59話

 太古のギリシアにある──テバイは、カドモスを建国の祖とし、その血筋を受けるラブダゴス王家によって長年治められてきた由緒ある都だった。

 カドモスの孫にあたるライオスはアポロンの神託によって、やがて生まれてくる子どもに自身が殺されてしまうという恐ろしい未来を予言される。恐怖したライオスは、妃であるイオカステとの子どもをキタイロンの山奥へ棄て、この世から葬り去るようにと家僕の一人に命じる。

 二十年ほどの月日が流れ、再びアポロンの神託を得ようとしたライオスだったが、旅の道中に殺されてしまう。犯人は不明だった。一説には、盗賊たちの手によって殺されたそうだが、真相を知る者はいない。ライオスという当時の王を失ったテバイの人々は悲嘆に苦しめられ、王殺しの犯人を探そうとするが、時同じくして街にはスフィンクスが現れる。スフィンクスは人々に謎をかけ、解けない者の命を容赦なく奪っていった。


「大地に住まい、足は二つ、四つ、三つと変化するものがいる。地を這い、空を飛び、海を泳ぐものどものうち……これほど形を変えるものはいない。これは何か?」


 テバイの人々はこの謎を解けず、スフィンクスに殺されていった。もはや街は王殺しの犯人探しどころではなくなり、人々は謎を解いた者にはテバイの王位と妃を与えるという触れを出した。そこに通りかかったのは、コリントス王ポリュボスの王子であるオイディプスだった。彼はその秀でた知力をもって謎を解く。


「母より産まれた赤子は四つ足で這い、成長し、二つ足にて大地を歩む。しかし年波の重荷に堪えて背はかがみ、杖で三つ足と化す」


 答えは「人間」だとオイディプスは言ったのである。

 謎を解かれた恥辱のあまり、スフィンクスは崖から身を投げて死ぬ。その後、テバイの新たな王となったオイディプスは、かつての王・ライオスの妃だったイオカステを妻として迎え入れ、テバイには平和が戻る。オイディプスとイオカステは子どもたちを授かり、十数年もの穏やかな日々が続いた。しかしある時、テバイにまた災いが訪れる。疫病が広がり、田畑の作物は枯れ果て、家畜は死に絶えていく。

 人々は、スフィンクスの謎を解いたオイディプスに希望を抱くが──。


 物語の序盤に該当する劇が終わった。

 一旦、周囲の照明が明るくなる。次の場面を準備するために多少の時間が置かれたようだ。

 成葉は左隣に座る小秋の義足を盗み見し、小秋へ顔を上げた。成葉の方を見ていたようで、二人は目が合った。


「『オイディプス王』……これがあのなぞなぞの元になった作品なのですか?」

「そうですわ」


 九月中旬の日曜日。津吹グループが運営する名古屋の地下劇場を貸切にして、傘士と吸血鬼の二人だけを相手にとある劇が行われていた。

 劇は小秋のなぞなぞの出典元になった作品だ。タイトルは『オイディプス王』である。

 本作はギリシア神話を下敷きにした悲劇らしいが、内容が不適切だとして数十年も前に書籍からは抹消されたという。知らないのも無理はないと小秋は言ったが、成葉は妙な違和感を覚えていた。ギリシア神話を元にした作品ならいくらでも知ってるはずなのに、『オイディプス王』だけは今日までその存在すら認知していなかったのだ。

 昔から成葉は、津吹夫妻の勧めで譲り受けた古い本たちを何度も精読し、暗記するほど読み込んでいた。趣味が読書になったのも津吹とその妻の影響だった。本について語れるようになると、二人に褒められたのだ。それがたまらなく嬉しくて彼は幼い頃から様々な本に触れた。

 その上で『オイディプス王』という作品の存在を知ったのは今日が初めてだった。

 これは流石に無理がある、何かおかしい──と成葉は胸騒ぎが止まらなかった。

 この違和感の正体も、劇の結末を知れば納得がつくのだろうか。成葉は不安になりながらも、本とは違ってページを飛ばせない舞台を恨めしく眺めた。とにかく今はこの場で座っているしかないのだ、と彼は自分に言い聞かせる。

