62話

 ざらついた雨が住宅街に降っている。

 その中を遮二無二しゃにむに走る少年はとっくに全身がずぶ濡れだった。額を伝う水滴が汗なのか雨水なのか、区別がつかないほどに。呼吸が切れそうになりながら、時折後ろを振り向いては再び前へ首を戻し、休むことなく足を動かし続ける。血の流れる両足に雨がしみて痛かった。

 空から降る雨が赤くないことだけが幸いだったが、それもいつまで続くか分からない。

 とにかく逃げなければ。少年は恐怖と寒さで震えていた。ただ、行く宛てはなくとも、少なくともあの場所にいるよりは──。

 激しい雨が降る、昼間でも暗い日のことだった。

 少年が誰もいない道を走り続けていると、付近の家の門から何者かが出てきた。その人物は元が大柄なのか、それとも重装備の耐雨用の外套を纏っているからか不明だったが──当時貧弱な体躯だった少年にとって、まず間違いなく熊と見間違うほど背丈がでかかった。おまけに道に出てから迷うことなくこちらを見てきたので、少年は思わず小さな悲鳴を上げて足を止めてしまった。

 しばらく互いに様子見するみたいに立ち尽くしていたが、やがて大男の方が一歩前に出た。


「そこの坊主」


 雨を防ぐための彼の外套は灰色の空と重なって、鎧のようにも見えた。

 頭部を覆うフード部の布地から、低く嗄れた声が篠突く雨の中へと響く。


「どうしたんだ。こんな雨の中……外套もなしに──濡れてしまってるじゃないか。それにその怪我は?」


 追っ手の一員かもしれない。その大男が全く無関係であることは頭の中で理解していても、理屈で否定する前に恐怖が勝った。少年は再度走り出そうとした。だが、足がもう言うことを聞かなかった。既に体力は底を尽きていた。尻が濡れることも厭いとわず、膝から崩れ落ちる。ばちゃりと不愉快な水の音がした。無機質な水たまりは、雨粒による波紋で月面のクレーターのような円状の衝撃痕を延々と繰り返し描いていた。


「大丈夫、大丈夫だ。怖がらなくていい。危害を加えるつもりはない」


 大男は少年をひょいと抱きかかえると、家の門の方に一目散に走っていった。

 このままでは連れていかれる。少年は咄嗟に抵抗しようとしたが、耐雨用であろう大男の分厚い手袋から感じたのは、微かな温かさと、今まで知らなかった優しい父親の強さだった。それらに抱かれてすぐに力が抜けた。

 門をくぐると広い緑の庭があった。丁寧に世話されていそうな毛並みの良い芝も雨でぐったりとしているが、正面玄関へと続く飛び飛びの石畳は小島のように浮かんでいた。自分だったらここをジャンプして渡っていくだろうな、と他愛もないことを考えた。しかし大の大人の足は早かった。大男は変わらず少年を腕に抱えた状態で石畳を無視し、真っ直ぐに玄関へ進んでいく。

