61話
「小秋……さん?」
少女が発した言葉の意味が分からず、成葉は彼女を呼んだ。
吸血鬼はぴくりとも微笑まない。起立したまま、無表情で舞台を眺めている。
「違うのです。成葉様、そこが違いますのよ。わたくしは小秋ではないのですわ」
「……いや、一体何を……何をおっしゃっているのですか?」
「教えて差しあげたはずですよ?」
小秋は隣に座る成葉を見下ろした。青色に澄んでいるはずの瞳は暗かった。
「吸血鬼は鏡に映りません。吸血鬼は、考える人間──その人物自体の虚像であるからです。貴方にとってのわたくしがまさにそうでした。わたくしは、貴方の理想像なのですよ。だからこそ……」
小秋は憐憫の情を含んだ瞬きをした。
「わたくしは今、こうしてここにいるのですわ。非力な吸血鬼として。貴方の願いを叶えるためだけに」
「願い……ね」
納得した成葉は落ち着いた。なるほど、そういうことだったのか、と。小秋──吸血鬼の少女が言おうとしている全てが読み取れた。『オイディプス王』の内容がそれを物語っている。
名前に言葉遊びがあり、足に関する逸話を持っていたオイディプス。主人公の彼は、スフィンクスの謎を解いた後、妻のイオカステとの間に子供をもうけた。だが、オイディプスは過去に父親であるライオスを自らの手で殺してしまっていた。ライオスの元妻はイオカステだった。つまり妻にしたはずのイオカステが実は自分の母親だったのだ。オイディプスはそれら穢れた現実と自身の行いに絶望する……。
「お嬢様」
成葉は他人行儀に、吸血鬼の少女に目をやった。
「僕の方から先に言っておきましょう。お嬢様の企みは無駄ですよ。僕にはあの方しかいません。あの方だけが僕にとっての理想の吸血鬼であり女性なのです」
「……あらあら、そうでしたのね。酷い人」
義足が音を立てて床を踏んだ。成葉の両足の間に、小秋が一歩、踏み込んだのだった。成葉は彼女の顔を見上げた。あの白く美しい頬は紅潮しており、涙が伝っていた。必死に唇を噛んで涙を堪えようとしても、流れ出る雨。
「あんまりですわ!わたくし……それでは何のために今日までっ」
成葉は俯いた。
*
少年が生まれ育ったのは名古屋近辺の町だった。
元々そう大きくなかったこの町は、80年代の国土交通網整備計画──いわゆる区画整理の対象地域になり、一部住民の強制立ち退きという煽りを受けた。他にも様々な原因はあったが、それが決定打となって町からは商業的な活気が失せた。「瘴雨のせい」という呪詛のような決まり文句が町中に広がったが、そこに住む人が減っていくと、途端に耳に入らなくなった。
以後、町に残ったのは他に行き場のない者たちだった。そして彼らを相手にした怪しげな商売や宗教勧誘を行う人々が徘徊するようになり、行政が気がついた頃にはもう遅かった。かつての田舎町は、県内でも下から数えた方が早いほど治安の悪い土地になっていたのだった。
陰険になったその町で、少年は自衛官の父親と専業主婦の母親の間に生まれた。近所付き合いも親戚付き合いもなく、家に友人を招いたりもしない、人の出入りがない家庭だった。家族全体に目標も夢もなかった。かといって、平々凡々ながらも日々の幸せを享受するというタイプでもない。「家族」以外の人間を敵として嫌う、ひどく閉塞的な家庭だった。
といっても、その暗い空気を形成していたのは主に父親で、母親の方は夫に文句を言わずに付き従っているだけだった。
父親は寡黙だった。だが、時に気の荒い人物だった。家庭での暴力は珍しい出来事ではなく、母親と少年は頭を下げて謝るまで殴られることもしばしばあった。加えて父親は浪費癖もあった。自衛隊での日々の鬱憤晴らしに、その稼ぎのほとんどを酒やギャンブルの類に費やしては、家族には還元しなかった。家庭はいつも貧しかった。
母親の涙を見る度に、少年はやるせなくなっていった。
「どうしてお母さんはお父さんに怒らないの?」
六歳だった少年は我慢ならずに訊いた。
プレゼントを約束した父親が、少年の誕生日の翌々日の朝になっても帰ってこなかったからである。
「ごめんね。でもね……あの人、あれでもあなたのお父さんなのよ」
母親は微笑んで返した。少年は今でもそのことを鮮明に覚えている。その笑みには息子への申し訳なさが存在していたものの、父親を一人の男として見る女の眼もあった。
少年は母親が好きだった。しかし、父親を追う彼女の視線だけは心底毛嫌いした。
