56話
月が輝いている。
流れの早い雨雲の隙間から途切れ途切れにその光は零れ、街を淡く照らしていた。厚く巨大な雲が過ぎると一時だけ月が完全に隠れてしまい、雨音が強くなった。雨はここ数日、止む気配を見せない。
ベランダのガラス戸から夜の空を仰ぐ成葉は、頭の位置を少し直した。ベッドに寝そべる青年の枕になっているのは小秋の生足だった。
「お月様が綺麗ですわ」
小秋が語りかけるように呟いて、成葉の頬に手を添えた。
「そうですね」
ほんの短い沈黙があった。
何かと思って成葉は視線を小秋に移した。彼女は肩を下げて、軽いため息混じりに成葉の頬をつまんだ。少女の指によって、青年の硬い
「ムードのない人ですこと」
「……すみません」
吸血鬼は、つい今しがたの返事が気に入らなかったようだ。あなたの方が綺麗ですよ、とでも返されたかったのだろうか──。
おかしくなって、成葉は小さく笑った。自身の頬を摘んでいる小秋の手に触れる。オペラグローブ越しにも、細い指たちは労働を知らない女性のそれだと分かる。
「小秋さんと夏目漱石の話をするとは思いませんでした。いつだって、私たちは西洋文学一辺倒でしたので……」
「そうかもしれません。あら……大分、お話できるようになったのですね?」
「起きたばかりの時と比べたら楽になりましたよ。これも小秋さんのおかげです」
「ありがとうございます」
数時間ほど前、小秋の粥を食べた後、成葉は何故だか涙が溢れた。おろおろと当惑する小秋を落ち着かせてその場はごまかしたが、彼女の勧めで休むことになった。
涙の理由は成葉にとって、打ち明けられるものではなかった。それは小秋の信頼を破壊するものだったからだ。だが、客の前で涙を流したのに変わりはない。いたたまれなくなった成葉は、小秋には迎えの車を呼び、もう帰宅するよう促したが、彼女は病人を泣かせてしまったという思い込みと罪悪感に苛まれていたらしく、毅然と拒んだ。
そして、つきっきりの看病の代名詞とでも言わんばかりに膝枕を申し出てきた。
食後、小秋が寮に来る際に持ってきていたスポーツドリンクや解熱剤をもらった。そのおかげでかなり楽になったが、依然として身体は疲れていた。小秋も一向に帰ろうとしない。
成葉は迷いながらも小秋の足を借りることにした。黒いストッキングに覆われた彼女の右足は冷たかった。元々冷え性なのか、それとも吸血鬼化の軽い後遺症なのかは知る由もなかったが、熱の余韻が残る身としてはありがたかった。
途中から小秋が座り方を女性らしく崩したので、膝枕というよりかは抱き枕に近い姿勢になった。冷たく血の通った右足と、血のない人工の左足。それらを成葉は抱いた。今にも接吻の雨を降らしたいほど愛おしい足たちだった。身体に浅くタオルケットをかけ、成葉はうとうととしながら安静にして回復を待った。そうして今まで、小秋と一緒に月を見ていた。それは言いようもなく不思議で幸福な時間だった。
足を貸す吸血鬼と、彼女の足にすがるようにして横たわる青年。遠目には母子にも見える。
少し前から、小秋の片手には開かれた文庫本があった。成葉の頬を
視線を察したように小秋はその本を閉じた。
「夏目漱石は、時代ごとの言葉遣いを如実に反映した作家としてその名を知らぬ者はいませんが……」
小秋がぽつりと言った。
「ひとつ面白い逸話がありますの。漱石の全著作をどれだけ調べても、とある言葉が全く見当たらないそうなのです」
「何でしょうか、それって?」
「正座、ですわ」
「……正座?」
「そうですよ。かしこまって座る、などのそれらしい記述は確かにあるのですが、漱石は正座という表現を一度も使ったことがないのです。意外に聞こえるかもしれませんが……正座は、彼の時代以降に広まった言葉なのですわ」
成葉は目を見開いた。
畳文化の日本において、「正座」という表現は江戸時代でも使用されていたとばかり思っていたが、決してそうではなかったようだ。
