第10章 雨禁獄

58話

 “Q.しかし、君はどうして血を飲みたいと思うのかな?

 A.ただ好きだからさ。

 Q.理由はそれだけか?

 A.あぁ……でも、あんたは笑うかもしれないけど、おふくろのそばにいるみたいな気分がする時もあるんだ”


 ──シオドア・スタージョン『きみの血を』



 “おお!吸ってくれ、影よ、恋人よ

 わたしの血の力のかぎり、

 わたしが死のまどろみに落ちて

 愛することができるまで”


 ──ノヴァーリス『夜の賛歌』



 “獅子の胸も両の頬も血に濡れて見るも凄まじい……その獅子の如く、足から上は手に至るまで血に濡れている”


 ──ホメロス『オデュッセイア』



 足をめぐるなぞなぞの答えが出てから数ヶ月が経ち、夏になった。

 なぞなぞの解決に伴い、小秋の自室で本探しに明け暮れることはなくなったが、その後も吸血鬼と傘士の二人の関係値は変わらなかった。足がなくとも、血液配送の契約があったからだ。義足の制作が終わった後もそうだったように。

 これまで、なぞなぞと小秋への違法輸血に専念しすぎるが故に怠けていた仕事に打ち込むべく、成葉は傘士としての務めに励んだ。彼が屋敷に訪れる頻度は落ちたものの、小秋はそれをとがめる真似はしなかった。受験勉強を始めたので彼女も忙しくなってきたらしい。しかし青年が訪れる度、小秋は茶会の準備をして、健気な笑顔と共に出迎えた。

 二人とも、互いの仕事や学業を最大限尊重しながらも会える時は談笑に花を咲かせた。そして二人はそういった日々の中で、九月が来ることを待ち望んだ。

 小秋きっての願いで、あの津吹グループが密かに動いていたのだ。グループ傘下の劇団が、なぞなぞの元になった物語を劇として演じてくれることになっていた。二年前にはこの話は既に決まっていたらしく、成葉は驚いた。

 劇は九月に名古屋にある劇場で行われる予定で、客席は二人だけで貸切だという。劇団側にも練習の兼ね合いがあるため、小秋は成葉がなぞなぞを解くタイミングに気を配っていたそうだ。だが、これらの計らいを成葉は少し怖くも思った。

 本で読むよりも劇で見る方が適している作品だから、と小秋は言っていたが、それだけのためにプロの劇団は公演時期の分からない劇を準備していたのだ。一回きりだから、収益が見込めるものではない。グループが費用を補填するにしても、貸切で一般には非公開の劇である以上、世間の評価にも繋がらないだろう。

 劇団からすれば津吹グループという親会社の意向に従っただけだろうが、その元を辿れば小秋だ。彼女はこの劇となぞなぞでこちらに何を見せようとしているのだろう──と時々、成葉はいぶかしんだ。


『……という経緯から、配血企業のドルー社は沖縄本島の住民の献血だけでは、もはや瘴雨患者向けの全血製剤に使用するO型血液を充分に確保できないとしています。これを受けて──』


 透明な袋に満たされた深紅の液体が減っていく。


『沖縄返還から二年後となる1974年。同年に地域気象観測システムのアメダスの運用が開始され、アメダスによって初めて瘴雨が観測されたのは愛知県でした──』


 二ヶ月に一度の全血製剤を飲む小秋を見守りながら、成葉はラジオのニュースを聞いていた。本に埋もれる小秋の自室にその古びたラジオはあり、瘴雨や災害について似たような情報を繰り返し述べるアナウンサーの声を垂れ流している。


