60話

「……神託を恐れて逃げた道中だ。ちょうど、五名ほどの一行と私は鉢合わせになったのだ。子馬に引かせた車に乗ってきた彼らは、道を譲れと荒々しい態度で私を責め立てた。怒った私は抗議したのだが、逆に彼らはつけあがった。憤怒に駆られた私はその感情に身体を任せてしまって、その者どもを殺してしまった……」


 青ざめた顔をするオイディプスは、イオカステの前に崩れ落ちた。


「もし万が一、それがライオスの一行であったとしたなら……」

「王よ。まだ希望はあります」


 合唱隊の長は首を横に振った。


「少なくとも、その場に居合わせた者の口から事を聞くまでは」


 イオカステが頷く。


「彼がここへ参りましたら、あなたはどうされるおつもりで?」

「もしその男の話がイオカステの話と一致すれば、私は難を逃れられるというわけだ」

「わたくしの話?」

「確かこう言っていただろう?ライオス王を殺したのは盗賊ども、と。その男が王は幾人もの手によって殺されたのだと言えば、殺害の犯人は私ではなかったことが証明される。それに反して、犯人は一人だと言えば、もはや疑う余地はない」

「しかし決して確かな話ではございません。その点について、その男が前言をひるがえすこともできましょう。それに多少の相違がありましょうとも、最初から最後までアポロンの神託の通りだったとは示されないでしょう。何故なら、ライオスはわたくしとの間に生まれる子供によって最期を遂げる運命にありましたが、あの可哀想な子は父を殺していません。それ故、私はこれから先、神託のために心を惑わすことはしないつもりでございます」

「言いたいことは分かる。が……やはり、誰か人をやって、かの羊飼いの男をここに連れてこさせてくれ」

「すぐにでもそう致しましょう。さぁ、館の中へ」


 オイディプスとイオカステが館の中に移動して暗転する。再度、合唱隊の歌が劇場を包んだ。

 少しの時間が空けられて、イオカステが館の庭にあるアポロンの祭壇に立つ場面が始まった。

 オイディプスのためにアポロンに祈りを捧げるイオカステの元に、コリントスからの使者がやってくる。その使者はコリントスの王たるポリュボスが亡くなったことを伝えにやってきたそうだ。その後、イオカステの呼ぶ声でやってきたオイディプスもそれを耳にした。

 オイディプスは呆れたようにため息をついた。


「妃よ。こんなことなら、神託に心を惑わす必要があるんだろうか?例の神託によれば、私は父を殺すことになっていたのに。だが父は、こうして私とは関係の無いところであっさりと亡くなられてしまった……。やはり神託なぞは紛い物なのであろうか?」

「ですからわたくしが以前から申し上げていたことではありませんか」

「……だが、まだ母はいる。その人が生きている以上は恐ろしい」


 オイディプスは、自分の実の母親と交わり、子供をもうけるという神託を思い出して畏怖した。イオカステはそんな彼を励ます。


「恐れていたとて、わたくしども人間にはどうしようもないことでしょう。あなたも、母親とのことで恐れてはいけません」

「それはどういうことで?」


 コリントスの使者が口を挟んだ。


「ポリュボスのつれあいであったメロペのことだ。よろしい、事の次第を話そう──」


 オイディプスは神託の件をコリントスの使者へと説明した。


「……では、その神託を恐れてコリントスの都を捨てたのでしょうか?」

「当然であろう。父親殺しになり、母親と関係を持つという未来を知っていて……そのまま暮らす者がいようか?」

「それなら王よ、すぐにでも私はその恐れをあなた様から解いてさしあげねばなりませぬ。実を申せば、私がこちらに参りましたのは──もしあなた様がコリントスへお帰りになるとなれば、褒美をいただけるかと思ってのことでございます」