 幅の広い肘掛に手を置き、成葉と小秋は互いに手を繋いでいた。劇が再開するまで、序盤の場面を鑑賞した感想を軽く語り合う。舞台上の役者の演技は大変出来が良かった。例の違和感は別として、劇自体はこれから面白くなってきそうだった。演劇に関しては素人の成葉にもそれはひしひしと感じ取れた。


「小秋さんはこちらの劇を見たことがあるんですか?」

「劇はわたくしもこれが初めてですよ。本では何回か読んだことがありますが……」


 これまでの交流の中で、小秋がブックカバーを付けて読んでいた本の存在を思い出す。


「それにしても本当に立派な劇場ですね、ここ」


 成葉は劇場という場所に慣れていなかったので終始圧巻されていた。客数も多く、天井は高い。ひとつひとつの客席はゆったりとした瀟洒な椅子で、今自分が座っているのは舞台全体を見渡せる最上の特等席であることは彼にもよく分かった。


「気に入っていただけたようで光栄ですわ」


 小秋はこういった場に慣れているらしく、落ち着いていた。劇の最中、小秋はこちらと舞台を交互に見比べては楽しそうに微笑んでいた、と成葉は思い出す。


「ねぇ、成葉様。劇の後に少しお時間をいただけますか?」

「もちろん構いませんよ」

「ありがとうございます」


 小秋はにっこりと笑うと、成葉の手を握り直した。その力は強かった。


「お望みなら、その時に全てを教えて差しあげますわ。でもそれにはひとつ条件があります。わたくしからお願いが……」

「何でしょう?」

「もうご自分から逃げないで」

「え……?」


 小秋の返事を待っていると、照明が落ちた。舞台上だけが照らされる。劇が再開したようだった。館のセットを背にして役者たちが並んでいる。


「ね?わたくしとの約束ですよ?」


 息を殺すように小秋が小さく囁いてくる。蕩けるような甘い声が耳にかかり、緊張した成葉は身が縮まった。


「大丈夫ですわ。わたくしは貴方の望む女ですから」


 小秋の頭が成葉の肩に預けられた。隣から彼女の義足が絡んでくる。女性の匂いがした。


 セットの館の扉を開き、オイディプスが従者と共に登場する。テバイを襲う新たな災いに恐れおののく人々が助けを乞う。

 テバイの災いをどうするべきか、アポロンの神託を受けてきたのは、妃イオカステの弟であるクレオンだった。クレオンはオイディプスに神託を伝える。


「この地には……ひとつの穢れがあると。さればこれを追い払わなければならぬ、と」

「浄めの方法は?その穢れとは?」とオイディプス。

「罪人の追放。もしくは血をもって償うことだ、と。テバイの地を揺るがしている災いの元は、その流された血にあると」

「流された血だと?」

「王よ。あなたの前にこの地を支配していたのは、ライオスであった。何者かに殺されてしまった哀れな王……。そして神が命じたのは、ライオス王を殺した犯人を罰せよ、と」


 謎を投げかけてくるスフィンクスの災難で、人々からは忘れ去られていたライオスの死。アポロンの神託によれば、その死を招いた者こそがテバイを襲う今回の災いの源だという。


「よろしい。ではこの私がその出来事を明るみにしてみよう」


 オイディプスは一度、館の中へ戻った。

 合唱コーラス隊が祈りの歌を歌い始めると、すぐにオイディプスは出てくる。


「みんな祈っているな。よし、さればここに今、私が次のように布告する。ライオスが誰の手によって殺されたのか、その事実を知っている者に命ずる……直ちに申し出よ。罪を恐れているだろう。だが、今すぐにその身を明かすのなら命だけは保証し、国を追放してもらうだけに留めよう」


 オイディプスの威厳ある声に、合唱隊の長が一歩前に出た。


「おお、そのお言葉をしかと胸に銘じながら、王よ、私も神に誓って申します。先王を殺害したのは私たちではありません。これはアポロンだけが何者の仕業か告げることができましょう」