『高濃度の瘴雨が今なお、西日本各地の被災地へ降り続いています。避難所生活を送る地元住民の方たちは雨への不安を隠せないようです──』


「痛ましい災害ですわ……」


 小秋は製剤を飲み干し、口元をハンカチで拭った。


「まったくですね。会社で聞いた話では、西方の配血企業側もこの被害規模は流石に想定外だったらしいです。向こうはかなり混乱しているみたいです」


 製剤の空袋を小秋から回収すると、成葉はラジオのボリュームを上げた。今回の災害に関する情報が多角的に、それでいて一方的に伝えられてくる。

 まだ安否確認の取れない家族がいるという悲痛なインタビューの音声。雨に打たれながらも捜索活動を敢行する自衛隊と配血企業のヘリコプターの爆音。「足が、足が……」と呻く人々の声。洪水による通信断絶、インフラの機能停止。被災地の血液は特にAB型が不足している、と医療スタッフの怒号のような訴え。医療現場では怪我人への通常輸血と、瘴雨患者になった人々への経口輸血が両立できていない。加えて、被災地生活を送る瘴雨患者への義足の確保も急務だと──。

 小秋の顔つきが暗なってきたのを見て、成葉はラジオのボリュームを下げ、最終的には完全に切った。

 室内に満ちていたラジオの音と入れ替わったように、本物の雨音が窓を低く叩く。

 七月十五日、日曜日。あの豪雨災害の発生から約二週間が経過していた。

 2018年の六月末から七月にかけて西日本を台風が襲った。その雨量は地域によっては観測史上最大とも言われ、通常雨のみならず、瘴雨が消えない爪痕を残していた。死傷者・行方不明者も過去の豪雨災害の中でも群を抜いてる。情報は未だに錯綜しているが、少なくとも一千人以上は吸血鬼になったそうだ。本災害には平成三十年度七月豪雨と味気ないものがついたが、破壊力のあった今回の豪雨に対し、報道機関では西日本豪雨という呼び名が浸透している。去年起こった豪雨災害のことなど誰もが忘れるほど、世間は騒がしくなっていた。西日本を活動の拠点とする各配血企業は競うように救助活動へ乗り出し、自衛隊の救助隊がそれに続く形になったものの、今も人手が足りないようだった。全国からのボランティアをかき集めても、怪我人への対応が遅れているらしい。苦肉の策として、国は遠回しに非被災地の配血企業の傘士にボランティアを呼びかけているが、タダ働きするほど彼らも暇ではない。西日本以外の地域の梅雨入りはこれからで、傘士にとっては繁忙期直前なのだ。傘士たちが現場へ赴こうとする空気感は、道をすれ違う他社の傘士たちからは微塵も感じなかった。それはブランデル社も変わらない。日本を東西に分けた場合、ちょうど中間に位置する愛知県を取り仕切る、ブランデル愛知支社であっても。


「……ボランティア、成葉様は行かれるのですか?」


 小秋がそう訊いた。少し躊躇ってから、成葉は憮然とした面持ちで首を横に振った。


「薄情者だと思っていただいて構いません。ですが私たちには私たちの日常を守る務めがあります……。仮に私たちが被災地に行ったとしても、向こうの傘士たちに『仕事を奪うな』と小言を挟まれるだけですよ」

「真実というよりは現実──なのでしょうね。そういった考え方が正しいのは……」


 小秋は顔を曇らせた。彼女の表情は、成葉個人に対するものではなかった。

 困っている遠方の人よりも、身近な人とのありふれた毎日の方が大切だ。それを易々とは認めたくないが、事実だと悟った──そんな自分自身への諦めだった。


「小秋さんは本当にお優しい方です」


 成葉は苦笑した。


「わたくしが?」

「真の優しさは賢明さだと……私は以前、とある人から教えてもらったことがあります。小秋さんはそれを立派に実践されているので」

「……わたくしは優しくなんかありません。成葉様とは違って学生という自由な立場ですのに、自分の日常を選んでしまう人間ですもの」

「あなたは人間ではなく吸血鬼です」


 その一言に、小秋は顔を上げた。


「誰かを満足には助けられないと知っているから、あなたはここに留まるという判断をされています。それは非常に賢いお考えです。もし小秋さんが単なるお人好しの世間知らずだったなら、周りの迷惑も考えずに単身向こうへ行っていたでしょう。助けるつもりが、逆に助けられる羽目になるという予想すらできずに」


