57話
「最後まで解いてくださって──成葉様、ありがとうございました。加えてとても面白いお話まで聞けたので、わたくし何と言えば良いのか……」
「あの、それについてなのですが……もしかすると私の解き方、違ってましたか?」
「いいえ?むしろよく出来た正解だったと思いますわ。ただ、本来の解き方はもっと簡単ですの。朝は赤ん坊、昼は成人、夜は杖をつく老人……つまりこれは人生をなぞった問題なのですよ」
思わず成葉は吹き出してしまった。
「な、なんだ……そんなシンプルな問題だったんですね。なんだか私が難しく考えすぎたみたいで馬鹿馬鹿しいような……」
「そう後ろ向きに考えてはいけませんよ。面白いお考えを聞けたので、少なくともわたくしにとっては無駄ではなかったですから」
小秋は薄く笑うと、表情を改めた。彼女はベッド上で姿勢を整え──正座し、一礼した。
「成葉様、本当にありがとうございました。これで準備が整いました」
「え?準備って……小秋さん?」
「もっと早い段階で解いてしまったらどうしようかと不安だったのですが、反対に遅くなっても皆さんにご迷惑がかかりますから──。かと言って、成葉様を急かす訳にもいきませんでした。でも今、貴方は解いてくださいました。わたくしが高校を卒業する前の……ある種の区切りになる時期に……ですから、わたくしとても感謝しておりますの」
「何を──」
「貴方、本当は最初から知っていたのでしょう?」
夜の静けさに、雨音が深く沈んでいる。
「正直に答えてください。実は問題を……二年前のわたくしの誕生日、名古屋のケーキ屋で、お父様からプレゼントにいただいた本から出したこのなぞなぞを……もう、あの時には解かれていたのですよね?」
その問いかけに対して、成葉は懐疑的になった。
「いえ……?私は当初もこれまでも、なぞなぞは全く分からなかったのですが」
「嘘ですね。貴方なら無意識には分かっていたはずですわ」
「そう問いただされても……私が嘘をつく理由がありません。イルカなのか、魚なのか、それともスフィンクスなのか迷ったぐらいですし……そもそも」
「そもそも?」
「問題よりも謎だったのは、どうして小秋さんがこの問題にこだわるのか……そっちの方でした」
「……本当に、ですか?」
小秋の瞳の奥で、
嫌疑?
成葉は首肯し、小秋の足から手を離す。
「小秋さんが私になぞなぞを解かせて何をしたかったのか。これから何をしたいのか。それに、今も怖いのです。なぞなぞを旅人に出し、答えを出されたスフィンクスのように、小秋さんが私の前から姿を消してしまわないか……」
「それは絶対にありませんわ。見かけによらずとても心配性ですのね、貴方は……可愛いらしいですこと」
そう言うと、あろうことか小秋は右足のストッキングを脱ぎ始めた。数秒もせず、魅惑的な白い生足が露わになる。
吸血鬼の突然の行動を目前に、青年は思考ごと硬直して動けなくなった。
成葉の手をとって、小秋は鷹揚に彼の手を自らの足に触れさせた。強制的に手で足全体を這わせられる。しっとりとした女の素肌の感触が、古い蓄音機の要領と同じく、成葉の手を通して全身へ刻み込まれていく。
「小秋さん……何のおつもりで?」
「欲しいのでしょう?この足が。正直に申してくださるのなら、わたくし──成葉様になら差しあげますわ」
咄嗟に身の危険を感じ、抗おうとする成葉だったが、小秋に力負けした。振り払えなかった。これまで回復していた体力は一時的なもので、なぞなぞの考察を語り尽くしている際に使い切っていたのだった。
身体障害を患う年下の少女に腕を掴まれる。耳元に彼女の湿っぽい息が当たった。
「何度お伝えすれば分かってくださるのです?素直になれないのも真面目なところも……貴方の魅力ですけれど、過度になるとそれらは間違いなく悪徳となってしまいますのよ。ですから無理に我慢なさらないで」
「待ってください!小秋さんの足はお綺麗ですし、さっきは私から触ったのは認めますが……何も、欲しいだなんて」
「あら、貴方は欲しくもない女に手を出す人間でしたの?違いますよね?」
「……それは、でも」
「うふふふ」
小秋は嬌笑の声を上げた。艶っぽい笑みだった。
「吸血鬼は招かれない家には絶対に上がれないのですよ?」
それは前回、小秋がこの部屋に来た時に教えてきた吸血鬼の伝承だった。
「わたくしに来てほしくなかったのなら、お父様や上司の方に頼んで、風邪をひいたことをわたくしに漏らさないよう出来たはずです。けれど貴方はそうしませんでした。わたくしがここに訪れる隙をあえて作っていたんです。貴方自身のご意思で。チェーンロックをかけていなかったのだって──」
「……それはただ忘れていただけで……。風邪のことだって、まさか小秋さんがいらっしゃるだなんて思っても……」
狼狽しながら成葉は否定した。しかし、彼は小秋の言っていることを真っ向から言いがかりだとは切り捨てられなかった。
玄関の鍵に関しては、熱のせいで記憶が曖昧だったが、たった今思い出したことがあった。チェーンロックは一度かけたが、成葉は自分で外していたのだ。
欠落していた記憶──吸血鬼の夢を見る前、成葉は喉の渇きで起きた。
元々、本を読むために仮眠で済ませる予定だったのだからそれも当然だ。起きた時には既に風邪のひき始めだったらしく、重くなった身体を不思議に思いつつも、台所で水を一杯飲んだ。雨の勢いを見るために玄関の扉を開けた。雨は通常雨だが量が酷かった。凄まじい雨を前にして息が詰まった。まさかとは思うが、近くの川が氾濫したり洪水が起きるのではないだろうか、と危機感を持つほどに。そのため、万が一の時に備えて扉のチェーンロックを外したのだった。もし誰かがここに来ても動けるように。
ホメロスの『イーリアス』を読み直したのは正確にはその後だ。そこから夢を見て、午前三時にまた起きる。熱のせいで今まで誤った記憶が作られていたのだろうか。
小秋に導かれるがまま、成葉は彼女の足を触る自分の手を見下ろした。ぼんやりと熱のある頭が考え出す。
もし誰かがここに来ても動けるように──。それは誰のつもりだったのだろう?危機に陥った自分に助けに向かってきくれる人物に、誰を想定していたというのか?
