第11章 繋がり

64話

 “まだここに血の臭いが。アラビア中の香水もこの小さな手をかぐわしくしてくれない。ああ!ああ!ああ!”


 ──シェイクスピア『マクベス』



 “愛のなかに、忘却の眠りを求めもしたが、

 その愛とても、かの酷たらしい娘どもに僕の血を

 啜らせるため作られた針のむしろにすぎなかった!”


 ──ボードレール『血の泉』



 “形のよいそなたの腿も足も、また美しいくるぶしの上までも血に染まったぞ”


 ──ホメロス『イーリアス』



 成葉はやつれた顔つきでハンドルを握っている。吸血鬼の少女──小秋を助手席に乗せた車は、雨に打たれながら名古屋を抜け、南へと降りていた。目指す先はひとつの墓地。そこはもう目前で、区画内にある駐車場が見えてくると、車内には微かな緊張が走った。

 隣に目をやる。小秋の白い横顔。おどろおどろしい感情を秘めているとは思えない、綺麗な少女の横顔だった。互いの視線が重なる。成葉は泣きそうになった。口の中で舌を噛み締めて、さりげなく運転に戻る。

 劇場を後にし、二人は津吹家の墓参りに向かっていた。そうすることにした理由は特になかった。今日は吸血鬼が亡くなった日というわけでもない。単なる気まぐれの墓参り。そうせざるにはいられない衝撃が、『オイディプス王』にはあったのかもしれなかった。

 ここに来るまでの道中、小秋は事の顛末を淡々と語った。理解を拒みたくなる真相に、成葉は自分がどうすれば良いのか皆目見当がつかなくなっていた。

 小秋は、小秋ではなかったのだ。

 彼女の本当の名前は……。そこまで考えたところで車を止めた。エンジンが停止すると、そぼ降る雨の音が強まったように耳に響く。

 二人は何も発しなかった。ただフロントガラス越しに雨の世界を眺めている。そのうち、ブランデル社の無線が流れた。成葉の現在位置を探知して、リアルタイムの気象情報が届いたのだ。近辺は通常雨。一時間当たりの降雨量は約三ミリ。一時間以内の瘴雨の可能性は限りなくゼロ──。


「行きましょう、小秋さん」


 折り畳まれた耐雨外套を手渡すが、小秋は受け取ろうとしなかった。


「見たところ今は弱い雨ですわ。成葉様、せっかくですから傘を使って参りませんか」


 小秋は、助手席の脇から傘を引き抜いた。上品な女性用の傘だった。布地から察するに、日傘ではなく本物の雨傘のようだ。


「傘を?」

「しばらくぶりに貴方と相合傘を……構いません?」


 迷った末に承諾した。

 小秋は先に車を出ると、傘を開き、前から回って運転席側に来た。成葉は準備していた自分用の外套を後部座席に放り投げ、彼女の方を見た。


「どうぞ、お入りになって」


 小秋が呟いた。雨を受ける傘の下で、義足をつけた白皙はくせきの吸血鬼が立っている。不意に、彼女の母親と見間違えそうになった。成葉は無言で外に出る。

 社用の制服、胸元にホワイトペリカンのバッジをつけた格好の青年が横に来るなり、小秋は彼と腕を組んで身体を寄せた。二人の身体と共に、花束が若干かすれ合う。寄り道した花屋で買った花たち。吸血鬼が好きだった白いツツジの花と、魔除けとなって吸血鬼の復活を封じる一輪の赤い薔薇だ。



「来ると思っていたよ」


 津吹家の墓前には、耐雨外套姿の体格の良い一人の男がいた。津吹だ。外套を着ているのに、傘をさしているという奇妙な佇まいだ。彼は来訪した二人に視線を巡らせ、苦笑する。