「もっともだ。だが、この世の何人たりとも……神に向かい、その意を背いて答えを強いることなど出来はせぬ」

「それでは第二の策を……」

「言ってみよ」

「テイレシアスのことでございます。先を見抜く能力においてはかのアポロンにも匹敵するとのこと。まずはあの方にお頼みになれば良いかと」

「うむ。私もテイレシアスを疎かにしていたわけではない。クレオンに勧められ、二度も使者を送っているのだから。しかし……なぜか姿が見えないのだ」

「あのお方が居てくださらなかったら、他には取るに足らない噂に頼るしかないでしょう」

「噂?どのような?」

「なんでも、盗賊どもの手にかかって命を失われたとか」

「それは私も耳にしている。だが、その場を見た者は一人もいないのだろう?」

「仰せのとおりで。もしその罪人に恐怖心があるのなら、さきほどの王の呪いのお言葉を聞いて、じっとはしていられないでしょう……あぁ、それに、真実をたちまち暴いてしまう者が一人おります」


 合唱隊の長が舞台の脇へ目をやった。


「神にも等しい預言者をとうとう連れ出して参りました」


 その言葉と共に、盲目の預言者テイレシアスが少年の手に引かれて舞台に出てくる。

 オイディプスは両手を広げて彼を歓迎した。


「待っていたぞテイレシアス!是非、そなたの知る限りの占いの手段を駆使して、そなたとこの国を救い、更には私を救い、そして死者の血によって穢されたもののすべてを救ってはくれぬか」

「ああ!知っているということは、なんと恐ろしいことであろう……そうだと心得ていた私なのに、忘れてしまっていた。さもなくば、ここまで来なかっただろうに……」

「これはいかがしたものか。何故そうも悲しそうな顔をするのだ、テイレシアス」

「王よ。私を今すぐに家へ帰らせてくれぬか。あなたも私も、それが辛い運命に耐え抜くための楽な道だ」

「なんだと?」

「拒むのは他でもない。私には分かっているのだ。しかし私はあなたと同じ過ちを犯したくないのだ」

「……テイレシアス。貴様、何を言ってるのだ?知っていることがあるのなら、面を背けず言ってはくれないか。こうして膝を折って頼んでいるではないか」

「王よ、何も知らないからそう言えるのだ!この不幸な秘密を私は明かさない……あなたの不幸とは敢えて言わぬまでもな」

「何と申すかっ?真実を知っていながら言わぬ気か。我らを裏切り、このテバイに破滅をもたらすつもりなのだな?」

「違う。私は苦しめたくないのだ。何故そうも無益な詮議をされるのか。私の口からは何も聞き出せないというのに」

「この人でなしめ!石くれでさえ、貴様には怒りを覚えるだろう。どうしてこうも拒み、すべてを言わぬのだ?」

「……あなたは私の気性を責めるのだな。だが、あなたのうちに住むあなた自身のことは見えないのか?しかも非は私にあるときた」

「この国を蔑ろにする今の言葉を聞けば当然だ」

「そうか。来るべきものは自ずとやって来よう。私が何も明かさずともな」

「来るべきだと分かっているのなら、それを私に話すのが貴様の務めではないのか」

「これ以上、私はもう何も言わぬ。怒りたいのならはばそうすればいい」

「おお、そうしてやろう。もう我慢できぬ。ではその怒りに任せて私の考えを貴様に聞かせてやろう。この悪事を企み、自身は手を下さずに実行したのは貴様だな!もしも貴様が盲目でなかったのなら、一人でやってのけただろうが」

「まことか?本当はあなたこそこの国を穢した許しがたい罪人なのに」


 オイディプスは自分が犯人だと言われて失笑した。


「よくもまたそんな馬鹿げたことを言えるものだな」

「馬鹿げているだと?あなたが私を追いつめたのではないか。そして、最も私が言いたくないことを口に出させたのだ」

「なんだと、私が何と言ったのだ?」

「……私の言ったことの意味をさっきは分からなかったとでも言うのか?」

「そうだ。だからもう一度言ってみろ」

「あなたが探し求める先王の殺害者は、あなた自身だと。そう申しておる」

「おのれ!一度ならず二度までも不埒なことを……!それがどういうことになるか、今に思い知らせてやるぞ」

「それならば、あなたをもっと怒らせるために言ってやろうか?」

「言うがいい」

「それなら言うぞ……。あなたはそれとは気が付かず、最も近しい血縁の者と情を交わしていたのだぞ。今日まで自分が置かれた、その醜い運命を悟ってはいなかったらしいがな」