 頬を緩ませた小秋は、椅子に座り直す。その顔には笑みが戻っている。


「おっしゃる通りかもしれません。結局のところ、わたくしたちは自分が今出来ることをこつこつとこなすしか……それで良いのかもしれませんね」


 小秋はテーブル上の参考書を持って、成葉に提示してみせた。大学入試の物と気象予報の本だった。


「わたくしは吸血鬼ですもの──外に出て誰かを直接助けることは出来ませんが、天候の面から貴方を支えられるようになりたいですわ」


 曖昧に頷きだけを返し、成葉はさりげなく視線を彼女から外した。

 どうやら気象予報士になるという夢は、賢明なはずの小秋の頭からは外れないようだった。

 本当のところ、小秋が気象予報士になることに成葉は反対だった。予報士とは過酷な仕事だ。気象情報の価値が重い現代の性質上、天候監視のために交代制勤務が当たり前になる。病弱な彼女に夜勤が務まるかどうかは不安要素があった。

 なによりも小秋の動機は──成葉のためだという。その事実が確実な重みを帯びて、当の青年には恐ろしく聞こえていた。


「……ねぇ、成葉様」


 振り向くと、小秋が僅かに首をかしげていた。


「何でしょうか」

「駄目な女ですわ、わたくし……。本当は、貴方がボランティアに行かないことを嬉しく思っている自分がいるのです。貴方が遠くに逃げていかなくて良かった、と……」

「大袈裟ですね。今日もそうでしたけど、小秋さんには血液の配血をしなくてはなりませんから──契約の担当が私である以上、例えどんなことがあっても……あなたからは離れられませんよ」

「……そうでしたわね」


 小秋は椅子から腰を上げ、成葉に抱きついた。本の匂いと彼女の香りがふわりと広がる。


「わたくしも、そうだとは分かっているつもりですの。それでも、いつか成葉様がふっと色んなことを捨ててしまうかもと考えると……」

「どうしてそのような邪推を?私を信用されていないのですか」

「違いますわ。貴方のことを知っているからこそ、つい……」

「つまり、私が信用に値しない人間であることを小秋さんは信じておられるわけで?」


 小秋は成葉の胸元に顔を埋め、苦しそうに「それも違います」とでも言うように首を動かした。理性的な小秋が珍しく要領を得ない様子だった。そんな彼女を見て、成葉は不安になると同時に苛立った。彼女が取り乱す姿を見たくなかった。


「だったら何なのですか?」

「……成葉様には、どうしても被災地に行けない理由が他にあるのでしょう?仕事のためではなくて」


 瓦礫の街中。傾き、倒れる電柱。水に浸る道路。降り注ぐ雨、雨……。

 口を閉ざし、成葉は黙った。


「わたくしが気象予報士を目指したのは貴方がきっかけですし、これからも貴方の隣にいたいからですが……。気象予報士はあくまでもわたくし個人の夢ですわ。嫌な話になってしまいますけれど、例えば──貴方が傘士を辞めてしまってもわたくしは予報士であり続けるでしょう」

「さっきから話が見えませんが」

「失礼を承知で言わせていただきます。わたくしには……成葉様がそういった確固たる志があるようには見えないのです」


 その発言は成葉の図星をついていた。黙る青年の背中に手を回し、抱きしめながら小秋は更に言う。


「貴方はどこか盲目的です。何か特定の目的のためだけに傘士でいるみたいですわ。わたくし、それが怖いのですよ。それさえ終わってしまったら、わたくしの前から居なくなってしまうような気がして……」


 十八年前の雨が、青年の中で降った。

 鎧を纏ったような男のたくましさと、吸血鬼の女の慈悲。『マクベス』と名前──。


「……待てっ」


 突き放すように小秋を引き剥がし、彼女の胸ぐらを掴んだ。仕立ての良いドレスの上で、薄い瑠璃色のブローチが揺れる。それがかつてあの吸血鬼の女がつけていた物だと気づいても、成葉はその上から小秋を掴んで離さなかった。


