お父様はいつもこうおっしゃっていたではありませんか。傘士はお客様からの恩に期待してはいけない、仇で返されないだけいいと思え……と。それなのに、子どもには恩義を返すよう期待されますの……?つくづくお父様の行いは全て勝手なことですわ。大人の都合です」

「別に軽蔑してくれて構わない。お前は黙っていろ」


 津吹はあくまで成葉の方だけを見ていた。

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