「ここまできてまだ私を侮辱するのか。報いを受けずに済むとでも?」

「いかにも。真理に何らかの力が宿っている限りは」

「絶え間なき闇夜の中で生きる貴様に何ができようか、馬鹿な話だ」

「あなたほど哀れな人もそういない。その口から出た蔑みの言葉は、いずれここにいる皆があなたに投げかけるだろうというのに。それを知らずにいるとはな」

「口を慎め。では聞くが、貴様は今までに自分が本物の預言者であるとどこで証明した?あのスフィンクスがこの町のあって、謎を歌っていた時に……貴様は何故この町の人々を救わなかったのだ?あの謎は行きずりの者に解けるはずはない。預言者の力を必要とするものだろうに。つまり貴様は、まさに自分には予言の力がないことをその事実で暴露しているではないか。そこへこの私──オイディプスがやって来て、スフィンクスを黙らせた。私は自らの知恵によって答えを掴み取ったのだ」

「王よ、お待ちを!」


 そう言って、オイディプスとテイレシアスの仲介に入ってきたのは合唱隊の長だった。


「今の私どもに必要なのは言い争いではなく、どうしたら神のお告げが見事に果たせるかということだけでございます」


 だが、テイレシアスはそれを無視して続ける。


「私にも発言する権利がある。さっきは私を盲目だと罵ったな?ならば言おう。あなたの目には、自分がどのような不幸の渦中にいるのか見えていないのだ。そういうことが一切あなたは分かっていないのだ。おお……まさか自分が誰から生まれたのかも知ってはいまい?あなたはそれを知らずして、地下に眠り、またこの世に生きる──自らの近しい血縁の人々の敵となっている。あなたの父と母……両親の二重の呪いがいずれあなたをこの土地から追い出すだろう。あなたの旅の果てに、この館においてたどり着いた婚礼がどんなに恐ろしいものであったのかと気づいた時──あなたほど惨めに打ちひしがれる者は、この世には一人もおるまい」

「まだ貴様の暴言を聞かねばなるまいか?ええい、失せろ!消えろ、くたばってしまえ!とっととこの館から出ていけ!」

「ふん、呼んだのはあなたの方であろうに」

「こうも戯言を吐く老人だと予め知っていれば、誰が貴様なぞ呼ぶものか!失せろ!」

「それはそうだ。あなたの言う通り、私は愚か者だろうな。しかし、あなたを生んだ両親の目には、立派な分別を備えた人間に映るだろう」

「……何っ?両親だとっ?待て!この世の誰がいったい、私を生んだというのか!何でもかんでも謎めかして、分からないことを口にするなっ」

「何を言われる。謎解きならばあなたは誰よりも名手ではなかったか?」

「勝手に嘲るがいい。だが、貴様はいつか私の栄光に貴様はひれ伏すだろう。スフィンクスを倒したこの私の知性にも」

「ふふ。ところが、そのことが問題なのだ」

「それがどうしたのだ?私はかつてこの国を救ったのだぞ」

「そうか。それなら私はもう帰ることにしよう」

「勝手にしろ。うるさいのが消え失せれば、それでもうこの世に私を悩ます者はいなくなるのだから」

「去るからには言うべきことは言わせてもらう。よいか?私はあなたに告げる。先王殺しの犯人は、実は今この場にいるのだ。その男は誰の目にもよその国からやって来た人間であると思われてはいるものの、やがては生まれながらにしてテバイの人間であることが明るみに出よう。その男、今は目が見えるが……いつしか盲目となろう。富は失われて乞食の身となり、杖に縋り、他国を彷徨う運命が待っている。さればこれらのことを館に入ってよく考えるがいい。そしてもし偽りを発見できたのなら、その時こそ、あんな男に予言の力などありはしないと言えばいい」


 テイレシアスは少年と共に舞台から退く。オイディプスは館の扉を開いて中に入った。

 場面転換はなく、その場で合唱隊が歌を披露し、次にクレオンが出てくる。その後、彼を察知したのかオイディプスが館から再登場した。


「こやつめ!よくもぬけぬけとここに戻ってこれたな!この裏切り者めが!」


 預言者テイレシアスに侮辱されたばかりか、先王ライオスを殺した犯人の正体が掴めなかったオイディプスは激怒していた。そしてその怒りは、当然ながらテイレシアスの予言を勧めたクレオンに向けられたのだ。もしかするとクレオンは王位を狙っているのか、と猜疑心に駆られたオイディプスはクレオンを罵倒した。反対に、クレオンはありもしない疑いを投げかけてくるオイディプスに牙を剥く。