 その時、少年の目から涙が垂れた。

 初めから追っ手なんていなかったことを呑み込んだのである。自分の足でここまで逃げ切れた訳ではなく、最初から相手にされていなかっただけなのだと。

 とめどなく涙が溢れる少年をよそに、大男は焦るように何度も玄関扉を叩いた。


「すまん!開けてくれ、俺だっ」

「どうされましたの?」


 間もなく扉が内側から開かれると、暖かな室内には美しい女性が扉に体重をかけるようにして立っていた。


「門前にいた子だ。怪我をしてる……早く手当を」

「まあ大変」


 肌ばかりでなく、髪も白い女性。彼女は落ち着いた調子ながらも、そう返事した。

 少年は女性と目が合った。玲瓏たる彼女の青い瞳は、装飾品の宝石というよりかは、陽の光を受けた秋の海を彷彿とさせるものだった。


 その後、怪我の応急処置が済むと、シャワーと着替えを与えられ、更には客用らしい寝室で身体を休めるよう勧められた。

 少年はベッドに腰かけていた。広い部屋で、壁際には本がぎっしりと並んだ本棚が整列している。室内に他の家具は多くはなかったが、掃除は行き届いていて清潔だった。


 軽いノックの音。「はい」と返事を投げた。廊下から盆を持った女性がするりと入ってくる。あの白髪の女だった。


「怪我の方はまだ痛みます?」

「はい。ちょっと」

「そうですか。早く治ると良いのですが……」


 女性はベッド脇にあるサイドテーブルに盆を置き、少年の隣に腰を下ろした。


「サンドイッチを作りましたの。お腹を空かせているのでしたら遠慮せず召し上がって」


 盆の上には女性が言うようにサンドイッチが載っていた。空腹だった少年はそちらに飛びつきたくなったが、横にいる彼女の足の異変に気づく。

 ロングドレスから覗く、足首より下が血の通った人間のそれではなかった。女性の左足は硬質の素材で固められていたのだ。

 義足──。少年はまじまじと見つめすぎたことを悪く思い、俯くように頭を下げると、女性は小さく微笑み返した。


「わたくし吸血鬼ですから。なんて……ふふ。少々古風な言い方ですね。ごめんなさい」


 女性はほっそりとした綺麗な手で少年の頭を撫でた。初めての感覚に、少年はどう反応すれば良いのか分からず、ただじっとしていた。手はしなやかで温かい。


「貴方お名前は?」


 少年は答えなかった。

 身元の発覚を恐れたからではない。自分の名前が嫌で、これまで誰かに名乗ったことがなかったからだ。親という邪悪な存在から与えられたそれが自分を表すものだなんて、一ミリも信じたくなかったのである。

 ふるふると力なく首を横に振る。


「……どうしても名乗りたくないのかしら?それとも自分の名前が嫌い?」

「嫌い」

「そうでしたのね。事情は分かりませんが……貴方のお考えですもの、わたくしそれを無闇に否定することはしませんわ」


 けれど、と女性は続ける。


「名前がないのも不便なものですよ。わたくしは貴方のこと、なんてお呼びすれば?」


 少年は思考を巡らせたが、あだ名のようなものも思い浮かばなかった。困って部屋の隅にある本棚に目をやると、シェイクスピアの『マクベス』があった。ちょうど良かったのでそう名乗った。しかし女性は静かに微笑んだだけだった。


「あれは悲劇の主人公の名前ですわ。あえて借用する意味はあまりないと思いますよ」


 少年は黙る。そうだとは知らなかった。

 見かねた女性は、ゆっくりと少年の頭を撫でた。


「……実はわたくし、ついこの間、女の子を産みましたの。今は隣の部屋で眠っていますけど──」


 何の話だろう、と少年はぎこちなく顔を上げた。


「それで、あの子の性別が分かる前に男の子の名前も考えていたんです。使わずに終わってしまいそうですから……もし貴方がよろしければ、しばらくの間そう名乗っては?」


 女神のような深い笑顔を前に、少年は頷くことの他には何も出来なかった。その様子がおかしかったのか、女性はくすりと嬌笑した。

 それは少年にとって、大男の腕の力強さと同様に初めて感じるものだった。母親の、女の、全てを包み込む慈しみの笑い。雨で冷えきっていた少年の心は溶け、眼前の彼女が本当の母親のように思えた。


「素直な子ですね。では、今から貴方の名前は──成葉、ですよ」

「なるは?なるは……」


 少年──成葉は繰り返した。その響きは春や夏のような印象を受ける。


「葉が成る。葉が美しく成長するように、という意味が込められていますの。あの子は秋生まれでしたから──秋といえば紅葉でしょう?秋は一年を通して木々の葉が最も絵になる時期なのです」