「何を言う。私は帰らんぞ。母はまだ生きているのだろう?神託を信じるわけではないが、恐ろしいことに変わりはない」


 踵を返そうとするオイディプスに、使者が首を横に振った。


「お待ちを!あなた様が恐れているのは御両親に関する罪の穢れなのでしょう?」

「いかにも。だから帰らないのだ。それが何か?」

「それならば私から申し上げることがございます。その神託は、何の謂れもないことをご存知で?」

「……なんだと。どういうことだ?」

「実は……ポリュボス王はあなた様にとって、何の血の繋がりはございません」


 オイディプスは愕然とした表情で使者を見つめた。


「ポリュボスは……私の父親ではなかったというのか?」

「左様でございます」

「ならば一体……何故、私を我が子だと呼んでおられたのだろうか、ポリュボスは」

「その昔……ポリュボス王は、私の手からあなた様をお受け取りになられたのでございます。まだ赤子だったあなた様を」

「……他人の手から受けとった子供をああまで大切に育て上げるものだろうか?」

「あの方にはお子様がございませんでしたから」

「訊かせてくれ。ポリュボスはお前の手から私を受け取ったというが、お前はどこから私を手に入れたのだ?まさか男のお前が産んだわけでも、お前の子供というわけでもあるまい」

「おっしゃる通りで。私はあなた様をキタイロンの山中の奥深くで見つけたのでございます」

「何故そのような場所に?」

「私はそこで羊たちの番をしていまして」

「おお、ではお前がまさか羊飼いの男だったのか!」

「……はい。あの時の私は、あなた様を救って差しあげたのも同然」

「しかし妙な話ではないか。山中で私を拾ったというのは。私はどのような難儀な目に会っていたのだろうか」

「あなた様の両足の踝がその証拠となりましょう」

「何故この古傷のことを知っているのだ?」

「それは私が、その両足の踝を貫いていた留金を引き抜いて差し上げたからでございます」

「私は酷い辱めの印をこの身に持ったものだな」

「あなた様が今のお名前で呼ばれるようになりましたのは、それが原因でしょう」


 オイディプスはどういう意味なのだろう、と成葉は疑問に思った。


「神々に誓って教えてくれ。そんなことをしたのは父か、母か?」

「存じませぬ。それならば、あなた様を私に手渡した男がもっとよく知っておりましょう」

「お前は誰か他の者から私を譲り受けたというのか?さきほど、自分で見つけたと言ったではないか」

「いいえ。他の羊飼いの男があなた様を私にくれましたのです」

「それは誰だ?」

「確か……ライオス王に仕えていたはずでございます」

「ライオスとは……このデバイの地をかつて治めていたあのライオス王のことか?」

「左様でございます」

「では、その男と会うと思えば会えるだろうか?」

「それはお国に住むあなた様方がよくご存知のはず」


 使者の言葉を聞いたオイディプスは、合唱隊の人々へ向き直る。


「誰かここにいる者の中で、この者が申すような羊飼いの男を知っている者はいないか?誰でもいい。それらしい者を見かけた者は?言ってくれ、今こそ全ての真実が明らかになるのだ!」

「それはおそらくイオカステ様がご存知でしょう」


 そう答えたのは合唱隊の長だった。

 オイディプスはイオカステの方へ近づいた。


「我が妃よ。そなたはその男を知っているのだな?」


 イオカステは顔を背けた。オイディプスから離れ、彼とは距離を取ろうとした。その顔は蒼白だった。


「どうしてそのようなことをお訊ねになられるのですか。そう気にされることではありません。つまらない話はお忘れになってくださいませ」

「いいや、それはならぬ。これだけの手がかりを握りながら、自分の出生の秘密を明かさずにいられるか」

「いけません。後生でございます!少しでもご自分のお命を大切に思われるのなら、物事を突き詰めてお考えにならぬよう……。これ以上、わたくしには堪えられません」

「懸念には及ばない。さあ、言うが良い」

「でもどうか、お聞きになって。この通りでございます。お止めになってくださいませ!」

「いや、止めることは出来ない。最後まではっきりと真実を抱くまでは」

「それでも……これはあなたのためなのです。わたくしが黙っているのが最善の道なのです」

「それが私を苛つかせるのだ。何故そうも隠す?」

「ああ──これほどの不幸がありましょうか!ご自分の素性が誰であるのか、決してお知りにならぬように!」


 拒むイオカステには見向きもせず、オイディプスは周りを見回した。


「誰でも良いから、かの羊飼いの男をここへ連れてこい」

「……ああ、憐れなお方。これがあなたに申し上げられるわたくしの最後の言葉。これでお別れでございます」


 イオカステはそれだけ言い残し、館の中へと走り去った。合唱隊の長はオイディプスへ首をかしげた。


「イオカステ様は何をそう恐れていらっしゃるのでしょうか。何か不穏な事の前兆に思えてなりません……何もなければ万事それで良いのですが」

「構うものか。私の素性がどんなに卑しい身であってもだ。ただ、知りたいのだ。あの妃は女してはなかなかの気位だ。もしかしたら本当に、私が下賎な生まれであることを恥じているのだろう。だが……何があろうとも、運命の女神が私をこの地上に生んだ母なのだ。私はそれを信じている。かくなる上は、自らの血筋と出生の秘密を飽くまで探るまで」