高田だろうか。違う。彼は友人ではあるが同僚に過ぎない。彼が気にするのは、仕事仲間の成葉という社員の安否だ。宇田や課長もポリドリもそうだ。観測課の同期たちも、他の傘士の仲間たちもきっとそうだろう。彼らは義理で助けに来るだけだ。
では津吹支社長はどうだろうか。彼がどう動くのかは分からなかった。
そうなると、日頃の人間関係において、窮地の際に本心から成葉の無事を願って来てくれる可能性のある者は、小秋しかいなかった。
暗い部屋の中で、貧弱な金属のチェーンを外す音が何度も響く。
──昨夜のあの時、私は……心のどこかで小秋さんが来ることを望んでいたのか?
自問する青年をよそに、吸血鬼の足の肉の手触りが心地よく流れてくる。
「女とは足ですわ」
小秋が羞恥を
「わたくしたちは常に足を閉じていなければいけません。歩き方だって、貴方たちと比べれば閉塞的なものになります……。古代エジプトでは、女性は靴を履く習慣がなかったそうですよ。これは女性を家の中に閉じ込めておくための風習でした。似たものに、
手の動きが止まる。
呼吸と雨音。心音と息遣い。意識を傾ければ、互いの血が巡る音さえ聞こえてきそうなほどだ。
「古今東西、足を許すことは……わたくしたち女にとっては全てだったのですわ。成葉様、はっきりおっしゃって?わたくしの足が欲しいと。わたくしのことが欲しい、と」
生唾を飲み込む。吸血鬼は美しかった。その足は義足も含めて、美以外の何物でもなかった。
それでも青年は、眼前の吸血鬼から逃げ出したくて仕方がなかった。ここが自分の唯一の家であろうが、それすらもどうでもよかった。
ミケランジェロの彫像に血が通っていて生命があるのならば、確かにそれは素晴らしい。だが、目の前で実際に彫像が動いて、こちらに語りかけてきたとしたどうだろう。青年が吸血鬼に指先まで魅了されながらも、彼女を抱きしめられないのは、これと同じ不安感を拭えないからだった。偶像は偶像でなければならない。しかし、ここで本当に逃げて、吸血鬼との関係が崩壊するのも彼の本望ではなかった。
「わたくし、朝まで迎えの車を呼ぶつもりはございません」
小秋はきっぱりと口にした。
「……では、どうされるのですか」
そう訊ねた瞬間、吸血鬼が身体を寄せてきた。体重を青年に預けてくる。首元に鋭い痛みが走った。受け止める力もなく、ベッド上に押し倒される。
成葉の視界には天井が映った。カーテンの隙間から差し込む夜の光は、朧気で美しかった。光はガラスの水滴を影として克明に写し取り、天井に投影していた。水の底にいるかのように思わせてくる影絵。以前に水族館にて、小秋と眺めたイルカがそこにいた気がした。
吸血鬼になる方法を思い出す。水に溺れて死ぬことだ。
吸血鬼が川を渡れない理由を成葉は悟った。
それはトラウマだ。小秋は大層な説を語ったけれど、考えてみればあのなぞなぞよりもシンプルだった。水に溺れて死んでしまい、蘇った吸血鬼が流水の上を渡れるわけがないのだ。あまりに恐ろしいから……。
首元で血を吸っていた小秋はそれを止め、成葉の視界に現れた。彼女の口元は真っ赤に汚れていた。青い瞳には生気が戻っているが、上品な白い服には血の染みがついてしまっている。成葉はそちらに腕を伸ばす。小秋は青年の腕を両手で絡めとって、彼の手首に甘噛みした。吸血鬼の牙が今にも皮膚を貫きそうだった。
「今はこれで我慢しますわ。貴方のお身体の具合も完全には治っていないようですし……」
「すみません」
「あら。一体何を謝られたのです?」
「……臆病者で、小心者で」
成葉は消え入る声で言った。
ふっと力が抜けたように小秋は寝転んだ。ベッド上に二人が並ぶ。
「今夜は見逃して差しあげますわ。けれど成葉様……いずれ、貴方はわたくしのものになります。その時は大人しく、わたくしを抱いてくださいね?」
鍵がそうであったように、またもどこからか小秋は何かを取り出した。止血用の包帯と塗り薬だった。寝転んだ状態で、小秋は成葉の首元を丁寧に治療した。
「それはそれとして、病弱な時に血を吸ってしまって……わたくしの方こそごめんなさい。ですが、こうでもしないと貴方には分かっていただけませんでしたから」
何を、と
「小秋さん。準備が整ったとおっしゃっていましたが、あれは何のことですか?」
「劇団の件ですよ」
小秋はにっこりと笑みを浮かべた。
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