 紅葉。血に染まったような緑の葉。確かにその名に最も相応しい季節は秋だった。


「新しい名前は気に入っていただけました?」

「……あの」

「あら。どうしました?」

「女の子、名前……なんて言うんですか。えっと、隣の部屋で寝てる子」


 女性は考える仕草をした。白く上等な布地のオペラグローブが貴婦人の佇まいを際立たせ、ほっそりとした腕は産後とは思えないほど美しい。彼女の白い横髪が揺れ、優しげな笑い声が上がる。


「まだ内緒ですわ」

「じゃあ、あなたの……お名前は?」


 自分が訊かれたことと同じ質問を今度は成葉がぶつけてみた。


「わたくしの……?勝手ですけれど、それも内緒にさせていただきますわ。わたくしのことは奥様、とでも呼んでいただければそれで差し支えありませんから」

「……お母さん、じゃダメ?」


 成葉は細く甘えた声で訊ねた。女性は出会った時と変わらず、優しく透き通った微笑を浮かべるだけだった。無言でじっと成葉を眺めている。怒っているわけでもなければ、驚いている様子でもない。本棚に並べられた書籍を見て回るように、気さくながらも真面目な視線だ。

 綺麗な女性の笑顔を前にして、成葉は恥ずかしくなり顔を伏せる。


「ごめんなさい。急に変なこと言って……」

「変でもなんでもありませんよ」


 女性は窓の方を一瞥した。

 外は絶えず雨が降っている。雨勢は衰えるどころか増していた。秋の遠雷が落ちた。瞬きよりも短く部屋中に光が入る。


「成葉。無理にとは言いませんけど、少しばかり教えてくださらない?ここに来るまでの間に何があったんですの?」


 少年が無言になると、女性は肩を下げてため息をついた。呆れた調子ではなく、手のかかる子どもを相手にして仕方なしにやる母親の息遣い。


「身を寄せる場所がないのでしょう、貴方」

「はい」

「やっぱりそうでしたか。では、わたくしからひとつ提案をさせていただきますわ。貴方さえよろしければの話になりますが──わたくしたちのお家に来ませんか?」

「家は……嫌。いつだって僕をしばってくるから。家っていう場所は嫌なんです。あんな場所、いたくない」


 父親の怒声と理不尽が頭の片隅にフラッシュバックしてくる。成葉は胸がむかむかして、唾棄するように言葉を外に出した。彼にとって家庭とは穏やかなお茶の間を意味していなかった。家庭とは、あの死にゆく町の端で辛うじて存在していたかもしれない、ひどくあやふやな掃き溜めだった。


「ですが……帰る場所がないと、いつかは寂しくなってしまいますよ。人間はそういうものですわ」

「別に」


 成葉は無理に笑った。自嘲気味に口角が上がる。


「お母さんは死んだんです。お父さんも。僕の家にはもう誰もいない」

「関係ありませんよ。新しい家族を持てばいいだけのことですわ」


 女性の一言に、成葉は顔を上げた。


「貴方が心から望むのなら、いつだって誰かと繋がれますわ。貴方自身が諦めてしまったり、相手を最後まで拒むことさえしなければ……。ね?難しいことなんて何ひとつありませんのよ」

「でも、僕なんて」

「大丈夫ですよ、成葉。どうしても不安が拭えないのならわたくしが貴方を守ってあげますわ。それなら良いでしょう?」

「だって……」

「お返事は?」


 全てを許しながらも、有無を言わさず従わせる女の瞳。女性の眼差しが成葉の全身を余すところなく執拗に刺した。他者を支配し隷属させる──吸血鬼の目。母親の目。それらから逃れることは成葉には出来なかった。


「……はい」


 そう答えなければ、今すぐにも眼前の女性を失ってしまうと成葉は恐れた。女性が期待する返事をしなければと子どもながらに考えたのだ。


「うふふ。良い子ですね、成葉」


 ぱっと顔を明るくした女性は、成葉の頭をそっと撫でた。その瞬間から、少年は左足のない吸血鬼の女に魅入られた。

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