 合唱隊のコーラスが流れ、オイディプスは暫し舞台の上を巡遊した。

 コーラスの雨が止むと、オイディプスは立ち止まる。舞台の隅を見つめながら彼は喜びに顔をほころばせる。視線の先には男がいる。


「察するところ、あれは……探し求めていた羊飼いの男ではないだろうか?」


 合唱隊の長が一歩前に出た。


「ええ、確かにあれは羊飼いの男でございます。ライオス王に仕えていた者です。あれは優秀な男です。彼よりライオス王に忠実なる者はいなかったと記憶しております」


 テバイの羊飼いの男が舞台中央に登場する。

 オイディプスは彼をまじまじと眺め、それから語りかける。


「コリントスの者よ、お前が申していたのはこの男で間違いないか?ライオスに仕えていたという……」


「相違ありません」


 使者が頷く。

 羊飼いの男も頭を下げた。


「はい。私はかつてあの方の召使いでありました」

「ふむ。では、どんな仕事をしていた?」

「生涯のほとんどは羊たちの世話をしておりました」

「いずれの土地で?」

「キタイロンとその近くの土地でございます」


 赤子だったオイディプスがいた山だ。

 オイディプスは使者の男を指さす。


「そこでこの男を見たか?」

「何をしていた男なのでしょう?はて、思い出せませんが……」


 使者が羊飼いの男の前に出る。


「無理もございませぬ、昔のことですから。あの頃、私どもはキタイロンの山中で、この男は二つの群れの羊を……私は一つの群れの羊の面倒を見ておりました。春から始まり、アルクトゥロスの星が暁の空に瞬く秋がやってくるまでの半年間のことです。やがて冬になると、私は自分の羊を連れて故郷の国へ、この男は確かライオス王の羊小屋にそれぞれ帰って行ったのでございます」