家庭という狭い世界にあっても、少年は嫌いなものが多かった。周りには自分を苦しめるものしかない。少年は幼い頃にはそう理解していた。ただし嫌いなものたちに抗う術を教わっていなかったので、耳を塞いで目を閉じ、逃げる毎日を過ごしていた。
とりわけ少年が嫌いなものは自分の名前だった。それは母親の父──少年からすれば母方の祖父に当たる人物の名前と同じものだった。
少年は祖父とは会った覚えはないが、母親が飽きることなく話を聞かせてきたので、生前の祖父の背中をなんとなく掴めていた。それは父親の背中そのものだった。母親は実の父親を尊敬し、深く愛していた。だから彼の面影がある夫という男に愛情を向けたのだろう。自然と少年はそう考えるようになった。少年は母親のそんな考え方が嫌いで仕方なかった。
「──」
名前。それを呼ぶ母親の優しい声は、少年にとっては雑音でしかなかった。怒るように呼んでくる父親の声も耳障りだった。今にして思えば、父親が少年の名前を嫌っているのは当然だった。父親の立場からすれば、妻が息子を名付けた理由を気に入らなかっただろうから。
名前は人間の一生を方向付けて縛ってしまう呪いの言葉だと少年は知った。だから七歳になった日に、前触れもなく名前を捨てた。両親に呼ばれても、学校で同級生や教師から呼ばれても、徹底して無視を貫いた。
その年が明ける頃には、学校の人間は少年の真意を知ろうともせず、腫れ物を扱うようにして彼の考えを受け入れた。日差しが頬を柔らかく撫でる季節になると、両親も彼らに習った。
平成十二年。西暦2000年──少年は名前のない男の子になった。何も入っていない空っぽの器の絵に、題名すらつけられていない状態になった。清々しくあると同時に、例えようのない
それから少し経った日の下校道、夕焼けに沈む人気のない町を川の土手から眺めていた少年は、ランドセルを放り捨てた。ごろごろと転がって雑草と土でめちゃくちゃになった黒い塊が眼下にあった。少年は塊を見て笑った。独りで肩を震わせて笑った。笑いながら、泣いた。泣き伏せた。
同年の初秋、少年の父親と母親は死んだ。溺死だった。
2000年九月に発生した豪雨災害──後に東海豪雨と呼ばれる悲劇。名古屋近辺の未整備の町は例外なく雨や氾濫した川の濁流に沈み、時折、瘴雨が襲い続けて人々を蹂躙していった。
当時、インフルエンザの高熱で学校を休んでいた少年は母親と共に家にいた。次第に増していく雨の勢いに、少年と母親は身を寄せあって怯えた。避難勧告が出ていたが、母親はそれには従わなかった。ただの強い雨だと思っていたのか、それとも家を捨てたくなかったのか。少なくとも当時の少年から見ても賢い選択とは言えなかった。
ただ、父親は自衛隊の基地へ招集されていていなかったから、いつの間にか怯えは楽しさに変わった。怖い父親がいなくて良かったと少年は安堵したのだ。母親も多少そう思っていたのか、普段より顔つきは優しかった。
タオルケットにくるまり、秋の雨を聴きながら少年は母親の足にめいっぱい甘えた。母親の生足は冷たかった。元来冷え性らしい。リビングに敷かれた布団。そちらに座った母親が崩した足に少年が抱きつく姿勢だ。高熱のせいで体温調節の機能が狂っている少年の息苦しさが足の冷たさで紛れる。
「お母さん、足が冷たいね」
「そうね。瘴雨患者の人の足も、私のみたいに冷たいのかな?」
「なにそれ……」
「瘴雨を浴びて、足の機能が衰えちゃった人だよ。そういえばお父さんの足も冷たかったなぁー。お父さんは普通の糖尿病だったけど、切断一歩手前まで重症になっちゃってさ……ずっと血の巡りが悪かったみたい」
「血の流れが悪いと、冷たくなるの?」
「そうよ。だってほら、死んじゃった人は心臓が止まってるじゃない?だからね、血は命なの」
血は、命……。
そう思った矢先、壁がありえないほど軋んで、外から水や雨が入ってきた。家が流され、あっという間に母親は少年の前で茶色の波に呑まれた。少年は浮かんでいた木材や瓦礫に運良く身体を押し上げられ、凄まじい速度で外に放り出された。熱で意識が曖昧になる。不意に、川の土手で投げたランドセルを思い出した。今は自分が投げられている──何者に?自然に?雨に?薄れる意識の中で、少年はあの時のように大きく泣いた。
