63話

 吸血鬼の女とその夫が、津吹グループという巨大な企業群を率いる津吹家の人間だと知ったのは、成葉が九歳になった頃だった。東海豪雨から一年が経過した時のことである。

 成葉は、ブランデル社という配血企業が出資している児童養護施設──古い言い方をすれば孤児院なる所で、新しい生活を始めていた。自身と似た境遇をもつ子どもたちに囲まれ、親切な職員に慕われて孤独とは無縁の日々を送った。それは彼には新鮮なものだった。雨に沈んだ家庭の空気とは随分と異なっていたのだ。最初は戸惑い、本当にここにいてもいいのだろうか、と不要な心配をして周りを苦笑させた。

 彼にしてみれば、学校から帰宅すると毎日必ず誰かがいるのが信じられなかった。生前の母親も「おかえり」と出迎えてくれることはあったが、平日は大抵、パートのために留守にしていた。施設ではその手の孤立状態には陥らなかった。それ以外の時でも、部屋の中では常に誰かの話し声や笑い声が聞こえた。たまには子ども同士の喧嘩もあったが、決して放置はされずに仲直りを周りがしつこいほど手助けした。

 施設には兄弟の代わりに子どもたちがいた。親の代わりに職員たちがいた。鬱屈としてランドセルを土手に投げ捨てるような子どもはいなかったし、酒とギャンブルに溺れる駄目な父親も、父親に従うだけの優しすぎる母親もいなかった。施設は貧しい家庭とはかけ離れていた。非常に恵まれていたのだ。

 けれども、成葉は納得していなかった。

 一人っ子の彼には子どもたちは愛着のある存在ではなかったし、職員が自分の親の代役になれるとは全く思わなかった。そういう理由から、結局、彼は施設でも「成葉」という名前で呼ばれない限りは誰にも口を開かなかった。

 温かな人間たちの群れに身を置いても、少年が尊敬し愛したのは──あの秋雨に打たれる中、救い出してくれた恩人の夫妻のみだった。

 津吹夫妻は、暇を見つけては施設に顔を出していた。成葉が来てからというもの、夫妻の訪問は頻度を増したらしく、少年はそのことを職員たちから聞いた時にはあまりの嬉しさに身が焦がれた。

 僕はあの二人に愛されているんだ。そう確信し、成葉は二人の言うことに耳を傾けた。津吹夫妻の一挙手一投足、あらゆる言葉や話題に上がった全てのものをノートにとり、ちょっとした贈り物でも宝物として大切に保管した。


「成葉。今日は誕生日だろう?おめでとう。ほら、俺たちからのプレゼントだ」


 九歳の時には夫妻からサッカーボールをもらった。成葉は毎日飽きもせずにその球体を眺めた。汚したくないので日頃は外では使わず、室内でのリフティングの練習用として慎重に使った。

 ボールを外で使うのは、津吹がパスの練習に付き合ってくれる時だけだった。

 日曜のある日、雲ひとつない空の下の施設のグラウンドで、津吹と成葉は喋りながら身体を動かした。遠くの建物の日陰では夫人がベンチに腰掛けており、グラウンドで男二人がボールを使って遊んでいる様子を微笑ましく眺めていた。

 突然、強い風がすぎた。成葉は思わず建物の方を見る。夫人の──吸血鬼の女の髪が煌めくように揺れていた。透けるような美しい白髪。踊る横髪に遮られながらも、彼女の青い眼は確かな光をもって秋の海を思わせる。川の茶色の濁流ではなく、それは母なる凪の大海だった。成葉は彼女に見とれた。

 目が合うと、吸血鬼の女が先に、にこりと笑った。成葉は自身の頬が真っ赤になっていると気づき慌てて目を逸らした。


「……そっちがどうかしたか?成葉」


 不思議そうに訊ねる津吹は、少年にボールをパスした。


「な、なんでもないですよ」

「それにしては顔が赤いぞ。もしかして熱中症か?少し休もうか?」


 休むとなると、あの吸血鬼の女の元に行くのだろうか。成葉はぎくりとした。嬉しい半面、今だけは恥ずかしくて嫌だと思った。顔からは熱が引かない。


「ううん。僕は大丈夫です!まだ練習やりましょう、津吹さん」


 少年は学んでいたので、津吹のことを「お父さん」とは呼ばなかった。あの避難所で子どもとは何であるかを知ったからだ。

 所詮、津吹家の──赤の他人の家庭の子どもにはなれないのだ。どれだけ津吹夫妻が愛してくれようとも、二人が津吹家の養子としてではなく、施設に僕を預けた以上はそういうことなのだろうと諦めた。やはり捨て猫は拾われないのだ。それを身をもって実感した。

 しかし成葉は津吹夫妻を恨まなかった。自分が人間である以上、動物とは違って、恩義や忠義を忘れてはいけないのだと子どもながらに彼は考えた。新しい名前を授け、避難所からの退路を用意してくれた夫妻には多大な感謝をしていた。表には出さずとも、少年の心中での両親は津吹夫妻だった。

 いつか恩返しをしたいと思い、成葉は二人の役に立つ道を探そうと学校の勉強に励んだ。とりわけ、美しいあの夫人のそばにいられる仕事は何なのだろうと疑問に思った。

 そんな折、津吹夫人から「傘士」と呼ばれる仕事があると教えられると、少年は傘士になるために必要となる勉学に一層明け暮れた。

 夫人──吸血鬼の女との時間の過ごし方は、一緒に本を読むことだった。吸血鬼の女は施設に度々訪れては、子どもたちに絵本を読み聞かせた。優しく壮麗な母の声で部屋に響く物語と登場人物たちの台詞。成葉はそれを耳にしながら、吸血鬼の女を祈るようにまじまじと眺める時間に心酔した。