「よくそのようなマニアな話をご存知で。小秋さんは漱石がお好きで?」
「お恥ずかしいことですが、実はあまり……」
小秋は首を横に振った。
「そうなのですか?」
「嫌いという訳ではありませんけれど……わたくし、日本文学全般にそう詳しくありませんの。このお話はお母様からの又聞きですわ。お母様は色々な事柄に精通されていましたから」
お母様。彼女の口からそう聞いてしまい、成葉は黙りそうになったが、会話を続ける。
「……小秋さん、おっしゃっていましたよね。猫より犬派だと。『吾輩は猫である』とはいかない訳ですね」
「ふふ、お上手ですね」
小秋は内緒話をするように微笑む。
その時、遠くから犬の遠吠えが聞こえた。野犬なのか、足の不自由な吸血鬼の介助犬なのかは不明だが、二人の耳にはっきりと届いた。
雨雲に邪魔されつつも輝く月を見上げた。よく見ると今日は満月だった。小秋はうっとりと、
「もしかしたら今の……狼男かもしれませんわ」
その一言で、成葉の意識は明瞭になった。
雨の中、墓場から寮へと引き返す時に思案した全てのことを思い出したのである。
月は水の惑星。それらに惹かれながらも、水を嫌う者たちのことを。人の
「あの、小秋さん。急ですみません。話は変わりますがいいですか」
おずおずと切り出した。
「何でしょうか」
「なぞなぞの答えって──人間ですよね?」
「……そうお考えになった理由を教えていただけます?」
小秋は笑うのを止めた。その目は感情を読み取らせる余地のないほど、暗く濁っていた。
それは、これまで成葉が出してきた答えに対する反応とは明らかに違っていた。成葉は確信した。やはり、あのなぞなぞは文面通り「足」をどう解釈にするかにかかっているものだったのだと。そして、自分はついにそれを紐解いたと。
「私は……ずっとこのなぞなぞの意味が分かりませんでした。足の数が一日の間に変化するものなんて、聞いたことも見たこともなかったからです」
咳を挟み、成葉は言葉を接ぐ。小秋の足がもぞりと動く気配がした。
「でもある時、私は気づいたんです。朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足……。これは一日の時間感覚ではなく比喩で、本当は人間の進化の過程そのものだと」
「進化の過程、ですか?」
小秋は意外なことのように眉を上げた。
もしかしたら小秋が予想していた解き方とは違っていたのだろうか。成葉は不安になったが、答えが誤りだとも思えなかったので、深く頷く。
「ホメロスの『イーリアス』を読んで分かったのです。あの素晴らしい叙事詩には、ヘパイストスという工芸と冶金の神が武具を作る場面があります……親友を亡くして悲嘆するアキレウスのために、彼の母親であるテティスがヘパイストスに依頼し、新しい武具を揃えるという筋書きが。小秋さん、そうですよね?」
「ええ。わたくしも『イーリアス』を愛読していますもの、分かりますわ」
小秋は無表情気味に返した。逡巡したように、やがて彼女は「そして」と呟いた。
「ヘパイストスは足が悪かった……という話は有名ですね」
「そう、小秋さんのおっしゃる通りです。面白いことに、足の悪い彼はある時──自律して動く三脚釜を作った。なんでも三脚釜は神々の集会へと転がり、用を済ませると戻ってくるそうです。私はこの場面を思い出し、昨夜繰り返し読んで確信に至ったのです。古来より、技術は人間の足の代わりだったと」
語っていると次第に身体の底が熱くなり、成葉は小秋の足から離れ、上半身を起こした。小秋と目線を合わせる。
それなのに、いつしか小秋の方が俯いた。なんとなく気を削がれそうになるも、成葉は彼女に解説をぶつける。
「技術は足だったんです。それに技術の語源は、ギリシャ語で、芸術の語源と同じです……。雨の国であるこの日本において、技術と芸術を合わせた足は──『傘』に他なりません」