異変を察知したのは、水から逃げ遅れた近所の大人たちだった。彼らは少年を見つけて救助した。少年は母親のことも助けてくれと言ったが、大人たちは動けない少年を抱えるだけで精一杯だった。
父親は基地にいたので被害に遭わなかった。陸上自衛隊の災害救助部隊の一員として現地に派遣された彼は、避難所にいる少年の元には一度も顔を出さなかった。だが、妻である少年の母親を探そうと隊を離れて独断行動を取り、濁流の川に溺れて帰らぬ人となった。
一命を取り留めた少年だったが、避難所での扱いは狭い家庭の時よりも一層辛かった。
身寄りのない──というよりも分からない少年は、職員や近隣住民の大人たちの中でたらい回しにされたのだ。救助後、薄い毛布を被せられ、ペットボトルの水だけを渡されると、大人の集まる小学校のグラウンドや体育館を何度も何度も歩かされた。熱と疲労を涙ながらに訴えても、大人たちは誰も少年を気遣わなかった。とにかく目の前にいる問題の子供を最も適切であろう「家庭」に配置することだけに躍起になっていたのだった。
「名前はなんて言うのかな?」
七歳の時の決意と、現状の周囲への反発の意味も込めて、少年は意地でもその質問には答えなかった。
「僕のお母さんはどこ。お父さんは?知らない?」
少年は泣いてその答えを求めたが、大人たちは彼を見捨てた。子供にとって名前とは連絡網代わりであり──唯一の持ち物なのだった。それを自分は捨てたのだ。そう理解すると、少年は根こそぎ精神が疲れ果て、傷ついた。
数時間後、少年は体育館内のダンボールに仕切られた部屋で眠りから覚めた。布団はあっても、母親の足はそこにはなかった。ひたすら寂しかったが、熱は不思議と下がっていた。
昼食にもらったおにぎりは美味しくなかった。それをもそもそと胃の中へ運ぶ。
これから自分はどうなるのだろう、と少年は漠然と考えた。何も思い浮かばなかった。沈んだ家にも両親にも頼る訳にはいかないが、他に頼るものをひとつも知らなかった。少年が忌み嫌いながらも愛おしくぶら下がっていた、あの狭い世界は雨の底に溺死していたのだった。
「おじちゃんのこと、覚えているかな?」
ぼんやりしていると後ろから声をかけられた。
少年はおそるおそる振り返った。そこには、自衛官の父親の上官がいた。泥だらけの緑の制服の上に、自衛隊仕様の耐雨外套を着ていた。昔、家族そろって歩いていると偶然出会って話をしたことがある程度の大人だ。少年は首を横に振った。
「そっかぁ……うん、そうだよな。辛かったよね。でも、心配しないで大丈夫だよ。おじちゃんがなんとかしてあげるよ」
上官の男が避難所に来て状況は改善したように思われたが、そうはならなかった。身元が判明しても、どのみち少年を引き取ろうとする大人が現れなかったからだ。
少年にお菓子を手渡して、上官の男は苦笑いした。
「また来るよ」
数日待っても彼は来なかった。
少年は上官の男を憎もうとしたが、憎むには彼を知らなすぎた。血の繋がりもなかった。家族ではない彼を憎むには、彼の情報が足りなかった。少年は父親以外の男に敵意を向けた経験がないと今更になって気づいた。
避難所には「身寄りが全く見当たらない可哀想な男の子がいる」と噂が広まった。食べ物を恵んでくれる人はいたが、私の家に来い、私の子供になれと言ってくれる大人は誰もいなかった。
少年は自分が野良猫になっていると感じて一日中泣いて過ごした。ごろごろ、でもにゃーお、でもなく人間の汚らしい泣き声で。野良猫を拾おうという人はいない。自己よりも弱く脆い生物に、餌という形となった慈悲を贈ることに酔いしれるだけで酔いしれて、それで満足してしまうからだ。少年はそう悟った。そしてああいった野良猫が生活に困らないのは、人間の下心を見透かした上で冷たい媚びを振りまいているからだ。無論、少年にはそんな真似は出来なかった。少年は、夏目漱石が書いた猫のように名前はまだなかったものの、一人称を「吾輩」には変えられなかった。弱い「僕」でいるのがやっとだった。
大人たちの無関心と好奇心の板挟み。
少年は耐えきれず、避難所からも世界からも消えてしまいたかった。負った怪我の回復すらどうでも良かった。今後の人生すらも町の瓦礫のように無価値に思えた。早く自分という何かから遠ざかってしまいたかった。
気がついた時、少年は走っていた。
避難所から脱走していたのだ。
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