 羊飼いの男に対して、使者が「そうであったろう?」と確認をとった。前者はこくりと頷く。


「遠い昔のことであるが、そうであったな」

「それなら答えてくれ。覚えているだろう?いつだったか、お前は私に一人の赤子をくれたことがあったではないか。これを我が子同然に育ててくれと申して」


 羊飼いの男は顔を顰めた。


「何を言い出すのだ?そんな昔のことを訊いて、何の意味が?」


 使者はオイディプスを両手で指し示した。


「このお方はな……まだ分からんのか?その時の赤子だった方なのだ」


 それを耳にするなり、羊飼いの男の表情には逼迫した何かが走った。


「この畜生!何を言うか!黙れ!」

「よさぬか。老人よ、何をそう怒る?」


 オイディプスが仲裁に入ると、羊飼いの男は身を退いた。


「気高き王よ。私を止めないでください」

「何を言うか。この男から訊ねられた子供について何もまだ教えてもらっていない。さぁ答えよ」

「とんでもございません!この男、何も知らぬくせにやたらと無駄口を叩くのでございます──」

「進んで答える気がないのなら、無理にでも吐かせよう。捕らえよ!この羊飼いを」


 オイディプスの言葉に、周りの従者たちがたちどころに羊飼いの男の両肩を掴んだ。


「ああ、年寄りをいじめてくださいますな」

「答えよ。この男が訊ねている子供のことだ。お前はその子をこれにやったのか?」

「はい、それは確かに……しかし……」


 口ごもる羊飼いの男を前にして、オイディプスは苛立ちのあまり床を強く踏んだ。


「いつまで返答を引き伸ばすつもりか!」

「滅相もございませんっ。この男に私が子供を手渡したと既に申し上げたではありませんか」

「私が知りたいのはその先だ。その子はどこの何者だ?どこからその子を手に入れた?自分の子か?他人の子か?」

「私の子供ではありません。とあるお方に渡されたのですが……ああ!ああ!王よ!これ以上は、どうかご勘弁を!」

「……もう一度でもこの私に同じことを訪ねさせてみよ。さすればお前の命は、このテバイの地上には存在しないものだと思え」


 オイディプスが脅すと、羊飼いの男はがっくりと肩を落とした。


「仕方がありませぬ。申します……あれは、ライオス様の館で生まれた子供でありました」

「ほう。そうなると、奴隷か?それとも……まさかライオスの身内の子供なのだろうか?」

「とうとう私の口から言わなければならないのか、ああ……!恐ろしいことを……!」

「私にとっても同じことだ。それでも訊かずにはいられないのだ。さあ、答えよ」

「……あれは、あの子供は……ライオス様ご自身のお子様でした。しかし、本来はお妃様が誰よりもご存知のはず」

「……何?イオカステが?彼女がお前に与えたのか?」

「はい、王よ」

「何のためにだ?」

「殺すようにとの言いつけでした。それも忌まわしい神託を恐怖してのことだと聞いております」

「……どのような神託だったのだ、それは」

「その子はやがて、自分の親を殺すであろうと」

「ではお前は、なぜこの男に子供を……赤子だった私を渡したのだ」

「不憫でとても殺せなかったのでございます、王よ。きっとこの男に頼めば、羊を連れて自分の故郷……遠い国へ去る時に、子供のことも大切に連れていくだろうと思いまして。ところが、この男が子供の命を助けたために、この上ない災いが……。まことに、もしここにいる王こそが、この男の申すとおりのお方に他ならないのならば、王こそが……世にも呪われた生まれのお方だと、申さねばなりません」


 オイディプスは叫んだ。観客席にも轟くほど絶叫した。狼狽え、ひどく動揺した彼は悲劇的に頭上を仰いだ。


「おお、そうか!」


 オイディプスの叫びはどこまでも響いた。


「すべては生ずるべく生じたというのか!これが真実なのか──なんと非情な!ああ、天よりこのテバイと私を差す光よ!もはやこれまで!」


 照明が少し落ちた。

 合唱隊が整列を始め、舞台上に低い歌声が雨のようにたちこめていく。その中で、オイディプスの嘆きの声は止まない。


「生まれるべきにあらざる人の腹から生まれ、這い出て、交わるべきにあらざる人と交わり……殺してはならぬ人をこの手にかけてしまった!この私が!この私が──!」


 合唱隊のコーラスに包まれながら、オイディプスは館の中へと走り去っていった。


 舞台の証明が完全に落ちて、それから観客席側だけのライトが点いた。いつの間にかコーラスは止んでいた。劇は終わったのだ──あまりに唐突な閉幕だった。

 成葉と小秋だけの拍手が観客席にまばらに伝わっていく。


「この後、オイディプスとイオカステがどうなったのか……知りたいとは思いませんか?」


 小秋がそう訊ねてきた。


「どうなるんですか」

「オイディプスは自ら両目を潰し、あの酷い結末を目に入れないようにしますの。館の中で首を吊っていたイオカステを見て、とうとう絶望してしまいましたから……」

「どこまでも救いのない悲劇ですね」

「ですから名作なのですよ。それに……名前」


 小秋が美しい声で発した。イオカステのような悟性に溢れた女性のものだった。

 成葉は舞台から目を離し、横に座る小秋に視線を移した。吸血鬼の少女は静かに微笑んでいる。


「オイディプスは、ギリシャ語で腫れた足……つまり、怪我をした足を意味するそうですよ。留金で両足のくるぶしを刺し貫かれて消えない傷を負い、足に関する名前をつけられた彼は、誰にも解けなかったスフィンクスのなぞなぞをすぐに紐解くのですわ。面白い言葉遊びでしょう?」


 朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものとは何か。オイディプスはその謎を瞬時に解き明した。自らの生い立ちと「名前」によって──。


「ねぇ──様」


 本名で呼ばれ、成葉は肩を硬直させた。


「貴方は本当のお母様からいただいたお名前を捨てられたのですよね?そして、わたくしのお母様からいただいた成葉という名前を選びました。貴方が謎を解いたのも、そのおかげなのではありませんか?」

「……何が言いたいので?小秋さん」


 吸血鬼の少女はゆっくりと立ち上がった。


「わたくしは小秋ではありませんわ」

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