「三人揃うのはこれが初めてだな。初めての場が雨の下の墓場……これは何かの因果か」

「……お父様がこちらにいらっしゃるだなんて、わたくし聞いていませんわ」


 小秋が低い声で言った。津吹は肩をすくめた。


「言ってないからな。坊主、例の劇はどうだった……それに、この子から話はもう聞いたか?」


 父と娘の二人が成葉を注視した。

 坊主。その呼び方は、運命となったあの秋の雨の日を思い出させる。


「はい」

「そうか。ならいい」


 津吹はフードを被ると、傘を閉じた。その先端を使って、かん、かん、とコンクリートの地面を突く。傘は杖のように、第三の足のように思われた。


「昔、『雨に唄えば』というミュージカル映画があってね。表現を規制する法律が出てくる前は、テレビでもよく放送されていた。雨が降る街中で、一人の男が傘と共に踊る場面があるんだが……これが物議の的になってね──」

「お父様。こちらには何の御用で?わたくしたちの邪魔をしないでいただけると大変嬉しいのですが」


 冷たい口調で、小秋は津吹の言葉を遮った。成葉はその様子を黙って見ていた。津吹家の父親と娘が直接会話しているところを目にするのはこれが初めてだった。


「邪魔だって?デートに墓場を選ぶ馬鹿がどこにいるんだ。ひとつ先に言っておく。お前にこの子はやらんぞ」


 一瞬、成葉はそれを自分に向けられた言葉だと思った。しかし違ったようだ。小秋は険しい表情で津吹を睨んでいる。彼女が腕を組む力が強まった。「お前」は小秋のことを呼んだらしい。


 ──この子?


 成葉は、懐疑的に顎を引いた。辺りをさっと見渡す。三人の他には誰もいない墓場。生垣の外にも人の気配はない。雨が降る、閑散とした灰色の大地があるだけだ。


 ──この子とは誰のことだ?


 再びの疑問。成葉は小秋と並んで、津吹を見た。

 彼は背中にある墓石を一瞥し、すぐに二人の方に向き直った。


「……かのオイディプスは、足にまつわる過去があった。因縁を孕む名前があった。それらを駆使して、スフィンクスの謎を解き明かした。だが、その報酬として獲得した妃は、血の繋がった実の母だった。オイディプスはそうとは知らず、母を妻とした……。ギリシャ神話を題材にしたソポクレスの『オイディプス王』は悲劇の最高傑作として脈々と受け継がれた。その後、二十世紀になって一人の精神分析家に意味を見出され──とあるコンプレックスの名前となって新たに記憶された。という……少々馬鹿げた話として解釈されてね」


 コンプレックス。過去の経験が本人の意志や行動を長らくしばりつける──痛み。幻肢痛コンプレックス


「とはいえ時代が時代だった。70年代に瘴雨が降り始めると、人々の間から血と足にまつわる話題はことごとく消え去った。なんせ血を飲み、足が欠ける吸血鬼……瘴雨患者に対しては非常に不謹慎で配慮の足りないことだったからだ。血と足は」


 津吹は皮肉を込めて吐き捨てるように言い、語調を変えずに続ける。


「だからこのコンプレックスは、医学的、学術的に用いる語句だったとしても多くの人から疎まれたわけだ。毛嫌いされたと言ってもいい。足に関する神話を題材にした、近親相姦の願望……血の話。無論、許容されるはずがない。それでいつの間にか、専門の教科書を含めた全ての媒体からほうむられた。精神分析家の発見はなかったことになったし、ギリシャ神話の一覧からも抹消される羽目になった」

 

「あの、支社長。ひとついいでしょうか。神話から消えた……というのは何です?」


 成葉が口を挟んだ。津吹の言う内容が『オイディプス王』の劇を見る前から覚えていた──ある違和感に直結するものだと、青年は読書家特有の勘で判断したのだ。

 眉をひそめた津吹は傘で地面を突いた。


「ん?全てこの子から聞いたんじゃないのか?」

「お父様っ!」


 勢いよく小秋が声を上げた。


「お帰りください。わたくしは、こちらで成葉様と話をつけなければいけないのです。どうか今だけは二人っきりにしてくださいませ。お願いですから……」

「断るっ。選択する権利は坊主にある。これ以上、貴様ら吸血鬼の好きにさせてたまるか!」


 津吹は叫びに近い大声を小秋に浴びせ、あろうことか持っていた傘を彼女の足元に叩きつけた。

 地面の雨潦が水滴となって弾け飛ぶ。きゃっ、と短く悲鳴を上げて小秋が身を退いた。それと同時に成葉は彼女を全身で庇った。花束たちが舞う。制服に水が跳ねた。そんなことはどうでもよかった。青年は腕の中にいる吸血鬼の顔を覗いた。