 本を読み終わり、他の子どもたちが散らばると、成葉は吸血鬼の女に近寄って、二人っきりになってから話をするのが常だった。会話は主に彼女の趣味である本のことだ。


「奥様……好きです」


 会話の中で、彼女に向かって何度そう言ったことだろう。その度、吸血鬼の女は困った様子で微笑し、少年の頭を撫でるだけだったが。成葉は、彫像のようにうるわしい吸血鬼の女が好きだった。

 片足が欠けながらも義足をはめている女の足が好きだった。自分が抱きしめていた、生前の実の母親のあの冷たい足を思い出すのだ。足の情景を。洗濯物を干すため機敏に立ち回る両足。夕方、薄暗い台所に立つ母親の後ろ姿のふくらはぎ。耳かきをするため、枕として差し出された膝……。どれも全て──女の、母の足であった。それは少年が欲するものだった。

 成葉は、吸血鬼の女を愛していた。母親代わりのその女に恋をし、本物の母とした。母親を愛していた。それと同じくらい、津吹に対しては新しい父親としての憧れを抱き、心から敬った。そして、吸血鬼の女を妻とする──津吹という「父親」を殺してやりたいと憎んだ。

 その心情にはひとかけらの矛盾も存在しなかった。少年が人生二度目に抱えた、嫉妬心ゆえの純粋極まる感情。それは尊敬する父親への敵意だった。



 垂れ幕が下がった劇場。客席が並ぶその広い空間には、一人の傘士と一人の吸血鬼がいた。


「……僕は……私は、欲しかったのです。血の繋がりが。足の繋がりが」


 涙が頬を伝う。手の甲で乱暴に拭い、傘士の青年──成葉は顔を上げる。


「お嬢様。私には、昔から大っ嫌いな物語構成がひとつだけあります。血の繋がらない者同士が家族になろうと奮励努力する感動的なお話の類です。あれがどうにも我慢できなくて、嫌いで仕方ないのです。あんなものは、普段から血の繋がりにうんざりしている──つまり健全な家族を持っている、幸せな人のためのお話でしょう?自分たちの関係性は、血に由来しないものだと正当化したい。そういう欲求に応えるためのお話じゃないですか。だから気に入らないのです、昔から……」


 吸血鬼の少女も涙を流していた。彼女は立ち尽くしたまま口元を手で抑えている。成葉は激高し、喚こうとしたが、途中でへなへなと脱力した。もはや怒りに身体を任せるだけの余力もなかった。


「……僕にはそんなものはなかった。でも僕は欲しかったんだ。繋がりが!」

「貴方のお気持ちは分かりますわ」

「嘘をつかないでくださいよ。お嬢様はいいじゃないですか、あの二人と──本当の繋がりがあるのですし。私にはない。どれだけ努力しようとそれは生まれ持ったものだからです。犬から生まれたものは犬であるのと同様に、惨めな家で生まれた人間は惨めな人間なのです。その事実を受け入れるのがどれだけ辛いものか……お嬢様には一生分からないでしょうね」

「ある役者を理解するために自分がその役者になる必要はございません。そうしなければ他人の気持ちは分からない、とおっしゃるのでしたら、人は皆……常に他人を演じる舞台役者にならなければいけませんもの」

「影法師のようにね。違いますか?シェイクスピアもそう言っているでしょうに」

「いいえ。境遇が違えども相手に共感できるのが人間の強みなのですわ」

「笑わせる。お嬢様は吸血鬼ですよ」

「ええ……そうでしたわね」


 吸血鬼の少女の悲しそうな顔を見て、成葉は己の軽率な発言に喉が焼けそうになったが、訂正や謝罪をするだけの気力もなかった。


「ねぇ、成葉様。貴方はご自身の因縁に囚われていらっしゃるようですけれど……それはわたくしもなのです。わたくしは人間ではない吸血鬼ですが、境遇が同じだとするなら……人間の貴方に共感しても不自然ではないでしょう?」


 成葉は眉根を寄せて少女を見る。


「同じというのは一体?」

「貴方は同性の親を憎み、反対に異性の親を求める……純然たるオイディプスでした。わたくしもかつてはそうだったのです」

「お嬢様が?ということは──」


 以前、吸血鬼の少女と交わした言葉が蘇る。

 初恋の相手。失恋。幻肢痛。

 叶わぬ初めての恋の幻肢痛に人は苦しみ、その喪失を補おうとしてまた誰かに恋をするのだという。まるで失った部位を人工の義肢で埋め合わせるかのように。


「お分かりになって?」


 微笑を浮かべた少女は、ゆっくりと腕を伸ばし、成葉を抱きしめた。

 二人とも涙は止まっていた。どちらからともなく薄く接吻した。その後、少女は青年の首に甘噛みした。痛みはなかった。吸血鬼の物真似をする、文学少女の不慣れな噛み方だった。


「大丈夫ですよ。心配なさらないで」


 少女の息が耳にかかった。

 本能的な危機感に突き動かされ、成葉は少女を押し退けようとしたが、逆にきつく抱きしめられてしまった。座席にもたれかかる姿勢で少女に拘束され、抱擁される。

 吸血鬼の少女の義足と生足の熱が成葉の腿や膝の上に容赦なく伝わっていく。


「わたくし、貴方だけしか見ていませんから……約束いたしますわ。ですから貴方は何ひとつ恐れずに、わたくしのことを受け入れてくだされば良いのですよ」

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