「あんた、一体……どこまで知っているんだっ?僕のことを……いつから!」


 冷や汗が成葉の首を伝った。

 小秋の身体を揺するようにして、手に力を込める。


「さっさと答えろっ!」


 書物たちの静謐な部屋に、場違いなほど恫喝どうかつじみた声が響いた。

 成葉のことを真正面から見つめる小秋は一向に答えなかった。


「どこの誰から聞いた……?」


 成葉は手を退け、小秋と距離を空けるように一歩ほど後ずさった。


「支社長か?それともポリドリ先生?」

「ポリドリ……」


 けほけほ、と弱い咳をしながら小秋はブローチを大切そうに握った。淡い宝石が雨の日の光を吸い込んで、繊細に煌めく。それは吸血鬼の瞳と似た色をしていた。

 現代の吸血鬼は、吸血鬼化の過程で体内のメラニン色素生成機能に影響が生じるために髪は白く、瞳は青系統の色に変わってしまう。伝説上の吸血鬼も、多くの地域では白髪と青い瞳を持つとされているから不思議なものだ。


「あんたの主治医だ。支社長からもそう呼ばれている──そうだよな?」


 小秋は頷いた。リハビリ施設で働く宇田ですら知らなかった愛称の存在を認めたのだ。


「宇田の奴から聞いた。あんたの医療記録にはおかしな跡がついてるとも」

「そこまでご存知だったのですのね……成葉様」

「そうだ。それを今白状した。だからいい加減、教えてくれないか。あんたは吸血鬼になった正確な時期すら僕に隠している」


 当時、宇田に言われた言葉が今になって現実味を増してきた。成葉は舌打ちした。


「……僕を担当にするための細工なのか?」


 肯定はされなかったが、その逆もない。


「だとすれば、尚更どうしてなのか分からない。契約前にあんたと面識はないはず──」

「成葉様」


 小秋に遮られ、青年は俯く。


「……なんだよ」

「普段のように、小秋とお呼びくださいませ。わたくしにはその名前があるのですから」


 そう言われた瞬間、堰を切ったように成葉の中で激情が膨れ上がった。殴りかかろうとする。体躯のしっかりとした青年のその動作を眺めていても、小秋は微笑んでいるだけだった。

 彼女の笑顔に惑わされて、殴れなかった。本当は目の前にいる少女を殺してしまいたかったにも関わらず。感情が急速に萎えた。振り上げた拳を手持ち無沙汰に収め、成葉はその場で立ち尽くす。


「あんたはいいよな」

「成葉様?もう一度言いますが、わたくしには……」


 小秋が言い淀み、笑顔も暗くなった。反対に、成葉は投げやりに哄笑こうしょうする。


「誇れる名前があるんだろ?知ってる。嫌というほど知ってる。あんたは恵まれてるよ」

「お願いですから、そうご自分を責めないでください。卑下しても何も良いことは起こりませんわ」

「違うね。自己嫌悪に駆られてるだけだよ。生まれた時から恵まれてるあんたには絶対に分からないさ──」

「成葉っ!」


 小秋が声を張った。


「それ以上続けるのなら、わたくし本当に怒りますよ。黙りなさいっ」


 それは芯のある、よく通る声だった。威厳と優しさに満ちた母親のような彼女の叱り声を耳にし、青年は閉口する。

 静かになった部屋の中で、成葉は、言葉は身体の中から何かを吐き出すものだと理解した。口を閉ざしてしまうと、両目から溢れるものはどんなに我慢しても止められなかったからだ。

 何も言わず、憔悴しきった成葉は小秋の足元で両膝をつき、深く頭を下げた。

 正座という言葉が足に関係する不適切な表現として規制される時が来るとするなら、土下座だっていつかは規制される言葉なのかなと、ふと思いながら。


「大きな声を出してしまってごめんなさい。泣かないで……成葉。貴方が泣いていると、わたくしも悲しくなりますから……」


 頭上から、瑞光ずいこうのように差し伸べられた小秋の白い手には応えられなかった。

 成葉はただ顔を突っ伏し、小秋という吸血鬼の義足のつま先を濡らし続けた。よく磨かれた銀色の足に水が跳ね、光を跳ね返す奇妙な鏡たちが生まれる。それらに歪んで写った自分の顔は、成葉には酷く小さく、幼く見えた。

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