 二人の男の間に一触即発という空気感が形成されたその時、館から出てくる女性がいた。

 オイディプスの妻であり、クレオンの姉である美しい妃──イオカステだ。


「何事でございます?この愚かな争いは?国中が苦しんでいるというのに」


 聡明なイオカステによって辛うじてその場は収まり、クレオンは去った。

 イオカステは夫であるオイディプスに視線を向け、眉根を寄せた。


「王よ。神々の御名にかけてお願い致します。いったい何事でそれほどまでの激しいお怒りを?」

「……イオカステ。私はお前が一番大事であるが……今回のこと、元はクレオンだ。奴が私に仕掛けた企みなのだ」

「お続けになって」

「奴が言ったのだ。この私の手はライオス王の血で穢れていると。ライオス王を殺したのは私だと」

「自分でそうだと?他人の噂話からなる憶測なのではありませんか」

「悪党の預言者風情を私に差し向け、奴に自分の言いたいことを言わせた挙句、自分は知らぬ存ぜぬだ」

「それなら、どうかわたくしの話を聴いてくださいまし。少しは安心されるでしょう。どうせ人間は、予言という力を手に入れる者など誰ひとりいないのでございますから」


 イオカステはオイディプスを落ち着かせるため、とある小話をした。


「その昔、ライオスに神託が下されました。それはあの方がわたくしとの間に生まれる子供によって殺されるというものでした。しかし、噂によればライオスは盗賊どもに襲われたのです。一方、問題の子供はと言えば、生まれてまだ三日も経たずしてライオスに両方の踝を留金で刺し貫いた上で人手に任せて山中に投げ捨てさせたのでございます。アポロンの神託は何一つ実現しなかったのです。ライオスは自らの子供によって殺される目には遭わずに済みましたが、その代わりを埋め合わせるかのように別の死に方をしました。予言とは全ておおよそこのようなものです。それを気にかける必要はありません」

「しかし……その話を聞いて、私の胸の内はざわついた」

「何を恐れてるのです?」

「あの預言者め……本当は目が見えるのではあるまいか?」


 オイディプスの中でとある疑問が急速に冷え固まっていく。


「イオカステ、ひとつ訊かせてくれ。ライオス王の一行は何人だったのだ?生き残りはいたのだろうか」

「ええ、一人だけ。その男は今はもうここにはおりませんが……何でも、羊でも飼って暮らしたいということで。その男は奴隷にしては立派な男でしたので、聞き入れてやりました」

「すぐにでもその羊飼いの男に会いたいのだが」

「良いでしょう。申し付けます。でも、あなたの心の重荷になっていることをわたくしにも教えてくださいまし」

「もちろんだ。聞くが良い……」


 オイディプスは顔を上げて語り始める。


「私の父はコリントスのポリュボス王であり、母はドリスのメロペという女だった。私はコリントスの都では最高の地位にある者だったのだが……ある時、思いもよらぬ出来事があった。宴会の席で、ひとりの男がこう言ったのだ──ポリュボスは私の本当の父親ではない、と。後日、私は父と母にそのことを訊ねた。その男にご立腹だった二人の姿を見て私は安心した。だが……やはり心のどこかで安心できなかった。その噂は国中に広まり、いつまでも消えることがなかったのだ」


 オイディプスはゆっくりと舞台の上を歩き、イオカステの近くに寄った。


「だから私は二人には知られないようにアポロンの神託を受けに行ったが、そこで受けた神託は恐ろしいものだった。悲痛と恐怖と不幸に満ちた神託……。私は母と交わり、人々が目にできない子供を世に出し、あまつさえ自分の父親を殺すであろう、と。私は逃げ出した。二人を守るため、もう二度とコリントスの地には足を入れないと。そしてひたすらコリントスから遠ざかった」


 次第に狼狽していくオイディプス。心配した様子で彼の手を握ったのは、妻であるイオカステだった。

 その場面で、成葉の手を握る小秋の手にも力が加わった。

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