成葉は楽になってきた身体をベッドから降ろした。小秋が気遣うように手を差し伸べたが、それを無視し、青年は部屋中に置かれている作りかけの義足を一本取り出した。
その義足を杖代わりにして、紳士風な佇まいで数歩だけ動いてみせる。
「私たちが生まれる前……瘴雨が降っていなかった頃、全身を雨から防ぐ必要はまだありませんでした。
成葉は義足を元あった位置に戻し、小秋へ振り向く。彼女と目が合った。その瞳は不安そうな色を放っている。
窓から雨音が垂れた。スコールのように激しくなってきたようだった。小秋の元に戻り、成葉は彼女を諭すようにまた続ける。ベッド上でまた、その足に触れる。小秋は受け入れてくれた。成葉はそれが嬉しかった。
体を横にはせず、小秋の足に手を置いて座ったまま話す。
「……それで、瘴雨がない時代……雨上がりになると人々の足が一本増えました。雨の後、使わなくなった傘を杖代わりにするからです。私たち傘士は、義足という足を……義足という傘を作る人間です。義肢装具士のことを傘士と呼ぶスラングは、何も私たちが雨の中を移動するから……それだけの意味ではありません。持ち得る技術によって、足の代わりになる傘を作る人間だったから──その名前が出来たのでしょう。調べてみましたが、傘士に該当する言葉は日本以外の配血企業では見かけませんでした」
成葉の頭では、とある記憶が蘇っていた。
小秋の義足を作る際、椅子に座る彼女の足元に
『シンデレラ』の貧しい主人公の女性は、魔女の魔法でガラスの靴を獲得し、それを駆使して王子と結ばれる。
『人魚姫』の主人公の人魚も、これまた魔女の魔法で声を失う代わりに人間の足を獲得し、目当ての王子へと近づく。もっとも、魔女の魔法が存在しなくとも、現代にはそれよりも遥かに万能な技術がある。
日本では昔、
どんな時代や地域においても、技術は確実に人間の優れた「足」となったのである。それはモノの流通を支えたという意味ではなく、人間そのものを支えたという意味においてだ。
ギリシャ語にルーツを持つ
たしかに人類は自ら野生の「足」を失った代わりに、「手」を得た。それで技術を紡いだ。この事実は否定できない。人類史を遡れば、「手」の出現は必然的に「足」の喪失を意味する。四足歩行だった動物が二つも末端部位を地面から消したのだから。しかし、人間は自然からは離脱しきれなかった。エッフェル塔は人間の大腿骨の構造を模倣している。音速を超える戦闘機も元は鳥類の翼だ。強靭なワイヤーは蜘蛛の糸を手本としている。時代と共に扱う技術が向上すればするほど、却って人類の技術の産物たちは、まるで元の姿に還るかのように自然を参考にしたものばかりになっていった。
大昔に人類が獲得した「手」は──出来損ないだった。現代に至るまで、あれほど人類が野蛮だと罵ってきた動物たちの身体や特性という「足」を人工的に再現し、せいぜい拡張する程度に留まったのだから。
人類は優れているから発展し、この地球を支配できたのではない。それは断じて違う。むしろ、他の動物たちよりも多方面で劣っていた。言わば人類は、自然という「足」を無くしたコンプレックスに苛まれる、野卑な猿でしかなかったのである。
朝、誕生したばかりの人類は四本足だった。
昼、「足」を捨てた人類は二本足になった。
夜、「足」を人工的に再現した人類は三本足になった。
あの雨の夜、成葉はそうだと気づき、ついになぞなぞを解いたのだった。これは人類全体への問いかけなのだ、と確かな考えを持って。
「……どうでしょうか?」
全ての考察を話し終えると、成葉は小秋の顔を
「正解ですわ」
息を呑んだ。小秋のその言葉で、成葉は救われた気になった。
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