「小秋さんっ?」


 彼女の身体にも、上品なドレスにも飛沫はかかっていない。それだけ確認すると、成葉は怒りに駆られて津吹に怒鳴った。


「何をするのですかっ。支社長!」

「……坊主、俺はただ……」


 呆然とした津吹は苦しそうに目線を逸らした。

 その目尻には浅くではあるが皺ができている。彼も歳を取った。成葉は憤る心のどこかで、冷静に津吹を観察した。


「君はこの子に騙されていたんだよ。ここで眠る吸血鬼の娘に。だが俺も……騙していた。坊主……どうか、どうか許してほしい」


 引き留める隙もなく、津吹は濡れることすら厭わずに、地面に両膝をついて頭を下げた。その光景に、成葉は途端にいたたまれなくなって怒りが霧散した。


「一体何を?支社長、どうされてしまったんですかっ。早く顔を上げてください!」


 一向に津吹は顔を上げなかった。彼は雨に打たれて灰色の地に顔を伏せている。

 見てられなくなった成葉は、小秋の手に彼女の傘をしっかりと握らせ、独りで津吹の元へ近寄ろうとするが、他でもない小秋に止められた。


「……もう行きましょう、成葉様。お母様のお墓参りは別の機会に──」

「何をおっしゃっているんですっ?支社長を放ってはおけませんよ」

「いいのです。お父様なんか気になさらないで。ね?わたくしと一緒に帰りましょう?」

「離してください。小秋さん……」

「いけませんっ。成葉様、どうか……わたくしを信じてください」


 小秋は更に力を入れて、成葉を津吹の方には行かせまいと拒んだ。悟性に溢れるはずの青い瞳には、薄い涙と不安の色が滲んでいる。声は震えて怯えている。

 傘士の青年と吸血鬼の少女の足元では、津吹が傘を投げつけた際に大きく弾けた水たまりがあった。空とコンクリートを映したその平べったい塊は、地表で裂けるように散っており、ちょうど成葉と小秋の境目に水のラインを引いていた。

 これは川だ──と成葉は思った。

 眼球の奥で、これまで目にしてきた情景が一陣の雨のように成葉を襲った。

 母を呑んだ濁流。妻がいるであろう川に向かい、彼女と同様に川に呑まれた父。

 雨に沈んでしまった、戻らない家庭と過去。


『吸血鬼になる方法をご存知ですか?』


 小秋の問いかけ。

 水の世界から、自由気ままに人間たちを覗く足のないイルカたち。溺れることのない彼らは、吸血鬼にはならないだろう。たとえ溺れたとしても、彼らは動物であって人間ではない。

 人間は、川を渡ろうとして溺れ死ぬと吸血鬼になる。一方で、吸血鬼は決して川を渡れない……。


「……支社長っ」


 成葉は川を越えないよう踏み留まった。瘴雨ではないにしろ、小秋を突き放せなかった。傘士という身体が強く拒否してきたのだ。誰かの傘になり、誰かの傘──義足を作る仕事に就く以上、それは絶対だった。


「支社長!」


 成葉は小秋と顔を合わせたままで、背後にいる津吹に声をかけ続ける。


「私は謎を解いたのです。あの足のなぞなぞを。まだ小秋さんが──あなたのお嬢様がお話していない事があると感じるのでしたら、あなたから私に教えてください」

「おやめください……お父様」


 哀願するように小秋が言った。

 次に津吹を呼ぶ二人の声はぴったりと重なった。


「支社長っ」

「お父様!」


 立ち上がった津吹は、濡れた服を払うわけでも拭き取るわけでもなく、二人に近づき、花束を拾った。そしてよろよろとおぼつかない足取りで墓に向かった。彼は躊躇いがちに、吐き出すように言う。


「……本だ。君に渡していた、本たちだ」


 その呻き声には涙が混じっていた。津吹は二色の花束を墓前に供えた。白と赤が灰色に落ち、雨に濡れる。

 小秋は抵抗を諦めたのか、成葉の腕に入れていた力をみるみる弱めていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る